映画化『つむじ風食堂の夜』作者吉田篤弘のおすすめ作品ランキングベスト5!

更新:2021.12.3

吉田篤弘は東京に3代続いた江戸っ子として生まれます。落語や芝居が好きでそれは文章にも影響しています。軽やかですが寂しさを感じさせる作品が多く、装幀デザインの繊細さと合わさって一つの独特な世界を作っています。

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温かな視点から人々を描く作家、吉田篤弘

吉田篤弘は1962年東京に生まれました。小説を執筆しながら妻の吉田浩美ともに「クラフト・エヴィング商會」の名義で執筆と、書籍や雑誌の装幀を数多く手がけています。

彼は子どもの頃から小説を書いていましたが、本格的に小説を書こうと思い立ったのは、10代後半の頃に唐十郎(アングラ演劇の旗手とされ‘82年芥川賞受賞)などとともに村上春樹の初期作品群や「僕」3部作を読んでからと言っています。

当時のハードボイルドな空気感の中でバーやカフェ・バーといった横文字の洒落たお店が現実にも物語の舞台としても出始めた頃でした。まさか自分がバーやホテルなどではなく食堂という舞台を選んで作品を書くことになるとは思わなかった、と本人も邂逅しています。

しかし彼の作品には食堂や商店街など、昭和を感じさせるようなあたたかな場面が多くみられます。ほのぼのとした人々のふれあいから、孤独と孤独が出会うような寂しさが描かれ、郷愁を誘われる場面が多い彼の作品。しかしただ古い時代を懐かしむだけではなく未来を見つめた温かい眼差しと冷静な分析を持って書かれています。

それは、自著に登場する様々な品々を「ないもの、あります」を謳い文句にして様々な手法で具現化し、それを商品として販売しているところからも見られるように、過去からきたものを新しいものとして生まれ変わらせ、それを広く普及させようとする気持ちからきているのかもしれません。

そんな江戸っ子風味な気風の良さと寂しさが同居する、吉田篤弘の作品をご紹介します。

食堂を舞台に吉田篤弘が織りなす懐かしい物語

吉田篤弘の処女作にして著者の出世作『つむじ風食堂の夜』。先生とよばれるちょっと気弱な主人公が食堂で出会った人々と織りなす日常が舞台です。1章ごとに胸が温かくなるエピソードが書かれていますので、短い時間でも気軽に読める作品です。

著者
吉田 篤弘
出版日


先生は背の高い舞台女優や星が好きな果物屋の青年たちと交流しながら、毎晩つむじ風食堂へ通います。先生は仕事のかたわら独自に雨を降らせる研究をしています。エスプレッソマシーンが蒸気を発生させる特性を応用して雨を降らせる「人口雲製造機」ができないかと想像しているのです。

「人々はコーヒーを飲みながらテーブルの上に浮遊する雲を鑑賞する。人口雲とて、たちこめれば当然雨にもなる。雷が鳴る。稲妻が走る。やがてテーブルの上で森羅万象が始まる……」(『つむじ風食堂の夜』より引用)

もちろん先生はこんなことを本気で考えているわけではありません。行き過ぎた妄想だとすぐに現実に引き戻されまですが、またなんてことのない出来事から新しい発見をしたり想像を膨らませ始めます。

先生の見ている世界というのは驚きと感動に満ち、ありふれた日常がとても楽しく愛おしいものとして姿を変えます。先生の目線で書かれた世界がほんのちょっぴり楽しいものに感じられるはずです。

ではひたすら平和な世界で夢見がちな人生を送るだけの作品なのかというと、そんなことはありません。先生の亡くなった父の思い出や残された小説、食堂に集まる人々が年をとって得た持論や信念、青年の胸に秘められた人生の大きなテーマなど、それぞれのエピソードが作品に深みを与えています。ちょっと日常に疲れてしまった時などにぜひ読んでもらいたい作品です。

1人称で語られる物語の魅力とは

3編から成る『百鼠』。表題作「百鼠」は、小説を書こうとする人の意志とは別に物語を進行させて書かせる第3の存在が主人公です。こう書くと難解で取っつきにくく感じられるかもしれませんが、ファンタジーの要素もあり、天上に暮らす登場人物の設定なども合わせて楽しく読んでいただける作品です。

著者
吉田 篤弘
出版日
2009-10-07


百鼠という場所には作家に物語を語り、書かせる朗読鼠がいて、それが地上のあらゆる小説を書こうと決めた人に物語を語ります。小説を書いている人々は自分で書いているようで、朗読鼠の語る言葉を書いているだけなのです。

しかし百鼠では3人称、いわゆる第3の視点でしか語ることができず、1人称の使用も閲覧も禁止されています。そのなかで1人の鼠が密かに1人称に惹かれ、葛藤し、やがて手助けを受けながら地上へと向かいます。鼠とはいっても人間の姿をしていて普通に仕事をしながら生活していますからすんなり物語に入っていけますよ。

第3の視点は神の視点ともよばれ、いわゆる神にあたるすべてを見渡せる視点でしか鼠は物語を語ることが許されません。そしてそれだけに止まらず、日々の中でも「ぼくは」「わたしは」と一人称を使用することを禁じられているのです。

では神の視点とは誰の視点なのでしょう。逆説的ですが物語を書くときに主観的な思いを入れずに起こったことだけを書くならば、あらゆる現象をすべて余さず書くことになります。

でもそうはなりません。物語に必要なことだけが選択して書かれますので、そこにはやはり主観的な思いが込められているのです。ここに矛盾を感じ、語り手としての迷いが生じた鼠が、魅力的な登場人物たちとやりとりする様子がドラマチックかつコミカルに書かれています。

また百鼠は100種類以上の灰色でできていますが、地上に下りた時に鼠が初めて見る景色の鮮明な色の描写が地上の美しさを伝えてきて、著者の表現力に驚かされます。

答えのない問いに迷ったとき、どうすれば納得できるようになるのか。この解決法を求めるところがこの作品に奥深さを与える要素になっています。朗読鼠などたくさんの造語もそれぞれ意味があってユーモアがありますし、きっと読み始めたら止まらなくなることでしょう。


そして2作目の収録作、「一角獣」。男女のいざこざを取り扱っているにもかかわらず、自転車の持つ自由のイメージが生き生きと書かれ、読後感が清々しい作品です。

長年付き合っている彼女と結婚に踏み切れないモルト氏が一本の角のある自転車を拾います。それを修理して乗ってみるとまるで自転車に意志があると感じるほど、自転車が色々な所へ連れていってくれるように。それと同時に自転車乗りが楽しかった6歳の頃の自分が甦ります。ある日、モルト氏の妹と、ガールフレンドの兄の結婚話が突然持ち上がり、ガールフレンドは怒って連絡がとれなくなってしまいます。

ガールフレンドが言うにはモルト氏と彼の妹はとてもよく似ているそうです。そして大事な時に行動できない自分と、一度決めたら必ず計画し実行する兄とは全然似ていないと。そんなふたりが出会ってすぐに結婚を決め、モルト氏が嬉しそうな顔を呑気にするものですから彼女が怒ってしまうのも無理はありません。そして彼女と会えなくなってしまったことで、モルト氏は今まで彼女がどれだけ尽くしてくれていたか気付きます。

モルト氏は楽天的で無計画な性格ですので結婚せずにこのままでいたいとどこかで思っていたかもしれません。でもその考えを見透かした6歳のモルト氏が自転車の荷台に現れて泣きだします。なぜ泣くのか問うとこう答えます。

「だって僕はあんたになるんだよ。あんた以外のだれにもなれないんだから」(『一角獣』より引用)

かつて黄金時代だった幼い自分に言われた言葉だからこそ、胸に突き刺さる言葉でした。ラストシーンではモルト氏は大きな声を張り上げて彼女を乗せた自転車を漕ぎ出します。「行こう」と。このセリフは自転車に向けて言ったもの。

こぎ足したその時には彼女との関係に明らかな変化の兆候は見られません。でもモルト氏は6歳の自分を思い出したのできっともう彼を泣かせるような真似はしないでしょう。この作品を読んで、かつて自転車に乗ることが純粋に楽しかった子供時代を思い出してみるのもいいかもしれません。


最後の収録作品は「到来」。この物語の主人公は、コンプレックスがあり、いつも足踏みばかりをしているような女子大生です。彼女は自分の誕生日に作家の母が住む家に里帰りをします。

その途中、倹約家の祖母の教えに反して貯めたお金で憧れのホテルに泊まったり、昔から怖い雷様の像を克服しようと見に行ったりします。主人公はある時から自分が小説家である母の作品の登場人物になっていることに気付きます。そしてそれに嫌気がさして母の書く本は読まないようになってしまいました。

怖いものがあると新しい世界に出ていくのをためらってしまうことがあります。表面的にその恐怖に反発してみせても、やはり恐れから行動は起こせず自分の殻を破れない。この主人公も怖いものやコンプレックスが足かせになってなかなか一歩を踏み出せません。コンプレックスがあるから、同族嫌悪で自分に似たものに苛立ちを覚えます。母の本の登場人物もそうです。

しかし主人公は、里帰りで怖いものに挑戦し、その度に拍子抜けするくらい簡単に乗り越えられます。そして一歩踏み出した先には新しい発見があり、きれいなものを見たり心地いい体験ができたりします。

この小さな旅を通して、主人公は変わることへの怖さに向き合う勇気を身に着けるのです。そしてそれと同時に変わらないものがあってもいいと、まだ怖さを感じる自分のことも赦せるようになります。否定していたものを受け入れられるようになる瞬間の成長を書いた作品です。

また、もう一つ書くと題名の「到来」とは母の小説にたびたび出てくる言葉です。勝手に娘をモデルに小説を書きながら、何も言わずに娘にその時が訪れるのをずっと見守っていたという、わかりにくい母の愛情も見どころです。

凍った言葉が解凍される時、甦る言葉とは

北の街キノフでは人の発した言葉が凍り付き、「パロール・ジュレ」と呼ばれる結晶体になります。主人公のフィッシュは諜報員としてその仕組みを探り出し報告する任務を受けました。それを阻止しようとする刑事の追跡をかわしながら、街の謎を解いていきます。その中で様々な思惑が交錯し、徐々に真実が明らかになっていきます。

著者
吉田 篤弘
出版日
2010-03-27


刑事のもとでは日夜、「パロール・ジュレ」が4人の「解凍士」によって解凍され、言葉についての議論が交わされます。これだけでは刑事の行動の意味がよくわからないと思いますが、まさにそこがこの作品の肝であり、最後に隠された秘密になります。

もう少し書くとこの刑事は「パロール・ジュレ」の秘密を知っています。ですがそれを
神秘のまま保持したいと考え、それこそが自分の仕事であると決めているのです。

この地は地味で古風で誰もが親しみやすい街でした。その土地が争いにより分断され今は自由な越境が禁じられているのです。対立が続く地域に住む人々の言葉は凍り付きます。孤独な時代に言えなくて飲みこんだ言葉や小さなつぶやきが「パロール・ジュレ」になり、解凍士に解凍されるのを待っているのです。これは現実でも起きていることの比喩でもあり、作者からの一つの問題提起にもなっています。

様々な思惑と疑心暗鬼から始まり、利害関係などにより終わりが見えない争いが起きた時、誰もが抱えて言えない言葉があります。「もう終わりにしよう」。この言葉が言えずに意味のない争いを続けている場面は往々に現実でも見られます。

また、世界は変化し続けますが、中には変わらずに今の質素な暮らしを静かに続けていきたいと望む人もいます。新しいものを求め変化を求め続ける人々の陰で、時代の流れに乗れず変わりたくないと望み孤立する人たち。そんな行き場を失って吐き出された言葉は、私たちに本当に大切なものは何かという問いかけをしてきます。

この作品は全編を通して不思議な魅力を持つ街の様子や登場人物の心情が丁寧に書かれています。実はそれが物語の伏線となっており、秘密をめぐる秘密のような多重的な謎をもたらします。章ごとに話し手が変わり、過去から現在と様々に場面を変えるためなかなか複雑な構造ではありますが、独特の世界観とともに伏線を回収してラストに向かう展開についつい最後まで読んでしまうことでしょう。

電球交換から人と自分の闇を照らす

不死身の男、十文字が特殊な電球を交換する仕事をしながら、関わる人々を通して自分の内面を詳らかにしていくことを軸に書いた作品です。

十文字は、電球交換をして思いがけず人々の隠された部分に遭遇します。皺だらけの千円札を枕元に積み上げたお爺さん、結婚詐欺師の引っ越し、映画館の女館主の殺人……。

著者
吉田 篤弘
出版日
2016-01-26


一方で、電球は人の生き方を指し示す役割も果たします。父親の跡を継いで活版印刷屋の店主を務める春ちゃんは、作業台で北極星のように頭上の高いところにあった小さな光を「家業を続けていくための信念」の目印だと言います。

十文字印の特殊な電球には秘密があり、その秘密を巡るミステリー展開も見どころ。存在を匂わせながら姿を見せない何者かに十文字はつけ回されますが、最後に明かされるその正体は、さらに意外な展開を運んでくるのです。

さらに登場人物たちはみな風変わりで、それぞれにエピソードがあります。そのどれもに謎が隠されており、大きな衝撃はないですがパズルがはまるような爽快さを感じられることでしょう。

十文字は精神科医のアスカに憂鬱の原因を世で求められている、永遠に切れない電球だとします。それが自分の仕事を失わせることになるためだと分析しますが、アスカは他の原因の可能性を示唆するのです。その精神科医はさらに深いところにある十文字の心理を陽の目にさらそうとします。

繰り広げられる人間模様の中でそれぞれの恋の予感も含みつつ、この作品は永遠に切れない電球と対比して、有限だからこそ今しかない時間が美しいのだということについて考えさせてくれます。

比喩か寓話か詩のような物語

最後にご紹介するのは、美しくも奇妙な短編集『ガリヴァーの帽子』です。表題作「ガリヴァーの帽子」は額の真ん中に一本の角があるFが無人島を訪れるところから始まります。実は彼の祖父にも同じ角がありました。

「影の主が消え、誰の目にも認められなくなった残り香のようなものを、祖父は額の角で探り当てては、『ここにあり』と指差した。指差したものが語るに値すれば、影に宿った声に耳を傾け、とうに消えてしまった時間と風景を、砂を払うように明るみに曝してみせた」(『ガリヴァーの帽子』より引用)

著者
吉田 篤弘
出版日
2013-09-12


影とはつまり過去の残像で、面白いものであればその映像が見えるという能力をFは持っているのです。

その無人島では、ガリヴァーが旅立った後、また彼を呼び戻したいと願う王国を描いた映画が製作されようとしていましたが、中止に。そこにはそのまま放置された王国のセットだけが残っています。そしてそこに住み着いた小人が記者のSを呼び出します。小人はSに向けて現実の日本と架空の世界がつながっていて、日本人にだけガリヴァー旅行記のその後の物語を作り出すことができると熱弁するのです。

この作品は何と言ってもこの着眼点が面白い。確かにガリヴァー旅行記には実在する国で唯一日本だけが登場します。つまり日本はガリヴァー旅行記のその後を描いた舞台になれる国なのです。その場所に作られた王国のセットが王国の小人を現実の世界に生み出します。ここから始まる物語とは。そしてFも自ら無人島にやってきて過去の物語を見つけます。そこにどんなものが見えたかというと……。

過去に世界中で読まれた物語は今でも読み継がれています。物語が終わり、人々の中から失われた王国に再び物語を取り戻し、世界に発信しようとする。まさに本好きの人や物語に関わる人にとってロマンと現実がうまく混じり合った作品です。またこの物語の基本軸以外にも、ほかの登場人物たちも癖があり魅力的。なぜSが架空の世界とつながる場所に呼ばれたかという伏線も張られていますので、短編ですが読み応えは抜群ですよ。

2作目は「イヤリング」。こちらは出会いを求める男が探偵に相談する場面から始まります。

偶然と運命のもとに男女は結ばれたあと、男は嘘によって永遠に「偶然」と「運命」を失ってしまったと悩み、再び探偵事務所へ相談に訪れます。本当の「運命」と「偶然」とは。この二つの言葉によって世の男女は翻弄されているのかもしれません。探偵が隠している本当の秘密は読者にのみ明かされます。

3作目は「ものすごく手の震えるギャルソンの話」。題名の通り、ものすごく手が震えるギャルソンの話です。いいギャルソンの手は震えない。彼はコーヒーカップからカフェオレが大量に零れ落ちるのを見て、どうしようもなく恥ずかしく思います。ですが夜のレストランで恋人は言います。

「手が震えないギャルソンなんてニセモノよ」(『ガリヴァーの帽子』より引用)

夜のレストランで微笑みあうふたり。6ページ程の心温まる作品です。

4作目は「かくかく、しかじかーーあるいは、彗星を見るということ」。シャンパンがグラスに注がれてから、空気に触れて弾けきるまでに泡の語る独り言が口語でひたすら書かれています。

差はあれどちょうどそれくらいの時間で読めるような数行の間に、それぞれの哲学や夢、飲んでいる人の様子などを観察して泡は語ります。記憶は共有され、知識も豊富でずいぶんと理知的でロマンチストの気泡です。

個々は小さくて一瞬ですが、その現象は変わらずに続いていくこと。連鎖と伝播によってしっかりと誰かへ受け継がれていくこと。その不思議をグラスの中から真上を通る彗星を見るという奇跡に例え、何度でも繰り返される奇跡を個々に対する温かい眼差しで表現しています。

5作目は「ゴセンシ」。年月を経て人が変化していくことについて考えさせられる作品です。この作品を読めばかつての自分を思い出すかもしれません。

40歳を過ぎた「僕」は、高校時代に出会ったゴセンシを思い出します。彼は高校生の頃五線紙ノートの罫線に毎日文字を書き、その高低や筆跡で今の自分を表現しました。そこに書かれたものは今の自分であり、その日の自分の調子を知るために彼は書いていたのです。夏休みにバイトに誘われた「僕」はゴセンシの家庭の事情を垣間見ます。

思春期の不安定さがよく伝わってくるどこか恥ずかしいようなエピソードではないでしょうか。五線紙ノートがそのままあだ名になっていますから「僕」にとってはゴセンシと切っても切れないエピソードです。

期せずして仕事上で今のゴセンシを知った時に「僕」は胸にどんな思いを抱いたのでしょう。

6作目は「御両人、鰻川下り」。著者の新しいタイプの文章で書かれた怪奇で洒脱な作品です。

篠田と女房という名の2人の男が酔って記憶も曖昧ななか、川を下りながら川沿いの鰻屋を何軒も訪れて鰻を食べます。鰻を捌くのを待つ間に弁士が語るのは首だけになって野たれ死にを免れた連中の話。舟は流れ流れて悪意の力で下っていく。夢か現か読んでいるとこちらまで酔ったような心持ちにさせられます。

7作目は「名前のないトースターの話のつづき」。童話作家を夢見る「ぼく」は、彼女が残していったトースターがある日トースターの焦げ目で物語を語り出したことに気づきます。しかし、あと少しで物語が完成というところでトースターは語るのをやめてしまいます。その時「ぼく」が感じたことは……。

夢の裏側で失ってきたものについて考えてしまうような、ちょっぴり切ない作品です。

8作目は「孔雀パイ」。これもまた奇妙な作品です。シェフと小説家の男がお互いの才能をお互いのためだけに使うという条件で共同生活を始めます。ある夜、額に飾られた絵から王子が抜け出して現れます。金髪碧眼であった王子が和洋折衷の太郎冠者となって……。

偽物の中にあるとその空気に染められ、変容してしまうということをこの作品は表しているのでしょうか。ラストの孔雀の絵の変化は冒頭の前振りと合わせて、少しクスッとしてしまいます。

吉田篤弘の作品は、読んでいるとまるで詩のようにその言葉が染みてきます。それは日常の何気ないモチーフを拾い上げて、そこからさらに一歩新たな発見をするワクワクがあるから。小さなものを愛情深い視点で書く作品は、現代の忙しさで疲れた人に一服の清涼剤のような癒しを与えてくれることでしょう。

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