愛に心酔する人々を描いた名作
『かわいい女・犬を連れた奥さん 』は小笠原豊樹によって訳され、1970年に新潮文庫で出版されたチェーホフの短篇集です。
短篇集のタイトルに記載されている「かわいい女」と「犬を連れた奥さん」についてご紹介します。
「かわいい女」という文字を見ると、顔立ちや雰囲気だけでなく、男性に献身的につきそう女性を思い浮かべませんか?チェーホフの本作の主人公オーレンカがまさにそういう女性なのです。
結婚して夫と夫の仕事だけが自分の世界になってしまうオーレンカ。遊園地の経営者と結婚するが後に急死、次に材木商と結婚するがまたもや急死してしまいます。その後獣医であるウラジーミルの家で生活するようになります。そうして別居しているウラジーミルの妻の代わりに息子サーシャと仲良くなっていくのでした。
男性のいる世界に浸っていないといられない、現代の女性から反感を買いそうなオーレンカですが、彼女の生き方に嫉妬するか、それとも自分というものを持てない点に同情するかは、人それぞれである気がします。
誰だって孤独には耐えられないものです。人生における数多の出会いと別れを象徴するかのように、オーレンカの身の周りに起こる出来事を描きあげているチェーホフの作品です。
- 著者
- チェーホフ
- 出版日
- 1970-11-30
「犬を連れた奥さん」は、妻子持ちの男グローフが、同じく既婚者のアンナに出会い、互いに惹かれあっていく不倫物語です。
グローフはこれまで遊んできた女性にはない本当の愛に気付き、アンナは夫の仕事内容すらちっとも知らないつまらない生活から抜け出したい、面白い生活をしたいと吐露するのです。ただの不倫を表現しているのではなく、今までの自分及び生活からの決別、新しい生き方というものをチェーホフは表しているのでしょう。
これぞチェーホフのユーモア!
チェーホフの『桜の園/プロポーズ/熊』は浦雅春によって翻訳され、2012年に光文社古典新訳文庫で出版されました。
「桜の園」では、息子も夫も亡くしたラネフスカヤ夫人は自堕落な生活をつづけ、代々受け継いできた土地「桜の園」が競売にかけられることになります。桜の木を切り倒せば別荘を貸し出して賃料を得られると説得する商人ロバーヒンに、ラネフスカヤ夫人やその兄ガーエフは理解を示さず、競売の日が近づき……。
借金があるにも関わらず、今まで通りお金のかかる贅沢な生活をするラネフスカヤ夫人たち。過去に捕らわれる人間の愚かさ、貴族の没落を可笑しく書いています。
また、本作は太宰治の「斜陽」で下敷きに使われているほどの名作です。「斜陽」が好きな方は絶対読むべきチェーホフ作品と言えるでしょう。
「プロポーズ」はローモフという地主が、隣人の地主チュブコーフの娘ナターリヤにプロポーズをする話です。チュブコーフもローモフのことを高く評価しており、何も問題はなかったはずなのですが……。
物語序盤でローモフが面を切ってナターリヤに話をするシーンがあります。「さっそくプロポーズかな?」と思いきや、「牛ヶ原」は自分の土地だ、と唐突な主張をし始めます。それに対しナターリヤは反論、両者とも答えを譲りません。一度和解するも、今度はどちらの飼い犬が優れているかで言い争います。いつになったらプロポーズするのでしょうか。頑固な二人が結婚前に夫婦漫才のようなやり取りをみせてくれるチェーホフの作品です。
- 著者
- アントン・パーヴロヴィチ チェーホフ
- 出版日
- 2012-11-13
「熊」は、亡くなった夫がずっと不倫していたことを知るも、新しい男に行かず貞操を貫くとポポーワが召使ルカーに話しているところから始まります。そこに訪れたのはスミルノフ。亡くなったポポーワの夫の生前の借金を今日中に取り立てようと奮闘するも、ポポーワは取り合ってくれません。激怒するスミルノフと衝突し、事態はピストルを取り出すほどになってしまいます。
戯曲であるため、話のところどころでスミルノフの一人語りが入るのですが、どれも怒りの表現が凄いのです。語彙力や比喩もさながら、今にも荒い鼻息が聞けてきそうなほど熱のこもった台詞が続きます。また、物語の結末は突拍子もない方向へ進みます。ポポーワの困惑を露わにしたセリフも見所です。
チェーホフが描く、複雑で絶望的な恋愛事情
『かもめ・ワーニャ伯父さん』は2012年に集英社文庫で出版されました。
「かもめ」では、女優アルカジーナの息子である戯曲家トレープレフは、自身の作品に出演させている女優のニーナに惚れています。しかしニーナが惚れた相手は、アルカジーナの恋人トリゴーリンでした。
トレープレフのことが好きな女性マーシャや、マーシャを愛する男性教員、トレープレフを評価する医師、その医師に恋心を抱くマーシャの母、といったように、様々な思いが複雑に絡み合っています。その思いの行く末とは……。
このチェーホフの作品が「かもめ」というタイトルである理由は物語中盤にあります。トリゴーリンについていこうとするニーナに対し、トレープレフは拳銃でかもめを撃ち落とし、後に自分自身も撃ち殺すだろうと告げるのです。思いの強さ故の愛の苦痛は、誰もが体験したことがあるはずです。さすがに拳銃自殺を示唆することはあるまいとお考えの方、人生どう展開されるかは分かりません。本作を読んだならば、他人事には思えなくなるかもしれませんよ。
- 著者
- アントン・パーヴロヴィチ チェーホフ
- 出版日
- 2012-08-21
「ワーニャ伯父さん」では、端的に言うと、年のいった大学教授の若妻エリーナが2人の男性に迫られる話です。
もちろんチェーホフの作品は人間関係に重点を置いているため、ただの男性ではありません。1人は教授の先妻の兄であるワーニャです。教授と先妻の間の娘がソーニャといい、ソーニャからみて「ワーニャ伯父さん」となるわけです。もう1人はソーニャの想い人である医者のアーストロフです。後妻と先妻の子供となると、やはりギクシャクしがちになります。それに加えて恋敵となったら事態のややこしさは倍増しますよね。若妻エレーナの決断とは……!?
チェーホフは人間関係だけでなく、生死や人生、生き方といった点にも重きを置いています。彼が医者であり且つ結核患者であったからかもしれません。
どうしたって報われない、絶望の中であっても、生きていかなければならないと決断し、再生へと向かおうとする人々を本作で目にすることとなります。ワーニャ伯父さんとソーニャの会話、ソーニャが自身に言い聞かせるかのように今後の人生を語るシーンは読後に何か胸に残るものがあることでしょう。