豊臣秀頼に関連する本おすすめ4選!大阪夏の陣での豊臣家滅亡と生存説

更新:2021.12.17

豊臣秀頼は、父秀吉と母淀殿に挟まれ、なかなかクローズアップされることのない人物です。豊臣家最後の人物としか知らない人も多いと思います。そこで生存説も残っている秀頼について、もっとよく知れるおすすめの本をご紹介!

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謎の多いプリンス、豊臣秀頼

豊臣秀頼は1593年、秀吉と淀殿の子として大阪城で誕生し、「拾(ひろい)」と名づけられました。この時の関白は秀次で、すでに秀吉の後継者となっていましたが、秀吉は秀頼を跡継ぎにさせたいがために1595年には秀次の関白職を剥奪します。秀次がその後自害したために、秀頼が後継者として確立されました。秀吉は秀頼に忠誠を誓うよう、多くの大名たちに血判署名をさせています。そして秀頼を補佐させるために五奉行や五大老の制度を作りましたが、1598年には死去。秀頼は家督を継ぎました。

秀吉の死後、家康の影響力が大きくなっていったことにより、1600年関ヶ原の戦いが勃発します。家康率いる東軍が勝利した後、秀頼の領土は縮小され直轄地のみの65万石ほどとなってしまいました。1603年に家康は征夷大将軍になり、秀吉は摂関家として昇進しながら1605年に右大臣になります。家康は江戸、秀頼は大阪でそれぞれ公儀を行っていたという説もあるようです。1611年にはふたりが二条城で会見しています。

結局家康は1614年には大阪冬の陣、1615年には大坂夏の陣で秀頼を攻めることとします。浪人の寄せ集めであった豊臣方は、内部での足並みが揃わないこともあり、一旦冬の陣では和議となりましたが、夏の陣で負けてしまいます。豊臣方に付いた真田信繁は大きな働きをし、秀頼に前線に出るように言いましたが、結局秀頼が出てくることはありませんでした。そして徳川軍が大阪城へ攻め入ると、秀頼と淀殿は逃げ落ちようとします。しかし結局徳川軍に包囲され、自害することとなりました。享年23歳です。秀頼の子、国松も捕らえられ殺されています。

秀吉が57歳のときの子であるからか、秀吉と淀殿が会っていないのに秀頼が生まれたなど、秀吉の子であることを否定する噂があります。また大阪城での死体が見つからなかったために、逃げ落ちて生きていたという逸話もあり、謎の残る人物です。礼を重んじる優れた人柄であったとの話も残っています。

豊臣秀頼についてあなたが知らない8つの逸話

1:幼名が「拾」なのは兄が早死にしていたため

豊臣秀吉と淀殿の間には秀頼の前に1人男児が生まれていました。幼名を「棄(すて)」と名付けられ、鶴松と呼ばれましたが、2歳で亡くなってしまいます。そのため「棄てた」子どもを「拾う」という意から「拾(ひろい)」と名付けられました。

2: 幼児のころの機嫌を理由に侍女が処罰される

豊臣秀頼の父、豊臣秀吉はなかなか子宝に恵まれず、老年になってできた秀頼を溺愛しました。秀吉は1598年に「中納言(秀頼)様の気に障る者は死ぬほどたたきなさい」と手紙を送り、当時5歳の秀頼の好き嫌いを理由に侍女を4名処罰しています。

3:秀頼にはもう一人の兄がいた

豊臣秀頼には「秀勝」とういう名の兄がいました。秀勝については、1575年(天正4年)10月14日に死んだ「伝豊臣秀吉子」という寺伝が現在の滋賀県長浜市内の妙法寺に残されています。また琵琶湖の竹生島にある宝厳寺に1574年(天正2年)秀吉が家族と奉納した帳面があり、そこに「南殿」「石松丸」の名が残されており、その南殿が側室、石松丸が秀勝と伝えられています。

4:秀頼の父と淀殿は不義密通ではなく秀吉の命令の可能性

豊臣秀頼と父の秀吉は、あまりの風体の違いから実子ではないという噂がありました。また不義密通によってできた子供であるという風聞も出ています。

近年の研究の中で、服部英雄氏は著書の中で、秀吉が淀殿に「非配偶者間受精」を命じたとし、「鶴松、秀頼のうち、少なくとも鶴松は秀吉が承認していた」と述べています。ただ、秀頼は淀殿の「独断かまたは秀吉の内諾を得ていなかった」ため、「生まれる子は茶々1人の子でよい」と秀吉は北政所に手紙を送ったことから素直に喜んでおらず、そのためそこに関わった者を処刑・弾圧しました。

5:「明良洪範」が秀頼の体格の根拠資料となった

豊臣秀頼の体格について、明確な記述は残っていません。現存する資料の中で明良洪範の中に秀頼の体格についての記載があります。それによると、身の丈6尺5寸(身長約195センチ)、体重は43貫(約161キロ)と相当な大柄な人物です。

6:関ヶ原の戦いは両軍とも「秀頼公のため」

石田三成と徳川家康が覇権をかけて争った関ヶ原の戦いですが、石田三成側は総大将の毛利輝元が秀頼の居城大阪城に入城して保護する立場をとり、この時に秀頼の親衛隊が石田軍に同行させています。対する家康側も秀頼の命令を受けて出陣する形をとっていましたので、どちらも「秀頼公が認めた」戦いという大義名分を掲げていました。

7:大阪の陣で裏切者を城壁から突き落とした

近年オランダ東インド会社駐日オランダ人の書簡が発見されました。それによると秀頼の部下であった武将が徳川軍に寝返るために城に火をつけたが、逃げる前に秀頼によって城壁から突き落とされたとあります。その後「火を消すことは不可能」となり、「戦う勇気を失って」自害したと記されています。

8:大阪城の外堀北側から秀頼の遺骨が発見された

1980年、工事現場で発見された頭蓋骨が、その後の調べで豊臣秀頼のものではないかと判定されました。理由として埋葬された周囲には貝殻が敷き詰められ、高価な副葬品も発見されていることから貴人のものであると考えられること、歯並びも良く、20歳から25歳の健康状態の良い若者であること、すぐそばから秀頼の愛馬である「太平楽」と呼ばれる大型の馬のものと思われる遺骨も発見されていることなどが挙げられます。

現在その頭蓋骨は「秀頼の首」として京都の清凉寺に埋葬されています。

秀頼は凡庸な人物ではなかった

豊臣秀頼の持つ凡庸な悲劇の貴公子というイメージを一掃し、威信を復活させたいというのが本書の著者の意図です。秀頼とその母、淀殿について、徳川によって作られたであろう通説を否定していきます。若くして亡くなり、なかなか一次資料が残っていない秀頼の実像を知ることができる本です。

著者
福田 千鶴
出版日
2014-09-22


この本では、秀頼は秀吉の実子ではないという噂や、軟弱だったために戦にも出陣しなかったという話に対して丹念に史料を読み解きながら否定材料を探します。そして淀殿が秀吉と会っていた証拠を見つけ、確かに秀頼は秀吉の子であると証明していくのです。また戦の先陣に立たなかったのは内部の不和のためと考えます。これまで何の疑問も持たずに通説から秀頼のイメージを作ってしまっていたことに、はっとさせられます。

特に本書で面白く読めるところは、二条城会見とその後の文書のやりとりでしょう。家康と秀頼の会見は頭脳戦であり、ここで家康は秀頼が油断ならないと考え、豊臣家を滅ぼすことに決めたというのです。会見後に秀頼が送った文書も、秀頼からの挑戦状だとしています。

家康は秀頼を生かしておくことに恐怖を感じたのかもしれません。凡庸な秀頼というイメージを覆す証拠を次々と繰り出す、意欲的な作品です。徳川目線ではない客観的に見た秀頼を発見することができるでしょう。

大阪を押さえたものが天下を取る

秀吉の死後に起こった家康と豊臣家の戦いは、家康が豊臣家を滅ぼそうとしたものではありませんでした。どちらが秀吉の正当な後継者であるかを決める争いだったのです。家康は秀吉政権を否定するのではなく引き継ごうとしたということを前提として『大坂の陣と豊臣秀頼』は語られます。

著者
曽根 勇二
出版日
2013-05-17


本書では大阪の重要性が多く書かれています。秀頼死後、家康は東国は支配できましたが、大阪、伏見は秀頼に押さえられたままでした。大阪は経済の中心であったので、実はそこを押さえている豊臣方が経済的には有利と言えるのです。

大阪は外国との交易、アジアの情勢を知るために重要な場所とされています。そのため家康と、大阪にいる秀頼との二重公儀体制のようなものが行われることになりました。その実態についてもよく分かる説明がなされています。結局大阪を得るために大阪の陣を起こすことになった家康。関が原で敗者となりつつも、家康の天下取りの邪魔になった秀頼について、大阪を主体とした視点から読み取ることができる面白い本です。

秀頼は大坂落城後も九州で生きていた

『大坂落城異聞』では、大坂落城に関して徳川幕府が記した正史とは別に、民衆の間で語り継がれる稗史に迫ります。歴史は勝者が作るものなので、徳川が作る歴史が正しい歴史です。しかし秀吉のことを好きだった大阪の人々は、豊臣家は滅びていないと信じ、秀頼は生き延びたといった別の歴史を口承で代々伝えていきました。これが稗史です。火のないところに煙はたたないという通り、稗史の中にも真実が埋もれているのではないでしょうか。

著者
高橋 敏
出版日
2016-03-18


秀頼とその子どもたちが九州に逃げ落ちたという話が第2章では展開されます。正史では秀頼の子、国松は斬首されたことになっていますが、豊後の木下家に国松が生存していたという話が残っているそうです。また秀頼の息女、霊樹院は熊本県細川氏が保護したと伝承されています。まさか、と思いながらもわくわく読み進めてしまうことでしょう。

第4章は秀頼が真田幸村、後藤又兵衛たちに助けられて大阪城を逃げ落ちる物語について検証します。秀頼は薩摩に逃れ、そこで一族は生き続けていくのです。このような物語は浄瑠璃で演じられることもあり、徳川家による完全な弾圧はなされませんでした。

それは大阪の人々が持つ徳川に対する憎しみの気持ちを、稗史によって緩和させようとしていたと著者は考えているようです。正史と稗史を並行させ、民衆の心のバランスを保たせたのです。正史ではない口伝や物語にスポットを当てた、読みごたえのある作品となっています。

薩摩での豊臣秀頼生存説に迫る

大坂落城の際、秀頼は自害したとされていますが、その首は見つかっていません。その事から秀頼生存説が生まれ、さまざまな物語が作られてきました。『秀頼脱出』では、秀頼と嫡子国松は九州で生き延びていたという証拠を探し出していきます。読んでいると秀頼が生きていたということが真実ではないかと感じてしまうことでしょう。

著者
前川 和彦
出版日


著者は膨大な資料を調査し、多くの時間を割いて研究しています。一子相伝で伝わっている話にも言及し、秀頼九州生存説を真実へと導いていくのです。こういった話にはロマンがあり、興味深く読み進められます。家康が秀頼を逃すわけがないと思いつつ、いやもしかして生きていたのかもと考えることは楽しいことです。

嘘か本当か分からない資料にあたり、検証していくことはかなり大変なことでしょう。しかし本書では、その様子がエッセイ風に読みやすく書かれています。読者も一緒に調べている気持ちになり、ますます真実味が出てくるのです。正史ではない歴史を考えるわくわくする時間を与えてくれます。

豊臣秀頼が生きていたなら……という、歴史の「もし」を考えることは楽しいですよね。秀吉と淀殿の影に隠れている秀頼について、ぜひ興味を持っていろいろな本を読んでみてください。

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