「岡山天音って本名?」
この仕事を始めてから、まだ関係性の薄い相手に「今日、天気良いね」をゆうに超える頻度で投げ掛けられて来たパス。
「本名です」「芸名かと思った」「いや芸名で天の音って付けてたらイタくないですか?」「いや良い名前だよ~」「ありがとうございます」やらの一連が終わると次に「今日、天気良いね」とかの番になる。
初対面のシチュエーションが繰り返されるこの仕事をして行く上で、相手にとってこんなにも触れやすく広がりのありそうな質問を、出オチ的に用意してくれた事には感謝している。ただ、名前の由来まで話題を広げるには、ややこしい背景をこの名前は背負っている。
そのややこしさから適当に受け流して来た名前の由来を、折角だからここに一度書いてみる事にする。
この名前を俺に付けてくれたのは母親だけど、その由来を持ち込んだのは俺が生まれる前、母が暮らしていたアパートの一階に住むおばさんだった。血の繋がりも何もない、ただ挨拶を交わす程度の間柄。
そのアパートは個性的な住人の集まるアパートで、その中でもよく顔を合わせていたのがそのおばさんだったらしい。
おばさんはアパート一階の部屋が並ぶドア前、雑草おい茂る長方形のちょっとしたスペースを「ウチの庭」と呼んでいた。そこでよくわからない植物を勝手に育てたり、太極拳のようでいて太極拳ではない踊りを繰り広げたりしていたらしい。母曰く、庭無しのアパートでただ一人、自分の部屋だけを庭付きに昇華させていた。
そのおばさんは近所のスナックで働いていて、だから日中はよくその「庭」にいて、母に限らずアパートの住人たちは、そのおばさんと出がけに顔を合わせることになった。そのたびに挨拶とちょっとした会話を重ねるのだが、ある日、部屋を出た母は「岡山ちゃん!」と挨拶より先に「庭」からおばさんに呼び止められた。おばさんはアパートの住人を年齢性別問わず名字にちゃん付けで呼んだらしい。
その日おばさんが切り出した話はこうだった。その前日、窓の外から「も~ん…も~ん…」みたいな誰かの不明瞭な声が鳴り続けていて、一向に鳴り止まないその音の事情を突き止めるべく窓を開けたところ、それは頭上のどこかから放たれる「お~い!」の声であった。
その声は「二階の岡山さ~ん!俺俺~!俺息子~!」と続き、「家そっち~~?行けたら行くわ~!」で遠ざかって行ったらしい。で結局、声の主を目視する事は出来なかったがそれもそのはず、それは遥か上空、雲の上からの声であった、との推測。
おばさんが突如放ったその小宇宙に、母は何かを受け流そうとする時に発するあいまいな自分の笑い方を自分で必死に再現しつつ、内心では大股のあとずさりだったいう。
しかし一週間後、なんとお腹の中に俺が居る事がわかる。案の定、母は俺とおばさんの話に結び付きを見出し、その結果が「天音」という名前を導き出した。
名は体を表す、なのか?。
俺には天の音を聴こうとする姿勢がある。もっとこじ付けずに言うなら空を見上げる癖がある。青空の下に限らず雨でも曇りでも、仮にそこが室内でも。そこに窓さえあれば、どうしても一度はそこまで行って、空を食い入る様に見つめてしまう。体感で言うと空に吸い込まれそうになっている。
雲の上に乗ってみたい、とか。そこに住んでみたい、とか。気づけばそんな声が俺の体の中にはこだましている。
え!待って!お前も小宇宙じゃん!と思われたかもしれない。どこかの知らない俳優が、どこかの小さな片隅で、こんな事を嘯(うそぶ)いていたら俺も思う。
でも事実、俺は気付くと空を見上げている。そこから何かが溢れてこないか、耳を澄ませて待っている気がする。そこに行く為の手掛かりみたいなものを。
俺は退屈している。今居る場所に。だから今居るここから、遠い所に気持ちが行ってしまう。ここじゃないどこか。
空を見上げる癖には、ここじゃない遠く離れた場所に夢を見たい自分の願望が、主成分として含まれている気がする。
ただ俺自身、常に「今居る場所」という退屈に締め上げられて来たわけじゃ無いとは思う。それを忘れて、目の前の何かに没頭していた時期もあったはず。でもふとした時にそのメッキは剥がれ、覆い隠されていた退屈の断片と目が合う。退屈はまた途方もなく巨大な図体を横たえる。
天からふいに妙な音でも聴こえて来ないものか。自分が産まれる前に跨っていた雲が、また俺を迎えに来てくれないものか。自分の正面をないがしろにして、あろう事か空に期待を寄せていた。予期せぬ何かとの衝突を、退屈を打ち壊してくれる何かの到来を、ずっと期待している。
おばさんの話を信仰している訳じゃないけど、そういう抽象的な気分が、そういう抽象的な行為として、俺の視線を抽象的に空へと誘導している気が、何となくする。
でもこうも思う。退屈と戯れあって生きている俺が、ここじゃないどこか雲の上の天国みたいな場所に、もしも到達したとして、それは果たして、本当に退屈の終わりを意味するのだろうか?
最近母と電話していて、なんとなくの話の流れで「庭」のおばさんの話になった。自分の名前の由来については子供の頃から聞かされていたけど、その「庭」のおばさんについての話はそういえばあまり聞いたことが無かった。
「庭」のおばさんは、そのアパートの誰よりも古株の住人で、そしてみんながそのアパートを後にして行く中、そのおばさんだけがアパートの住人で居続けた。
おばさんが「庭」に埋めた何かの種がまともに何かを咲かせているところを結局母は、アパートを引っ越すその日まで一度も見た事は無かったという。
でもそのおばさんだけが、いつ会ってもいつも笑っていた。それは表情という狭い意味での「笑顔」ではなく、命ごと笑うみたいに、そこに居た。
まるでそのおばさんだけが世界の秘密を知っているような。そして世界だけがおばさんの秘密を知っているような。それがなんなのかはわからないけど、おばさんはいつも、何かに照らされていた、と、母は話してくれた。
その話を電話で聞いた俺は、自分の世界観をいとも容易く、ペラッとめくられた気分になる。
退屈さって、実は場所が引き起こしている症状じゃないのかも知れないな、と何となく思った。
あくまでも現状では、仕事を仕事として続けられている俺が今いるこの場所も、もしかしたら誰かにとっては、退屈な場所からつい見上げてしまう空みたいな場所なのかも知れないなぁと思った。
俺がいま居る場所が退屈なんじゃなくて、そこが何処だろうと、今この場所を見つめている俺自身の眼が退屈なんじゃないだろうか。
眼が肥えていなければ、現状のどこを見渡そうと、その風景からは退屈さしか抽出できない。
自分がどこに居ようが、自分が居るその場所の眩さに気づけなければ、俺が見上げている天国にいつか行き着けたとして、そこもそのうち、退屈な地獄みたいになるのかも知れない。
俺をペラペラとめくってしまった「庭」のおばさんは、養われた眼を持っていて、光源はどこにでも在る、ただ隠されている、という事を知っていたんじゃないか、と勝手に感じた。
空を眺めて、いつか行けるかも知れない場所の光を羨ましがる癖をやめたい。
見上げる事で「今居る場所」から目を逸らす、人生から一時避難するみたいなその癖との決別を、確かなものにしたくて、長々とここにこんな駄文を並べている。
その癖を、この文章のなかに置き去りにしたい。
新しい場所に焦がれるなら、今いる場所の新しさと出会おう。
上空から放たれる太陽の光は何より眩しくて憧れるけど、代わりに目をくらませて手前の光すら塗り潰していた。それよりもこの場所に秘められた光の素を、見つけられる眼を養いたい。
もし夢叶って雲の上に住めたとして、その頃には下界のビルが反射させる光を羨ましく眺めたりするのかも知れない。
この場所に在る光に気付く。その光が見当たらないなら、ちゃんと頭を使って目の凝らし方を色々変えて、その光と出会いたい。
「庭」がなければ自分で「庭」を見出せば良い。そこで踊るならあり物の太極拳じゃなくて、自分が踊りたい太極拳が良い。
新しく放たれた眩しい光で、退屈の影は見えなくなる。
※ この岡山天音はフィクションです。実在の岡山天音は何度聞いても自分の名前の由来を忘れてしまいます。
※この岡山天音はフィクションです。
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