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徳川吉宗についての本5冊!享保の改革で財政の再建をした8代将軍

更新:2017.4.6 作成:2017.4.6

暴れん坊将軍でお馴染みの徳川吉宗は、享保の改革を行い幕府の財政を立て直したことによって、稀代の名君と呼ばれています。そんな吉宗にまつわる本や、享保の改革がどんなものだったのかが分かるおすすめ本を5冊ご紹介します。

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享保の改革を行った徳川吉宗とは

徳川吉宗は江戸幕府8代将軍であり、その名前を聞くとまずは享保の改革を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。享保の改革は吉宗が名君と呼ばれる所以であり、彼の残した功績だと言えます。幕府の財政難を立て直すために、新田開発、公事方御定書(犯罪と裁判に関わる法律)の制定、倹約、目安箱の設置などを行いました。

徳川吉宗は、1684年徳川御三家の紀州藩主・徳川光貞の四男として生まれました。1705年、父、兄が亡くなったことにより、紀州藩5代藩主に就任します。紀州藩は地震の復興費用や幕府からの借金など、財政が悪化していました。そこで藩政の改革へと乗り出します。吉宗自ら質素倹約を率先して財政の再建を図り成功させたのです。

徳川御三家は、徳川将軍家に跡継ぎがいなくなった場合に継承権が発生するとされていました。1716年第7代将軍である徳川家継が8歳で早世。徳川将軍家の血筋は絶えてしまいます。そこで家康を曾祖父に持つ吉宗が、御三家より初めて将軍へと選ばれました。第8代将軍徳川吉宗の誕生です。

将軍になってからの吉宗は、まずは権力を持っていた新井白石らを罷免しました。将軍自身の権力を高めようとしたのです。水野忠之、大岡忠相ら能力のあるものを積極的に登用し、享保の改革を行いました。紀州藩での経験を活かして、倹約に取り組み、様々な制度を作り上げています。幕府の財政は持ち直しましたが、倹約を強いられた町民や年貢を増税された農民からの不満も発生しました。

1745年に徳川吉宗は将軍職を息子の家重に譲りますが、1751年に亡くなるまで実権は握り続けました。享年68歳、死因は脳卒中だと言われています。

徳川吉宗について、あなたの知らない7つの事実

1:米公方と呼ばれた

将軍 吉宗は「米公方」異名を持つ将軍でした。 新田開発による米の増産に成功し、また貨幣価値を一定にする事で幕領の収入安定化を図り、年貢米を凶作良作問わず一定の年貢米を納めさせ、各大名からは1万石に対して100石の米を納めさせていました。単純計算すると戦国時代「加賀100万石」だったら1万石の収入が江戸幕府に入る計算になります。

1年間で1人の兵士が食べるお米の面積を1石とすると加賀は100万人食べさせる事ができ、これらの理由があり徳川吉宗は米公方(米将軍)と呼ばれるようになったのです。

2:栄華を極めた大奥の美人どころをリストラした

当時の江戸幕府の財政は「大奥」の存在が圧迫していました。大奥は吉宗の曾祖父徳川家康が作った唯一女性の為の女性による女の花園ですが、吉宗は大奥にも質素倹約のメスを入れ、大勢の美人どころの大リストラを敢行するまでに至りましたした。 なぜ美人ばかりがリストラされたのか?と言う疑問が残ります。

それは、美人で年齢も若いとくれば買い手が付くと言う理由からでした。大奥を出た者の中には商人や町人と結婚した者もいて、逆に買い手が付かない者は一生面倒を見たとも言える吉宗の思量深さが見られます。

3:有事や生活水の為「天水桶」を増設 した

徳川吉宗は、何事も「早期発見、早期対処」が必要と考え、区画整備を行い空き地や路地裏には水の入った桶「天水桶」を増設置していきます。

天水桶は火事の時以外は雨水を貯める貯水タンクのような働きをし、打ち水や飲料水など生活水として使用されました。江戸の町は人口の密度が高かったため井戸を掘ることは容易ではなく、特定の水脈がある場所にしか井戸を設置できなかったのです。

4:自ら和訳された洋書や薬学を学び、貧民や飢餓対策を施した

徳川吉宗は自ら勉学に励み、キリスト教の信仰は禁止されていたものの、漢訳された洋書の輸入緩和に努め、外国の文化や思想に薬学を勉強していました。 漢訳された洋書の影響受け貧民層からの目安箱通じた申し出により、1722年に無料で治療してもらえる施設「小石川養生所」を設営します。

設営当時は40人定員収容人数でしたが、翌年には100人までの定員収容人数まで拡大されます。また、町奉行所属させ同心や与力が警備にあたり安心して養生できるように取りはからったのです。

5: 異国の珍獣「象」が唐より献上された

室町時代から江戸時代まで数回にわたり、時の権力者に献上される珍獣「象」ですが、1728年唐船から長崎に像がオスとメスが到来します。

時の将軍徳川吉宗に献上する為、江戸へ向かい出立するもメスの象は3ヶ月前後で死亡してしまいます。オスの象は当時の天皇に謁見し「広南従四位白象」と位を授かり、京都から東海道を通り江戸へ到達し約1200㎞の距離を80日間かけて徳川吉宗に謁見しました。その後、長旅で疲弊しきった象を専用の小屋で介抱し、飼育しましたが、約10年前後で民間に払い下げられます。

理由は「お金がかかる」のと「飼育係を負傷させた」の2つが理由からですが、物見遊山でひと目珍獣を見ようとして近隣諸国からも人を集め人気となった象は双六(すごろく)やかわら版などで取り上げられ象ブームを引き起こしました。

6:春の行事「桜見物」を広め、文化とした

春の行事と言えば「桜見物」となっていますが、その「桜見物」を広めたのが徳川吉宗だと言われています。 元々は隅田川の堤を強化する為に桜の木を植え人々が大勢で桜見物をさせて、墨田川の堤を踏むことで堤を踏み固める止水対策強化を図りましたが、この対策が江戸町民の心を掴み鷹狩で訪れていた飛鳥山(公園)にも桜を植え、幕領の空き地や農村にも桜の木を植え「桜見物」が広まりました。

桜見物の文化を広める事により近隣諸国から人を集め、農村の収入に貢献する事により農村から収入を得ていましたが、収入の増加に喜ぶ農民に、桜見物で潤う商人、至れり尽くせりの見物人、誰もが損をしない政策を打ち出した将軍です。

7:吉宗の計らいが、空前の花火ブームを引き起こした

1732年に大飢饉がコレラなどの疫病が発生し、人々の心が荒む事を危惧した吉宗は、大飢饉や疫病の死者の弔いと厄払いの意味合いで隅田川にて、幕府出資で花火大会を行いました。この時の花火は「鍵屋」と「玉屋」の花火師によって打ち上げられています。

「かぎやー!」「たまやー!」などの掛け声はこの時にうまれました。 質素倹約に努め、庶民の増税により反感を買いながら、米公方と呼ばれるも常に庶民為に「一手先」を打ち、使うべきお金は惜しみなく使う紀州生まれの将軍徳川吉宗は名君だと言わしめたのです。

経済の立て直しに苦悩する徳川吉宗

享保の改革を行った徳川吉宗。『小説 徳川吉宗』は、その政策について分かりやすく書かれた本です。能力があれば人材をどんどん登用していったり、米価の安定のために力を尽くしたりという様子、その中で吉宗と腹心の大岡忠相、水野忠之たちが苦悩する姿が描かれます。
著者
童門 冬二
出版日
徳川吉宗は、幕府が財政難に陥ってきたときに将軍となり、経済の立て直しに奮闘しました。しかし米価を安定させても、もう米経済は限界だということが見えていたのではないでしょうか。迷い悩みながらも、目安箱や火消し制度などさまざまな政策を打ち立てる吉宗に尊敬の念を覚えます。

そして本書での読みどころは臣下との関係です。徳川吉宗を信じ、ついてきている腹心たちも悩みながら行動しています。しかし吉宗はお庭番を使って、慎重に裏を取りながら政策を進めているのです。その密偵政治は部下を信じきれていないとも言えるかもしれません。そんな微妙な関係は、現代社会での在り方にも当てはまり、政策の行い方も含め、ビジネス書としても読むことができる1冊です。

名君・徳川吉宗は実はバカ殿だった!?

『逆説の日本史〈15〉近世改革篇』は週刊ポストに連載されていた人気のシリーズの1つです。通説とはまた違った側面から歴史を考えようとするもので、名君と呼ばれることの多い徳川吉宗も著者にかかればバカ殿とされてしまいます。経済面には疎かった吉宗が行った享保の改革は、本当に正しい改革だったのかを論じており、面白く読めることでしょう。
著者
井沢 元彦
出版日
2012-06-06
本書では米経済に固執した吉宗は、経済について何も分かっていないと批判されます。現代の私たちが考えると、正しいのは貨幣を使った社会だということは、確かにそうでしょう。しかし家康から続いてきた米経済の在り方を変えるのはなかなか大変なことです。吉宗が本当にバカ殿だったのかを考えるのは、読者自身ではないでしょうか。

著者はその米社会に固執する原因は儒教にあるとも言います。時代の流れとして、米社会から貨幣経済へ変わる頃ではあったのでしょうが、それを受け入れられるか否かで争いが起こっているのです。尾張の徳川宗春と吉宗との確執はその象徴と言えます。著者は儒教の呪縛から抜け出し、貨幣社会を作ろうとした宗春が名君であると述べています。教科書では知ることのない歴史を知り、新たな視点で自分なりの考えをまとめてみてください。

快活な宗治が見た徳川吉宗とは

『吉宗と宗春』は、尾張の徳川宗春を主人公として、徳川吉宗との確執を中心に書かれた歴史小説です。8代将軍の座を巡って対決した二人。その後も経済政策のあり方でずっといさかいが続きます。倹約をモットーとする吉宗と自ら率先して豪遊する宗春の行き着く先は、何が待ち受けるのでしょうか。
著者
海音寺 潮五郎
出版日
本書での宗春は、快活でおおらか、人を惹きつける人物として描かれています。一方吉宗は対照的な人物像です。民衆にも倹約を強いて、人々を疲弊させてしまいました。名君と呼ばれた吉宗も実際はこんな人物だったのかもしれないと思わせてくれる作品です。

宗春は、思うがまま遊び呆けているように見えますが、それを民は支持し、また尾張も潤っていきます。そんな様子を見る吉宗の気持ちを思うといたたまれなくなることでしょう。共に手を取り政策を行えば、より良い経済対策が行えるだろうにと思わずにいられません。しかし、吉宗は宗春を許すことはできず追いつめていくのです。格好いい宗春を見たい人におすすめの作品です。

吉宗が行った改革とその周辺の時代背景

吉宗が行った享保の改革を中心に、新井白石や田沼意次についてもその改革の内容が詳しく述べられている本が『徳川吉宗と江戸の改革』です。本来将軍からは遠いところにあった吉宗が、どのような幸運を得てトップにたったのかというところから論じていきます。また当時の江戸の市政の仕組みについてもよく分かることでしょう。
著者
大石 慎三郎
出版日
著者は江戸時代に詳しく、特に享保の改革を生涯のテーマとして研究していますので、本書の内容はとても充実しています。バブル崩壊となり財政難に苦しんでいた幕府が、どのように復活していったのか、その農業や経済の発展の様子に目を見張るばかりです。

大岡忠相を町奉行に登用して火消しなどのシステムを作り上げたことや年貢を毎年一定量納めるように取り決めたこと、目安箱の設置など、吉宗の行った改革は今までにないものでした。このような斬新な改革を行えたのはなぜでしょうか。本書を読み進めるうちにその答えが胸に落ち、吉宗の素晴らしさに気付くことができるのです。

徳川吉宗初心者には、まずこの1冊

吉川弘文館が刊行している人物叢書の1冊である『徳川吉宗』は、これ1冊読めば吉宗についておおよそのことは分かるという優れものです。近世史を得意とする歴史学者によって書かれており、吉宗の生涯、改革の内容が読みやすくまとめられています。
著者
辻 達也
出版日
本書には徳川吉宗が紀州藩主だった時の話も書かれており、この時の政策の成功が享保の改革へと結びついたことがよく分かります。紀州藩でも倹約を徹底していたのです。まずは小さい場所での実績を上げることができたことは、吉宗にとって大いに役に立ったことでしょう。

享保の改革についても順を追って丁寧に説明されていますが、米価安定や市政改変だけではなく、吉宗は武芸も奨励しています。鷹狩りや流鏑馬を復活させたり、鹿狩りを行ったり、馬術にも力を入れていくのです。このように様々な方面から改革を行った吉宗について知りたいと思った人は、まずはこの本を読むのが一番です。学術的な本で表紙も地味なので手に取りにくいかもしれませんが、徳川吉宗の実像を知るのにぴったりの書籍だと言えます。

徳川吉宗について知ろうと思ったときには、やはり彼の行った享保の改革について知ることが必要です。本当に素晴らしい改革だったのか、もしくは農民には負担を与えただけの改革だったのか。ぜひ本を読みながら、いろいろ考えを巡らせてみてくださいね。