稲垣足穂は大阪生まれ、大正末から昭和後期にかけて活躍した小説家です。また、ノーベル文学賞を受賞した川端康成に代表される新感覚派のうちのひとりです。
まずは稲垣足穂の幼少期から。小さいとき、よく男の子が将来はパイロットになりたい、などと言いますが彼もそうでした。作家になろうと思う以前、稲垣足穂の興味は飛行機にありました。関西学院普通部卒業後、民間人として三番目の飛行家である武石浩破に刺激され、自身も飛行家になろうとしたことがあります。しかし近視のためにその夢を断念。
その後稲垣足穂は飛行機には乗らず、その作り手としてしばらくの間、複葉機製作に携わることに。これらから彼が本当に飛行機に憧れていたことが分かります。そして、彼は小説でもこの飛行機というモチーフをふんだんに取り入れていくのです。
作家としての稲垣足穂はここから始まります。まず、小説、詩、文芸評論などさまざまな分野で当時活躍していた佐藤春夫の知遇を得、代表作である「一千一秒物語」を発表します。それからは「チョコレット」、「黄漠奇聞」、「天体嗜好症」など次々と歴史に残る名作を書き上げていきました。
作家として一躍有名となった稲垣足穂でしたが、成功の一方で落ち込んでいた時期もあります。父の死後、足穂は家業の衣装店を継ぐことになりますが、これがうまくいかず経営は不振。家賃も滞納するほどになり、家を出て各地を転々とすることに。この時期はアルコール、ニコチン中毒となり文壇からも遠ざかることとなります。
しばらく苦難の時期が続きましたが、それでも稲垣足穂の創作意欲は衰えてはいませんでした。結婚をきっかけに足穂は京都に移り住み、これまでの全作品の改訂、増補に精力的に取り組み、そして少年愛に関心があった足穂は『A感覚とV感覚』、『少年愛の美学』を発表しました。
稲垣足穂の作品は様々な作家に影響を与えてきました。三島由紀夫は自身の著作において次のように書いています。
「稲垣足穂氏の仕事に、世間はもつと敬意を払はなくてはいけない」(『小説家の休暇』より引用)
そして、三島のおかげで足穂は『少年愛の美学』で第一回日本文学大賞を受賞することになります。
- 著者
- 稲垣 足穂
- 出版日
- 1969-12-29
『一千一秒物語』は代表作のうちの一つ。いくつもの短い物語があつまっていて、非常に読みやすく、稲垣足穂の世界観を知るにはぴったりの一冊です。
この作品では星、飛行機、月など足穂ならではのものが登場してきます。一つ一つは非常に短いので、ここで少しご紹介。以下にあるのは、「黒猫のしっぽを切った話」という作品です。
「ある晩 黒猫をつかまえて鋏でしっぽを切るとパチン! と黄いろい煙になってしまった 頭の上でキャッ! という声がした 窓をあけると、尾のないホーキ星が逃げて行くのが見えた」(『一千一秒物語』より引用)
ご覧のように非常にシュールですね。黒猫と煙がつながり、ホーキ星へと続いていく。ここには「僕」や「わたし」などの一人称さえ出てくることはありません。無機質で全く人間味がない。ふだん私たちが読んでいるようなものとくらべて異質です。この「異質さ」こそが稲垣足穂の醍醐味だといえると思います。
作家の宇野浩二によれば、「これこそ、ショートショートの元祖である」とのこと。そして星新一は「ひとつの独特の小宇宙が形成」されていて「感性による詩の世界」と感想を述べています。
- 著者
- 稲垣 足穂
- 出版日
- 2016-12-06
『ヰタ・マキニカリス』は稲垣足穂がこれまでに書いてきた作品を整理する目的でできたものです。小、中の短編がぎっしりとつまっています。
まず、題名についてですが、なんだか森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』似ていると思いませんか。実際、これは『ヰタ・セクスアリス』に倣ったものだと言われています。鴎外はあの作品で性的なことについて書いていますが、足穂は機械的なものについて書いています。
収録されているものでは、たとえば、「黄漠奇聞」はご存じのかたも多いかもしれません。白い大理石でできた豪華絢爛、すばらしい文明、科学力を持っている都バブルクンド。自身の着流しに新月の紋章をつけた王様は、あるときいくらここが素晴らしかろうと空に輝く三日月には到底及ばないと気づく。舞台の設定もなかなか凝っていますが、童話のように読むことができます。
他には「チョコレット」や「星を売る店」など稲垣足穂の天体嗜好を感じさせるものも少なくありません。さらに、足穂の紹介のところでも書きましたが、武石浩破の死に関するものもあります。足穂の小説を知るためにも、そして彼そのものについて知るためにもこれは読むべきだと思います。
- 著者
- 稲垣 足穂
- 出版日
『A感覚とV感覚』は稲垣足穂のエッセイです。主としては性についてですが、その間にも様々な挿話があり、また足穂の思考によって茶の湯、弓道、銀閣寺など様々な分野へと結びついていきます。
このエッセイの流れをざっくりと説明するとこうなるかと思います。人間男女ともに基底となっている感覚としてA感覚があり、そして女性にはV感覚、男性にはP感覚がそれぞれ存在する。しかし、V感覚もP感覚もA感覚から派生したものに過ぎない、ということですが、説明しようとしても説明にならないくらいに難解です。
ところで読んでいくと、途中で三島由紀夫や江戸川乱歩、芥川龍之介に触れる場面があります。
「いつか江戸川乱歩がJ=A=シモンズのことを論じていた時に、私に洩らした。『彼らには抽象化の傾向がある。別に隠すわけではないが、同性愛者というものは(以下略)』」(『A感覚とV感覚』より引用)
これらはエッセイの趣旨からは逸脱しますが、稲垣足穂と他作家との日頃の関係を窺うことができると思います。
繰り返しになりますが、足穂の思考力、ものの考え方はすさまじいところがあると思います。性の感覚と、茶の湯、弓道、能楽、はてには小倉百人一首が結びついているのです。途方もない教養の深さに圧倒されることこそが、この作品の魅力なのではないかと思います。
- 著者
- 稲垣 足穂
- 出版日
- 2017-02-07
『少年愛の美学』は『A感覚とV感覚』同様にエロティシズム論を突き詰めたものです。
読んでみると一見小説には全くみえないのですが、これは小説、戯曲が対象でベテラン作家に贈られる谷崎潤一郎賞第四回の候補となっています。なぜ受賞しなかったのかというと、そのあまりの難解さゆえ、であったと言われています。
内容としてはもちろん性に関することですが、その間にも万葉集をはじめとする日本の古典、それから西洋の諸々にまで話が広がっていきます。読めば読むほど、足穂の想像力、洞察力に驚嘆することになります。
先程からA感覚などと急に訳の分からないことを、と思いますが、稲垣足穂が考えた人間のモデルは一つの筒です。人間を一つの筒状のものとして捉えたらいったいどう見えるであろうか。それが足穂の実践しようとしたことなのだと思います。
この小説において重要なことの一つは、やはりタイトルにもあるように、「少年」でしょう。稲垣足穂によれば老若男女のなかで一番A感覚をしっかりと受けることができるのは少年なのだと言います。
男色研究家としての足穂を知りたいのであれば、これは必読だと言えると思います。
- 著者
- 稲垣 足穂
- 出版日
- 2017-04-06
『天体嗜好症』も『一千一秒物語』と同じく飛行機や天体、映画が出てくるお話です。
かねてより映画好き、天体好きの少年は、ある日友達と一緒にキネオラマ(パノラマの背から様々な色の光りを投影することで楽しむもの)を卓上のボール箱に再現してみようと思い立ちます。それから二人はキネオラマで何を映そうかと妄想に耽りはじめます。
個人的にここで興味深い描写は次の場面です。主人公の少年は男の子が自動車や映画を好きだというのはいいけれども、星や天体についてそういうのは変だと感じていました。少し女々しいのではと思っていたのでしょうか。けれども友達に天体について聞いて見ると驚いたことに彼も天体が好きであったのがわかり、安心したところです。
「どうせ分かってくれないだろう」と内にこもっていると、実は相手も同じものが好きだった。この現実にもよくある状況を足穂はみごとに書いていると思います。
また、終わりに向かっていくところで、主人公は友達に望遠鏡を見に行かないかと誘われるシーンがあります。はじめは特段変なことはないのですが、夕方になり、晩になり、電車に乗ったあたりから徐々に違和感がしてきます。どういうことかというと、現実と非現実の間をゆらゆらとさまよっていくとでもいえばいいのでしょうか。とにかく、最後には妙な雰囲気を味わうことができると思います。
稲垣足穂は飛行機、天体からエロティシズムまでを書くことのできる希有な作家です。そしてその文章はだいぶ前に書かれたものであっても、どこか新しさを感じる、そんな印象があります。それは足穂の小説への情熱が一語一語にこもっているからに違いありません。