感受性が豊かにあふれだす中学校の3年間は貴重な時期。しかし、自己の内面世界と外部世界とのギャップに戸惑い、悩むことも多いものです。この貴重な感受性を実り多きものとするために、この時期におすすめの詩集を5つご紹介します。
18歳頃から詩作を始めた川崎洋は、20代前半に茨木のり子と共に詩誌「櫂」を創刊。谷川俊太郎らを同人に加えて、活発に詩作を展開していきました。現代詩人を代表する人物の一人です。
伝統を否定するところから出発する芸術というのは、はじめは鮮烈で時代を表現するものとしてもてはやされるのですが、いつしか形式化、固定化して力を失っていく宿命にあります。現代詩も、新しい表現や個性の追求がいつしか目的化してしまい、その多くが普通の想像力ではついていけないような、ただ難解なものとなってしまいます。
そのような状況の中で、読者がスッと気安く入っていけるような、独自の世界観を作り上げている川崎洋の詩とはどのようなものなのか、詩集『海があるということは』を通してみいきましょう。
- 著者
- ["川崎 洋", "水内 喜久雄"]
- 出版日
川崎洋詩集『海があるということは』を開くと、日本語っていいなぁと思える言葉に出会えます。「話すように詩を書く」ことを信条としていたというその表現は、軟らかく、優しさにあふれています。
関わる人の数、入ってくる情報の量……、さまざまなことが、小学校の時とは比べ物にならないくらいの勢いで増えていく中学生時代は、未熟な精神では受け止めきれず、衝突を起こし、屈折してしまうことも多々あることでしょう。そんな時、本書に収められている詩との出会いが、この屈折した思いの出口になってくれるかもしれません。
「訪れた夏をむかえて
海は
光の祝祭のような
きらめく銀の波でこたえる
あなたは
ゲーテのこんな言葉を
思い出さないか?
<人間は海のようなものだ
それぞれ違った名前を持っていても
けっきょくは
ひとつづきの塩水なのだ>」
(『海』より引用)
平易な表現で詩を書くことは、難解な表現で書くよりも難しいものです。読む者の中にスッと入り込み、人それぞれの感受性を引き出し広げていく川崎洋の詩は、人間と海をこよなく愛したといわれる、彼の心そのものなのかもしれません。
彫刻家であり、詩人でもある高村光太郎。『レモン哀歌』は、光太郎が妻・智恵子の臨終の姿をうたったものです。
その詩句は、まるで彫刻家が空間を刻むような独特な響きを持っていて、読者の感受性を鋭くも優しく解き放ってくれます。
- 著者
- 高村 光太郎
- 出版日
言葉というものが、こんなにも美しいものなのだということを実感できる詩の一つ。それが『レモン哀歌』です。
「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ」
(『レモン哀歌』より引用)
精神を病み、正常なコミュニケーションが取れなくなった、愛する人。身体も病魔に蝕まれ衰弱していき、やがて死んでいくのを目の当たりにする……。詩人の心理描写を書いていないにもかかわらず、刻々と移り変わっていく気持ちの変化が静かな存在感を持って伝わってくるところに、芸術家としての光太郎の真骨頂ともいうべき凄みを感じます。
詩を読むとき、この詩はどのようにしてできたのだろうと、その背景を調べてしまいがちですが、まずは、何の知識もなく、言葉そのものを味わってほしい……『レモン哀歌』はそんな詩の一つです。そして、光太郎と智恵子の生涯を知り、改めて『レモン哀歌』を読んでみてください。なぜいまだに読み継がれ、朗読されるのかが、よく理解できるはずです。
現代詩人の代表的人物の一人、谷川俊太郎の詩『うつむく青年』。
思春期の、あの靄のかかったような感覚……。うまく言葉で説明できる者が、この世の中にいるでしょうか。
いや、説明できない感覚だからこそ、表現する価値があるのかもしれません……。
- 著者
- 谷川 俊太郎
- 出版日
「いわゆる現代詩が現代音楽とすれば、
この本に収めた作品は
ポップスにたとえてもいいようなものも多く……」
(『うつむく青年』より引用)
これは、本詩集のあとがきで谷川俊太郎が述べている言葉ですが、実際に親しみやすくリズミカルな詩が多いです。
現代芸術は、前衛的な表現にクローズアップするあまり、単に「難解なもの」として忌避されてしまう傾向があるのは否めません。いくら表現する側が、「新しい表現」を掲げても、受け取る側に門前払いされてしまっては、元も子もなくなります。
現代詩を書く俊太郎も、このジレンマに思い悩んだに違いありません。そして、思春期の青年の心情を詩にしようとしたときも、このジレンマと格闘したのではないでしょうか。
『うつむく青年』は、そのような過程を経て、表現し伝えるために、最もふさわしい形を模索して生み出されたもののように感じられます。
「うつむいて
うつむくことで
君は私に問いかける
私が何に命を賭けているかを
よれよれのレインコートと
ポケットからはみ出したカレーパンと
まっすぐな矢のような魂と
それしか持ってない者の烈しさで
それしか持とうとしない者の気軽さで」
(『うつむく青年』より引用)
具体的なイメージと抽象的な表現を絶妙に絡めた詩は、まさに説明のできない思春期の青年の心情そのものではないでしょうか。
「そんな形に自分で自分を追いつめて
そんな夢に自分で自分を組織して」
(『うつむく青年』より引用)
ぼんやりとしながらも、圧倒的な存在感を持って迫ってくるもの……そんな中学生の多感な時期にこそ、この『うつむく青年』は、より輝きを放つ詩集といえます。
宮沢賢治と聞くと「雨ニモマケズ……」というフレーズを思い出す人も多いでしょう。あるいは『銀河鉄道の夜』でしょうか。岩手県で生まれ育った賢治は、37歳でその生涯を閉じています。没後、時を経て、これだけの存在感を放っていることを考えると、この短い生涯に驚かされる人も多いのではないでしょうか。
賢治は、この短い生涯を圧倒的な密度で生き抜いたといえます。彼がその生涯で追い求めていたこととは、何だったのでしょうか。
- 著者
- 宮沢 賢治
- 出版日
- 1991-08-01
宮沢賢治が語っていた言葉に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というものがあります。彼の生涯を単純にたどっていくと、重苦しさを感じてしまう要因はここにあるのでしょう。これは、あまりにも理想主義的過ぎて、一個の人間が背負うには重すぎるからです。
世間一般に言われるように「個人の幸福ありきの他者の幸福」という順番ならば、生きていくことに対してそこまで思い悩むことはないでしょう。なぜなら、自分が幸福と感じることは、他者の幸福につながっていくと思えるからです。
一方で、賢治のような考えで生きていくことは、幸福を感じることは、他者の幸福を顧みず自分だけが……という思いに駆られてしまうのではないでしょうか。
賢治の描く物語や詩には、人と動物や植物、風や雲や光、星や太陽といった、あらゆるものが登場します。これは、理想主義を背負い、生きていこうとする中で、賢治が聞き取った森羅万象の声だったのかもしれません。
「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系にさうけいをたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう」
(『永訣の朝』より引用)
これは、最愛の妹「トシ」が病気のために24歳の若さでこの世を去っていく際の心情をうたった詩です。同時代の詩人にも絶賛されるほどオリジナリティにあふれています。しかもそれは、単に新しい表現を標榜した表面的なものではなく、自分の心情を書き留めるためにはそうせざるを得なかったというリアリティを感じさせるのです。
賢治の詩は長いものが多く、難解さもあるため、敬遠されてしまうこともあるのですが、感受性が豊かな時期にこそ、その言葉から感じ取れることはたくさんあります。たくさんある作品の中で、一つだけでいい、自分の心に響く詩に出会えることは、生涯の宝になるはずです。
不遇な出生と生い立ちの室生犀星の詩には、その逆境を苦労を乗り越えた末の、他者に対する慈しみにあふれたものが多くあります。それは、他者の痛みを感じ取る感受性を、苦労の中で身に付けてきたからに他なりません。
『生きものはかなしかるらん』には、苦悩を突き抜けていくことが、時に豊饒な芸術を生み出す源泉になることを教えてくれる作品がたくさん詰まっています。
- 著者
- 室生 犀星
- 出版日
「生きものの
いのちをとらば
生きものはかなしかるらん。
生きものをかなしがらすな。
生きもののいのちをとるな。」
(『動物詩集』より引用)
太平洋戦争の真っただ中、1943年に刊行された『動物詩集』の序詩です。一億総玉砕が叫ばれ命が軽んじられる時代において、この序詩に含まれるメッセージは大きなものだったでしょう。
北原白秋も、「ここにはあらゆる人間の愛がある」という言葉を残していて、犀星の詩からは沸々とあふれ出る慈しみの心を感じ取ることができることを示唆しています。
「わたしは何を得ることであらう
わたしは必ず愛を得るであらう
その白いむねをつかんで
わたしは永い間語るであらう
どんなに永い間寂しかつたといふことを
しづかに物語り感動するであらう」
(『愛あるところ』より引用)
静かな夜の窓から眺める海が、絶え間なく響かせているさざ波のように、心の中に緩やかに広がっていく詩です。犀星の作品は、まだ未熟な感受性のひだを、優しく刺激してくれることでしょう。
中学時代というのは、特有の感受性を有する貴重な時期です。感じ取れるものは多々あります。これは、大人になってからではできない、純粋なものであり、これが人生を豊かにする方向付けになったりもします。
そんな時期に、一つでも心に響く詩と出会えることは、一生の宝となります。「詩」というものは、詩人がその生涯をかけて磨き上げた言葉の芸術です。受験のために理解するための勉強としてだけではなく、ただただ詩人の言葉に触れ、感じ取ってみることも、大切なことではないでしょうか。