圧倒的な描写力に引き込まれ、線の美しさに魅力されるマンガ『乙嫁語り』。今回は具体的なシーンをあげながら、本作の魅力を紹介していこうと思う。
『乙嫁語り』を読んで、まず思いだしたのは、「シルクロード」や「街道をゆく」などのNHKドキュメンタリーを観たときの感動だった。日常とは大きく異なる、いままで見たことのない景色、文化、生活習慣などを目の当たりにしたときに感じる感情。それは開放感だったり、驚きだったり、畏れや苦みや感動だったり様々だけれど、とにかく何か心ゆさぶられる体験だった。
ドキュメンタリーは映像なので、流れていく時間に身を任せてただただ圧倒されていた記憶がある。けれど『乙嫁語り』はマンガであり、自分のペースで読み進めていたので、ついつい時間を忘れて世界にどっぷり浸かってしまった。
吹き出しがなく「絵だけ」で7ページも読ませるシーンでは、自分の時間もゆっくり流れているように感じながらページをめくる。細かな刺繍がびっしり書き込まれた織物や建物、そして美味しそうな食べ物が描写されたコマでは、思わず立ち止まって細部までまじまじと眺めてしまう。そんな風に、好奇心のおもむくままに、好きなように堪能してしまう魅力がこのマンガにはある。
出典:『乙嫁語り』1巻
『乙嫁語り』は、19世紀後半、第1次世界大戦前の中央アジアを舞台にしたマンガである。シルクロードが舞台のマンガは紀行ものが多いようだが、『乙嫁語り』ではひたすらに文化へ焦点があたっているのが特徴だ。
冒頭から、華麗な衣装を身にまとった20歳の花嫁が12歳の花婿に嫁いでくるシーンではじまり、嫁入り道具として持参した弓矢で花嫁が(馬で)狩りを行なうシーンが続く。そして、もてなしのためにたくさんの食皿(美味しそう!)を用意するシーン、結婚祝いとしていただいた豪華な布(細かな刺繍がたくさん施された、絨毯のような布)で部屋を模様替えするシーンなど、生活に密着した光景がたんたんと描かれていくのだ。
そもそもタイトルの「乙嫁」というのは、古語で「若いお嫁さん」「美しいお嫁さん」という意味とのこと。第1巻を読むと、20歳の花嫁アミルが主人公のように思えるのだが、続く巻ではまた違った花嫁たち花婿たちが登場してくる。つまり、「花嫁がやってくる」もしくは「花嫁になる」という視点を中心にすることで、自然と当時の生活が浮き彫りになる作りなのだ。婚礼を中心に据えていることで文化の違いがはっきり分かるのが、読んでいておもしろい。
ドキュメンタリーのような楽しみ方ができる作品だと語ったが、それを支えるのは作者の緻密な、精密で美しい、描写力である。人物から背景までほとんど1人でペン入れしており、そのため、筆が早いと言われるこの作者でも2ヶ月に1話(30-40ページ)のペースが精一杯のようだ。
ただ、2ヶ月を待つ甲斐はある。(私は単行本派なので、いつも約1年待っている計算になる。)一度作品を見てみればそれも頷けるはず。私がこの作品の虜になってしまったのも、言葉のないコマの連続が7-8ページほども続き、「絵だけ」で読ませてしまう(そして絵の世界へ引き込んでしまう)シーンを体験してしまってからなのだ。
- 著者
- 森 薫
- 出版日
- 2009-10-15
※余談だが、この「絵だけ」で読ませる感動を覚えたのは、『スラムダンク』の山王戦のラスト以来だった。このゾクゾク感が分かってもらえるだろうか。
森薫といえば、前作の『エマ』も評価が高かった。1890年代、街にはまだ馬車が行き交うヴィクトリア朝時代のイギリスを舞台に、階級社会の光と影を穏やかに淡々と展開したストーリーの作品である。
2005年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞した作品、と折り紙つきだが、自他ともに認める作者の「メイド好き」がいかんなく発揮された作品として、そのこだわりを楽しむのもおもしろいだろう。
- 著者
- 森 薫
- 出版日
- 2002-08-26