ズボンの後ろポケットにも入ってしまう、持ち運ぶのに適した大きさの文庫本。携帯して、ふとした空き時間に本を開いてみるのもいいものです。そんな時間を、詩を読んで過ごしてみてはいかがでしょう?生涯の宝物のような言葉に出会えるかもしれません。
タイトルにひかれ、手に取る。手に取って、本を開く。本を開いて、言葉に目を落とす。言葉に触れた瞬間、何かが心に染み込んでくる……。
この作品で綴られているのは、ずっと一緒にいたい、そう思わせてくれるような言葉です。
- 著者
- 銀色 夏生
- 出版日
銀色夏生の詩集『すみわたる夜空のような』を読むと、タイトル通りの素敵な言葉と出会うことができます。日常でよく使う言葉を組み合わせ、並び替えるだけで、こんなにも受ける印象が変わってしまうものかと感動を覚えることでしょう。
「その思いは泡になる
泡になって
消えてしまう
だから気にしなくていい
この思いも泡になる
泡になって
消えてしまう
消えてしまうだろう」
(「泡になる」より引用)
気にかかって、心を病んでしまうような思いも、泡になって消えてしまう。なぜならそれは、形があるものではなく、心が生み出したものでしかないから……誰しも経験のあるそんな思いを、詩として言葉にすることで、静かに広がる夜空を見上げるような空間にしてしまう。夏生の詩には、そんな魅力が詰まっています。
次に、10代に人気のある詩を紹介します。
「君は好きなことを、
好きなふうにやるべきだ。
そのことが他人から見て、どんなに変でも、
損でも、バカだと言われても、
気にするな。
だって彼等は、君の願いを知らない。
君が何をめざし、
何に向かっているのかを知らない。
君は彼等とは違うものを見てるのだから。
あの、強い思いだけを、繰り返し思い出して。
そのことを忘れないで。」
(「君へ」より引用)
素敵な詩です。10代の子供たちにだけでなく、新社会人として働き始める20代、このままでいいのだろうかと迷う30代、人生の折り返しを迎え立ち止まる40代……さまざまな世代の人に響く詩ではないでしょうか。
いつもポケットやカバンに入れて、持ち歩き、ふとした時に開きたい詩集です。
現代詩を代表する詩人である谷川俊太郎が、その半世紀以上に渡る創作活動の中で書いてきた2000篇を超える詩から、作家自身が173篇を厳選した詩集です。さまざまな世代から支持を受ける俊太郎の詩。まだ読んだことのないという人にも、その魅力に触れるきっかけを作るのに最適な書とも言えるでしょう。
- 著者
- 谷川 俊太郎
- 出版日
- 2013-01-16
「あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった」
(「かなしみ」より引用)
「どんなうつくしいひとの
うんこも くさい
どんなえらいひとも
うんこを する
うんこよ きょうも
げんきに でてこい」
(「うんこ」より引用)
2篇から抜粋してみました。両極に位置するような詩を読むと、この詩集がどんなものかが、わかりやすく伝わってきたのではないでしょうか。言葉にこだわりながら、とらわれない、谷川俊太郎の詩への取り組みが見て取れます。詩とは、実生活では直接的には必要のないもの。俊太郎の言葉を借りれば「くだらないもの」。だけど、好きになった瞬間、いつもそばに居てほしいもの。心の支えになってくれることもあるでしょう。
「言葉は果実
苦しみの夜に実り
喜びの日々に熟して
限りなく深まる意味で
味わい尽くせぬ微妙な味で
人々の心を結ぶ」
(「言葉は」より引用)
言葉は、毎日一緒にいて、生涯を共にする存在です。あまりにも身近なだけに、きっかけがなければ、それについて深く考えることはまずないでしょう。この詩集は、言葉と向かい合うことが人生そのものである詩人、谷川俊太郎からの贈り物です。
「----やっぱり I was born なんだね----
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
---- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は
生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね----」
(「I was born」より引用)
詩人、吉野弘の代表作の一つ「I was born」という詩からの抜粋です。平易な言葉でつづられているにも関わらず、心の奥深くに染み込み、じわじわと広がってくる……そんな魅力を持つ詩を、吉野はたくさん残しています。
- 著者
- 吉野 弘
- 出版日
- 1999-04-01
「それはまるで
目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが
咽喉もとまでこみあげているように見えるのだ。
淋しい光りの粒々だったね。」
(「I was born」より引用)
なぜ生まれ、生きていくのかという、根源的な問いに対して、明確に答えられるものはいないでしょう。どんな宗教家も哲学者も、明確な答えを導き出してはいません。なぜなら、この問いは、明確な答えを出すようなものではなく、人それぞれ、生きていきながら体得し、死と共に消えてしまうものだからではないでしょうか。「I was born」という作品は、その問いを読み手に投げかけ、考えさせ続ける存在感を放っています。
一方で吉野は、次のようなストレートな詩も書いています。
「二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派過ぎないほうがいい
立派過ぎることは
長持ちしないことだと
気づいているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい」
(「祝婚歌」より引用)
吉野の詩は、心に言葉の小石を投げ入れ、いつまでも波紋が広がり続けるような、そんな魅力が詰まっています。
さまざまな分野で後世に影響を与えている詩人、中原中也。彼は30歳で生涯を終えています。一般的に考えれば、まだ未熟ともいえるこの若さで、この世を去った詩人が書き残した詩に多くの人が感銘を受けるのはなぜでしょうか。
- 著者
- ["中原 中也", "吉田 ヒロオ"]
- 出版日
- 2000-03-29
中也の生涯をたどると、いわゆる一般的な幸福を求めるものではありませんでした。いえ、そうしようとしたけれども、同じような道を歩むことができなかったと言うべきなのかもしれません。これは逆に言うと、他の人が選び得ない生き方をしたともいえます。そしてその生涯を通して、表現手段として詩を選んだのです。だからこそ、人々は中也の残した詩にひかれるのではないでしょうか。
「汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる」
(「汚れちまった悲しみに」より引用)
「汚れちまった悲しみ」とはどういうことでしょう……字面だけ見ると簡単そうですが、この言葉の組み合わせを思いつくのはなかなか至難の業でしょう。実際、中也もこのフレーズを紡ぎだすのに、経験を通して得た感情の揺さぶりを、神経を削るように書き留めたのではないでしょうか。
「思えば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いずこ
雲の間に月はいて
それな汽笛を耳にすると
竦然(しょうぜん)として身をすくめ
月はその時 空にいた
それから何年経ったことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追いかなしくなっていた
あの頃の俺はいまいずこ」
(「頑是ない歌」より引用)
さっと一瞬で流れていってしまうような風景も、詩人・中原中也の感性を通すと、こんなにも豊かな表現となってこの世に表れてきます。そして、言葉となって書き留められることによって、幾世代を経て読み継がれ、時代時代、人それぞれに影響を与えることができます。
詩は、先人が残した言葉の贈り物ともいえるでしょう。30歳という短い年月に凝縮した彼の生命の輝きを、詩を通して感じてみてください。
インパクトのあるタイトル。「夜露死苦」とは暴走族が全盛期の時、身に付けていた特攻服に施した刺繍や壁にペンキで落書きしていた「よろしく」の当て字です。くだらないといえばくだらない。ただ、彼らはなぜ暴走行為をし、壁に文字や絵を落書きしていたのでしょう。暴走行為や落書きは、自己表現であり、彼らにはその表現手段しか取ることができなかったといってもいいのではないでしょうか。
この『夜露死苦現代詩』の中には、これまで詩として扱われることがなかった雑多な言語表現が拾い集められ、収録されています。「詩」を作ることを初めから意識していないからこそできる表現は、「詩」という言葉の芸術に対する問題提起も含む示唆に富んだ内容になっています。
- 著者
- 都築 響一
- 出版日
- 2010-04-07
「天から貰ったこの命
咲いて散るのが我人生
たとえこの華散ろうとも
一生一度の青春を
地獄で咲かせて天で散る」
(『夜露死苦現代詩』より引用)
暴走族の書いた詩です。頭から否定的に「稚拙でくだらない」といってしまうのは簡単ですが、果たしてこのような表現が、どうして生まれてきたのかを考察すると非常に興味深くもあります。しかも彼らは、その文言を特攻服に刺繍して、それを背負って暴走行為をしていたのです。社会的に迷惑な存在であることはさておき、そこには彼らなりに人生をかけた自己表現を行っていた必死さともいうべきものが伝わってきます。
「布団たたみ 雑巾しぼり 別れとす
叫びたし 寒満月の 割れるほど」
(『夜露死苦現代詩』より引用)
こちらは、死刑囚が綴った俳句です。いつ自分の死刑執行の順番がくるか分からずに過ごすという極限の精神状態に日々身を置き、自分の犯した罪と、それに対する社会的罰を独りで背負う。そしていよいよ自分の順番が来たことを告げられ、死を目の前にした時の心のありさまが直球で伝わってきて、心を打つ響きとなっているのではないでしょうか。
「小さく小さく小さく微生物のように
いつも動いている微生物どうしが
乱動を起す
小さな凶器が血を流す
ガラスビンの中は赤くおごれている」
(『夜露死苦現代詩』より引用)
統合失調症の青年が書き殴った詩です。もし作者を、有名な現代詩の詩人にしてしまったら、そのまま通用してしまうのではないかと思えてしまいます。
詩を書こうとして書いているのではなく、世の中に発表しようとして書いているのでもない。ただそこには純粋に表現しようとする衝動があるのみで、それだからこそ逆に力を持ち、存在感を放っているのではないでしょうか。
詩と詩ではないものを分ける境目は何なのだろうかという問い。人はなぜ表現するのだろうかという問い。この『夜露死苦現代詩』という一風変わった詩集は、「言葉で表現することとは?」という根源的な問いを投げかけてます。
ポケットに詩集を。そして、ふとした時に本を開いて、詩人が残した言葉に触れてみる……。それは、時を超えて優れた感性に出会う旅でもあります。もっとも身近な表現手段である言葉を、「詩」を通して改めて考え、感じてみるのもよいものです。