海外の詩には、さまざまな分野で多くの日本人が影響を受けた優れた作品が、多数存在しています。今回は、海の向こうで作られ、代々読み継がれている、特に有名な詩集をピックアップしてご紹介します。
アメリカのロック音楽界の重鎮、ボブ・ディラン。2016年度のノーベル文学賞を受賞したことで、その方面に興味のなかった人たちにも、より広く知られるようになりました。
受賞報道をニュースで見た時、「えっ、なんで?ボブ・ディランって歌手でしょ?」と、率直に思った人も多いのではないでしょうか。確かに、表面的なところにだけ着目してしまうと、そう考えられるでしょう。ただ、歴史あるノーベル賞選考において選出されるということは、深い理由が存在しているのです。
文学とは、文字で文章を構成するもの。そして、そのもっとも古い形式が「詩」とされています。しかも、古代ギリシャにおいては、歌うように言葉が伝えられていたといいます。そこに、ボブ・ディランとの共通点を見出す人も多く、彼の受賞は、文学とは何かという根源的な問いかけの意味合いも存在していたのではないでしょうか。
- 著者
- ボブ ディラン
- 出版日
- 1993-04-01
「How many times must a man look up
before he can see the sky?
How many ears must one man have
Before he can hear people cry?
How many deaths will it take till he knows
That too many people have died?
The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind」
「人は何度見上げれば
空が見えるのか
人にはいくつ耳があれば
人々の悲しみが聞こえるのか
どれ位の人が死んだら
あまりにも多くの人が亡くなったことに気づくのか
友よ答えは風に吹かれて
風に吹かれている」
(「風に吹かれて」より引用)
一見、具体的な内容をうたっているように見えて、言葉の連なりによってかなり抽象化されています。具体的になればなるほど、聞き手に限定的なイメージを与えるのに対し、抽象化が成功すると、どう感じるかを聞き手に委ねて、普遍的でより根本的なことを伝えることが可能になるのですが、ディランの歌詞は、その絶妙なところに着地しています。
歌としてだけではなく、文学を楽しむような切り口で、ボブ・ディランの作品に触れてみるのもおすすめです。
時代と共に文化も大きく変革していく中で、ダダイストやシュールレアリストのような20世紀の多くの詩人に影響を与えた、アルチュール・ランボーによって書かれた『地獄の季節』。それは、遠く海を越えて日本の芸術家たちにも影響を与え、時代を超えて生き続けています。
しかし驚くことに、ランボー自身の創作期間は、わずか4年間といわれ、20歳代前半で詩作を放棄しているのです。この短期間に生み出された詩が、これほどまでに影響力を持ち、魅力を放っているのはなにゆえなのでしょうか……。
- 著者
- ランボオ
- 出版日
「もう一度探し出したぞ、
何を?永遠を。
それは、太陽と番(つが)った
海だ。
待ち受けている魂よ、
一緒につぶやこうよ、
空しい夜と烈火の昼の
切ない思いを。
人間的な願望(ねがい)から
人並みのあこがれから、
魂よ、つまりお前は脱却し、
そして自由に飛ぶという……」
(「永遠」より引用 )
ランボーの詩は、韻を踏まず、リズムや規則性もない、いわゆる散文詩で感じたことをそのまま書きなぐったような印象を受けるもので、当時のフランスの文学界は、その革新的な響きに衝撃を受けたといいます。そして、海を渡った日本でも、萩原朔太郎が中心となって起こった近代詩の目指すところは、ランボーの詩作と重なり、以後の詩人たちに大きな影響を与えていくのです。
16歳から19歳までの鋭敏な魂の振動ともいうべき感情を、思う存分世の中に送り出した後、若き天才詩人は、もうこれ以上このような純粋な詩作はできないと悟り、詩作から縁を切ったのかもしれません。だからこそ、色褪せぬ輝きを、時代を超えて放っているのではないでしょうか。
そして、多くの人に影響を与えたため、日本語へ訳した作家も多数います。堀口大学、小林秀雄、中原中也……訳者によって受ける印象も違ってきます。まずは自分にしっくりくる訳で、ランボーの詩に触れてみてはいかがでしょう。
「ルバイヤート」とはアラビア語で、「四行詩集」を意味しています。11世紀ペルシャの詩人、オマル・ハイヤームによって書かれたものです。
オマル・ハイヤームは当時、数学と天文学に通じていた著名な学者で、その分野で多くの偉業を残していますが、詩人としての評価が高かったわけではありません。彼の死後、あまりの詩の素晴らしさに、後世には学者としてではなく、優れた詩人として認識されるようになり、19世紀イギリスの詩人、フィッツジェラルドによって編さんされるとヨーロッパでも流行することになります。
- 著者
- オマル・ハイヤーム
- 出版日
- 1979-09-17
「もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きてなやみのほか得るところ何があったか?
今は、何のために来たり住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!」
(『ルバイヤート』とより引用)
世のはかなさ、生きることの無常さをうたった、どこか虚無主義につながっていくような傾向が読み取れます。爛熟期をむかえ、デカダンス的動きが各国・各地域で同時的に起こっていた、19世紀末のヨーロッパで流行したのも頷けます。
「あしたのことは誰にだってわからない、
あしたのことを考えるのは憂鬱なだけ。
気がたしかならこの一瞬を無駄むだにするな、
二度とかえらぬ命、だがもうのこりは少い。」
(『ルバイヤート』とより引用)
このようにひたすら四行でつづられていく詩を読んでいくと、それほど昔の人物が書いた詩とは思えなくなってきます。時代を超えて読み継がれる詩には、相通ずるものがあるのでしょう。それを思いながら本を開き、中世の詩人と時を共に過ごすのも、貴重な体験となることでしょう。
「,僕は見た
,狂気によって破壊された僕の世代の最良の精神たちを
,飢え
,苛ら立ち
,裸で夜明けの黒人街を腹立たしい一服の薬(ヤク)を求めて
,のろのろと歩いてゆくのを」
(「吠える」より引用)
ギンズバーグの代表的な詩「吠える」の冒頭部分です。
出来れば関わりたくない、目を逸らしておきたいこと……しかし、厳然として目の前に存在している現実。なぜギンズバーグは、このような詩を読むに至ったのでしょう。
- 著者
- アレン・ギンズバーグ
- 出版日
ギンズバーグは、1955年から1964年頃にかけて、アメリカの文学界に衝撃を与え、異彩を放っていたグループ「ビートジェネレーション」の代表的な人物です。
生年でいうと、1914年から1929年までの、第一次世界大戦から狂騒の20年代と呼称される時期に生まれた世代。これは言い換えると、アメリカが大量生産・大量消費の時代に入り、世界で最も富める国としての立場を確立・強化した時代に生まれ、1929年の世界大恐慌から第二次世界大戦の時期に、思春期~成人を迎えた世代ともいえます。
近代から現代へ移行していくとき、人類は今までに経験したことのない超高速な変化に飲み込まれていったと言えるでしょう。その変化の波を、多感な時期にもろにかぶった世代は、繁栄の裏側に必ず醸成される闇に目をつむることができず、大きな影響を受けてしまい、その内側にあふれだしてくる感情を、言葉で表現したのが、ギンズバーグの詩の原点だったのではないでしょうか。
「,ある者らは
,金もなく
,ぼろぼろのシャツを着て
,うつろな眼でタバコをふかし
,寝もせずに
,湯も出ないアパートの超自然的な暗闇で
,都会の上を漂いジャズを瞑想していた」
(『吠える』より引用)
そこには、現実を叩きつけてくるような言葉があります。ただ、ここから目を背けてしまうのは簡単ですが、現代の文化につながっていくものを感じることもできるのは確かです。ギンズバーグの詩を通して、ヒッピーを中心とする当時の若者たちから絶大な支持を受けた「ビート文学」に触れてみるのも良いかもしれません。
19世紀オーストリアの詩人、リルケは、多くの同時代の芸術家と親交を結びながら、自らの詩を確立していきます。特に、彫刻家オーギュスト・ロダンの芸術観に深い感銘を受け、『新詩集』を発表しました。
芸術というものに真摯に向き合ったリルケの詩は、近・現代文学の一つの到達点ともいわれています。詩を読むのであれば、一度は触れておきたいものの一つであることは間違いないでしょう。
- 著者
- リルケ
- 出版日
- 2010-02-17
「手に取った硫黄の燐寸(マッチ)が、
まず白亜に閃光し、
舌鋒をめらめらと八方に放ち、
それから火焔となって燃えさかるように、
観衆の囲うなかで
彼女のダンスは鮮やかに、熱烈に、すばしっこく動いて、
だんだんとその輪を広げてゆく。
そしていきなり、すべては炎と化す。」
(『新詩集』より引用)
ロダンに影響を受け、書いた『新詩集』は「事物詩」と言われ、言葉で物に迫っていく表現の仕方をしています。一方、晩年には、軽やかな風のような、音楽を連想させるような詩に変貌を遂げます。
「ああ、すべては、なんと遠く
ひさしく過ぎ去っていることか。
わたしがいま、そのかがやきを
受けているあの星は、
何千年のむかしから死んでいるとわたしは思う。
(中略)
わたしは自分の心からふみだして
大きな空のしたに立ちたい。
わたしは祈りたい。
すべての星のうち、どれかひとつは
まだほんとうに存在するにちがいない。」
(「なげき」より引用)
かなり印象が違う2つの詩ですが、何か軸のようなものが一本通っているようにも感じられるでしょう。リルケが、その生涯を通して芸術と向かい合い、得てきたものは何だったのかに触れることができる詩集は、自分の人生に新たな視点を得る経験をさせてくれるかもしれません。
国が違っても、表現をしようとする欲求は、人類共通の特性です。詩は、言葉という壁があるので、その国の言語に熟達しない以上は、訳者のフィルターを一枚通さなくてはなりません。しかしながら、訳詩とはいえ、そこから時代を背景にした他国の文化に触れる価値は十分にあります。
そして、近・現代の文化が、グローバルな展開をしていることに、詩を読むことで改めて気付かされることも多いです。芸術は、時間と空間を飛び越えることができる人類の偉大なる発明の一つともいえるのではないでしょうか。