本を読む目的は何か、なぜ本は面白いのか、考えたことはないでしょうか。ここでは、著名作家による読書案内を通して、読むことを分析、その面白さを探っていきます。
物語が役割を十分に発揮するのは、どのような時でしょうか。読者に喜びを与えるとき、人を感動させるとき、新たな価値観を提供するとき、それは物語によって様々です。小川洋子は、そのような点を考えながら自身の物語観を展開。それを記したのが、本書『物語の役割』です。
- 著者
- 小川 洋子
- 出版日
- 2007-02-01
本書の中では、物語が読者の心をふるわすような何らかの役割を果たす場面が紹介されており、たとえば次の文章などが例示されます。
「(泥棒である)三人が絞首台で処刑されるのを他のユダヤ人たちは広場で見学させられました。その三人が吊された瞬間、エリ・ヴィーゼルの後ろで、誰か大人が「神さまはどこだ、どこにおられるのだ」とつぶやくのです。その時、エリ・ヴィーゼルは、心の中に響く「ここにおられる-ここに、この絞首台に吊されておられる」という自分の心の声を聞くわけです。」
(『物語の役割』から引用 一部捕捉)
このような記述は、読者にとって鮮烈な印象を与えます。そして、こういった読書体験から、私達は、豊かな感情と共に、言いようのない思いを感じとることがあるのではないでしょうか。
また、物語の進み方についても、著者は自分なりの考えを示しています。
「自分が全能の神になって登場人物を操り人形のように操っていたのでは、自分の頭のなかに納まる話しかできません。(中略)自分の思いを突き抜けて、予想もしなかったようなところへ小説を運んでいってくれるのは、自分以外の何かであるんじゃないか。」
(『物語の役割』から引用)
確かに、物語の構成を自分の頭の中で考え、話を作っていくだけでは、自分の実力以上の物語はできません。多くの場合、物語を書くときは、初めにテーマを決めて、それに沿いながら、だいたいの予感、直感を頼りに物語を綴っていく事が定石。そうするうちに、登場人物たちが自ら話すようになり、勝手に動き出し、自分が作っていると思っていた物語が、自分の手を離れ自立的に動き出し、思わぬ方向に物語を進めていくことがあります。
これは、実際に物語を作った人ばかりでなく読んだ人も体験する感覚。物語は、科学の実験である一方、科学の実験ではありません。科学の実験のように、あらかじめ結果を推測して、そこに至る過程を綿密に作り上げていく事が小説の執筆、小説の読み方である一方、科学の実験ではあまり見受けられない、勝手気ままに試験管やビーカーを動かして、何ができるかな、と自分の手を離れて自由に進めていく側面もあるといえるでしょう。
勝手気ままなやり方では、科学の実験は上手くいきませんが、小説では、自分の考えを超えたところに物語を運んでいく事ができ、それが優れた物語となる事も。面白い読書が、自分の手を離れた所を進んでいくものである事も、予測を超えた展開であるからだと説明することが出来ます。このように考えたとき、科学の実験と小説とは、似ているものである一方、似ていないものである、といえるのかもしれません。
著者は、物語の性質を考察しながら、読書に限らず書くことについても優れた考えを提示しています。興味を持った人は、ぜひ本書を手に取ってみてください。
文章を書く、読むという行為に焦点を当てて、谷崎潤一郎なりの考えを示したのが、この本『文章読本』。優れた感覚と確かな経験に裏打ちされた卓越した考えを知ることができます。
- 著者
- 谷崎 潤一郎
- 出版日
- 1996-02-18
例えば、著者は、文章を読むとき、その内容をどのように感じるか、という事について、次のように説明。
「即ち感覚と云うものは、一定の錬磨を経た後には、各人が同一の対象に対して同様に感じるように作られている」
(『文章読本』から引用)
初めのうちは、どのような文章が優れているか、という判断能力は、人によって様々です。また、一つの文章に対する解釈も様々な捉え方が可能であり、それも人によって様々です。
しかし、それがある一定レベルに到達すると、何が優れていて、何が優れていないか、読者の中に判断基準が形成される、と谷崎は説明。確かに、各人が小説を好きなように捉える事も大切ですが、それでは、その小説に対する統一見解というものができません。授業で小説を取り扱うとき確かな答えがなければ採点のしようがありませんし、学校において主人公のその時の感情を議論したとき、皆の意見がばらばらで要点を得なければ、優れた意見を選定することは出来ないでしょう。
そのような意味で、小説に対する感覚や読解力というものは、熟練するに従って収斂(しゅうれん)していくものである、といえます。
しかし、これが、より複雑な批評などのレベルになると、ひとつしかないと思われていた小説に対する回答に、様々な角度からの論評が加えられ、その答えは、少数ながら複数の捉え方が出来るようになります。
初めこそ、様々な捉え方ができた読書感覚が、ある一定の修練を積むと、正しい回答に収束していき、さらにいくと、複雑な捉え方が出来るようになり様々な方向へと発展していく、というのは、非常に興味深い考え。読書の仕方ひとつにも、色々な考え方がある点は面白いですよね。
そして、これは古くから伝わる守破離という思想に当てはめて考える事が出来るのではないでしょうか。「守」で、様々な捉え方の中から正しい捉え方を学ぶ訓練を重ね、「破」で、自身の考えを改善・改良し、「離」で、正しい回答を踏まえた上で、自分なりの解釈を行い、批評、論文、小説を書くという段階まで到達する、といった具合になります。このように、読書するという行為ひとつをとってしても、そこに様々な段階があることが分かるのではないでしょうか。
著者の考えからは、そのような文章に関わる様々な法則を学ぶ事ができ、参考になる記述が多くあります。書く、読むという行為を深く学びたい人は、ぜひ手にとってみてください。
短編小説とはどのように捉えるべきか、という点を解説したのが、この本『若い読者のための短編小説案内』。少し難しい解釈が多く見受けられますが、読んでいて勉強になる優れた一冊です。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
村上春樹は、作品を読むときについて、
「その作品について自分なりの仮説を立ち上げて、その仮説をもとに推論を進めていくことになります」
(『若い読者のための短編小説案内』から引用)
と説明。確かに、本を読むときは、このようになるのではないか、という推論を働かせながら読んでいきますよね。先ほどの科学的な実験のたとえと、捉え方は似ているといえるでしょう。
そして、それと同時に作者の方も、その作品づくりにおいては、自分なりの仮説を立ち上げて、その仮説をもとに推論を進めていくことになります。こうすれば、小説として面白くなるのではないか、人物の感情を上手く表現できるのではないか、と推論を立てながら、作品を作っていくわけですね。
このように考えたとき、作者側も読者側も、ひとつの作品に触れるとき、同じように推論を立てるという作業をしている点が、おさえておくべきポイント。小説では、作者も読者も、推論することで物語を作っていくのですね。
本書は、著者による短編の構造分析が主な内容で、少し難しいのですが、その視点は卓見に満ちており、一読に値する珠玉の名著。興味のある人は、ぜひ本書を手に取ってみてください。
著名な作家としての地位を確立している筒井康隆が、古典作品を例示し、そこにある面白さを分析。本を読む楽しみの一端に触れることができるのが、この本『短編小説講義』です。
- 著者
- 筒井 康隆
- 出版日
- 1990-06-20
様々な作品が紹介されていて、それを読み込むことも面白いのですが、小説の面白さの要因を探る部分も注目に値するポイント。
「哲学は世界の全体像を捕捉する唯一の小径であると言われてきた。やがて哲学が科学にとってかわられ、さらにテクノロジイに対する疑問が出てきて、世界を捕捉する道は閉ざされた筈である。それが、今になって長編小説にのみ可能になった。」
(『短編小説講義』から引用)
科学、哲学は、その分野において世界を細かく把握していき、体系化するものです。しかし、その作業は、日々進展しているものの、完璧に世界全体を捉えたかというと未だその域には達していません。
しかし、科学も哲学も、その時点での技術を固定化する事は可能。車を製造する技術が発展したら車を作り、パソコンを作る技術が発達したらパソコンを作る、哲学に新たな概念が出てきたら、それについて論じ、考えをまとめるということが可能で、日々改良されていきます。
その一方、小説の特徴は、その物語の中に、ひとつの完結した世界を創造すること。そこにおいては、語られるべき事は全て語られ、物語が終わった後に、物語の内容が変化することはありません。
それに対して、哲学や科学は、日々進展していくものであるが故に、多くの研究を重ねていける面白さがあるという点がポイント。テレビも白黒テレビ、カラーテレビ、液晶テレビ、4Kテレビと進化してきました。しかし、それに対して、名作映画である『ローマの休日』の内容をあれ以上発展させる事ができるでしょうか。
このように、哲学や科学と、小説の違いを意識したとき、哲学や科学は、改良されていく余地がある一方、小説は、その作品の中で完結しています。完結した世界に触れ、自分なりの解釈を楽しむ余地があるのが、読書の持つ醍醐味であり、読書の面白さであるといえるのではないでしょうか。
著者の紹介する古典は、内容も解説も面白いので、気になる人はぜひ手に取ってみてください。
イギリス、ヨーロッパ、アメリカの文学を論じ1940年に編纂されたのが、この本『読書案内』。ここで紹介されている本は、どれも古典といえるもので、古典についてのサマセット・モームなりの意見を知りたいという人におすすめしたい一冊です。
- 著者
- サマセット・モーム
- 出版日
- 1997-10-16
ここでは古典を多く紹介しているのですが、その古典に目を通しておくと、著者による説明をより分かりやすく理解する事ができる点がポイント。かといって、全ての本を読まなければいけないかというとそうではなく、優れた本にはこういった性質があるのか、と理解でき、読書とはどうあるべきか、など学ぶ事の多い本となっています。
たとえば、著者が次のような言葉を残している点に注目。
「主人公は、ある特定の人物を指しているのではない、われわれすべてを指すのだ」
(『小説案内』から引用)
これは一体どういう事でしょうか。通常、小説の中の主人公は、作者の創り出す特定の人格をもった一人の人間を指しています。しかし、もし我々が、自分の中にこの主人公のような性質はないだろうか、と考えたとき、それは我々の中の性格についても当てはまります。このようなとき、主人公は、小説の世界を飛び出して、読み手一人一人の中に内省されるものであり、主人公とは、われわれすべてを指すのだ、といえるのではないでしょうか。
その他にも、著者は、プレヴォーの『マノン・レスコー』の登場人物について、
「操がなく、欲深で、残酷である。だが、それでいて、情愛が深く、気前がよく、心はやさしい。」
(『小説案内』から引用)
と説明。このような説明を読むと、性格に一貫性がなくどのような人物なのか分かりません。しかし、それゆえに人間的であると言える側面もあり、どのような人物なのか気になってきて、おもわず本を読んでみたくなるのではないでしょうか。
また、著者は、本書の中で、読書とは楽しみである、と繰り返し説明しています。楽しいからこそ、本の世界に没入することができ、色々な発見や楽しみがある、という考えは、読書の真理の一面を表わしていますよね。
世界的な文豪であるモームが、どのような本を薦めるのか、気になる人は手に取ってみてください。
著名な作家が小説をどのようによんでいるか、何を勧めているか、これらの本を読めば分かるようになっています。本の紹介だけでなく、面白い解釈まで色々楽しめますので、気になった人はぜひ手に取ってみてください。