代表作の一つ『蜜のあわれ』が映画化された室生犀星。近代文学を牽引し、多大な影響を残した犀星の代表作を5つピックアップして、その生涯と作品を見ていきたいと思います。
大正期の詩壇を牽引し、小説、随筆、童話、俳句など多岐に渡って名作を残した室生犀星。
その出生は決して恵まれたものではなく、私生児として生まれ、実の親の顔も見ることなく養子に出されています。しかしながら犀星は、この幼少期の心を揺さぶる経験を、優れた作品として昇華していきました。
21歳で上京した犀星は、生活苦にあえぎながら、帰郷と上京を繰り返します。そして、北原白秋に認められたのを機に、文学界での活動の場を広げていき、詩と小説を中心に数多くの作品を生み出していくのです。
室生犀星、最晩年の作品『蜜のあわれ』は、ストーリーが会話だけで展開していくという、一風変わった小説です。しかも、その登場人物は、70歳の「おじさま」と三年子の赤い金魚「あたい」が中心になって展開され、既にこの世を去っている“田村のおばさま”が加わるという……。
1959年に本書が刊行されたとき、犀星も「おじさま」と同じ70歳。齢を重ね、作家としても成熟した時期に入っていた犀星が、このちょっと不思議な小説を通して表現しようとしていたことは何だったのでしょうか。
- 著者
- 室生 犀星
- 出版日
- 1993-04-28
自分のことを「あたい」と呼ぶ赤い金魚は、普段は庭の池で泳いでいるのですが、時に20歳くらいの女性に変身して外出したり、金魚のまま庭の木々の間をふわふわと浮遊して消えてしまったりと、なんともシュールな光景が淡々と描き出されていきます。
そして、飼い主である老作家「おじさま」と会話を楽しんだり、時に金魚のまま戯れたりと、なんとも幻想的で、直接的ではありませんがエロティシズムを感じさせる描写がなされていきます。さらにここに、すでにこの世の人でない「田村のおばさま」が絡んでくることによって、濃厚な死の影が投影されてくるのです。
文章というのは具体的に書けば書くほど、その表現は固定化し、奥行と広がりを失ってしまうものです。特にそれが、厳然として存在しているものなのに、曖昧でつかみどころのないものだとなおさらでしょう。
犀星は、「生」と「死」、それに強固に絡まる「性」という、とらえ方の個人差が大きい事柄について、このような超現実的な小説の形をとることで、逆説的ですが、読み手一人一人とって、より現実的なものとしてとらえられる様に意図したのではないでしょうか。
この、ちょっと不思議な作品『蜜のあわれ』は、そんな犀星の感性の凄みのようなものを、ふんわりと感じることができる作品です。
『杏っ子』は、1956年から約1年間「東京新聞」夕刊で271回にわたって連載された、室生犀星の長編小説です。
物語は、実の親の愛情を受けることなく、不遇な少年時代を過ごした平山平四郎が、小説家になり、結婚をして、子供が生まれるところまでを描いた前半。成長した娘「杏子」が結婚し、決して幸せとは言えない生活と、最終的に離婚することになることを描いた後半、という構成になっています。
- 著者
- 室生 犀星
- 出版日
- 1962-06-10
この『杏っ子』という作品は室生犀星の自伝的小説で、自身の人生を客観的に見ながらも、対象に迫るような近い視点で描かれていきます。小説家として上手い文章を書いてやろうとする気負いのようなものはなく、詩的な感性を絶妙に織り交ぜていく、独特な味のある文章でつづられており、それだけでも読む価値がある作品です。
内容的には、期待する何かがその結末に待っているという類のものではありません。どちらかというと、幸せとはいえない人生が描かれていきます。しかしそこから、じわじわと心の中に染み込んでくる一種独特の感覚を味わうことができます。
「とうとう杏子がピアノを弾くまでになったが、音楽の才能は杏子にあるとは思えない。ただ、杏子がピアノを弾いているので、音楽の臭気が杏子のまわりにあることは確かである。手も顔もピアノの音色に漬けられているようで、ピアノ漬みたいなものだ。」
(『杏っ子』より引用)
犀星の独特な感性に裏付けられた、物事を詩的に描写している部分です。こういう文章に触れると、日本語の繊細さ、奥深さを感じることができます。また、この作品のもう一つの醍醐味は、平四郎と杏子、父と娘のやり取りです。リズミカルに展開される父娘の会話は、人生の機微を絶妙にとらえて表現され、ついつい引き込まれてしまうものがたくさんあります。
「そうか夫婦なんてものは生涯の格闘だからな、幾らでもやれやれ。男は急所をつかれると二の句がつげない正直者ばかりだから、鋭く突き込むんだね。」
(『杏っ子』より引用)
夫婦喧嘩をして杏子が実家へ帰ってきたときの、平四郎の言葉です。小説中のこのような父娘の会話を見ていると、対等な関係の上に築かれた深い絆が描かれているような感じを受けます。
犀星自身は生みの親の愛情を受けることなく成長したので、実際に自分が親になった時に、子に対する愛情のかけ方とはどんなものだろうと、自問自答しながら子育てをしていったのではないでしょうか。この小説を通して犀星が伝えたかったのは「ある愛の形」だったのかもしれません。
犀星の自伝的三部作といわれる、「幼年時代」「性に目覚める頃」「或る少女の死まで」が収められていて、それぞれで少年時代、青年時代、上京してからの物語が描かれています。犀星が、はじめて小説作品をしたためたのは30歳のときで、その処女作から連なる三部作でもあり、彼の作品の軸を知る貴重な小説でもあります。
- 著者
- 室生 犀星
- 出版日
- 2003-11-14
読者は、『或る少女の死まで』というタイトルを見たとき、少女の死が描かれ、物語はそこに向かって進んでいくのだろうなと予感して本を開くことでしょう。最終的にその通りなのですが、しかしそこには、いわゆる泣ける結末とは一味違う感覚が漂うのです。これは、犀星の持つ独特な詩的描写、同時代の作家が羨望した感性の成せる技ともいえます。
上京して、極度の貧困に喘ぎながらも、詩作にかけて生きる「私」の、若き日の生活を中心に話は進んでいきます。しかしその生活は、酒の上での争いに巻き込まれ警察沙汰になり、それに伴う金銭的ないざこざで精神的に打ちのめされるという状況です。
そんななか、純真無垢な少女に出会い、心惹かれ、交流する様子が会話形式で描かれていきます。それは、世の中と人生に疲弊した男と、そのような世界とは無縁でいられることを許された少女との清冽な交流で、ほんのりと、しかし深く印象に残るでしょう。特に、二人が動物園へ連れ立って行った時の描写は印象的です。
最後に、少女の死を知らされ、「悼詩」で結ばれるのですが、そこには何とも言えない余韻が残り、純真無垢な少女の死に、一種の美しささえ感じてしまいます。犀星の独特な文章の「魔力」的なものを感じることのできる作品です。
1300編あるといわれる、室生犀星の詩。その中から、名作と言われる詩を厳選して編集した詩集は貴重な存在です。犀星の詩は、彼の人生に裏付けられた類い稀な感性によって紡ぎだされた言葉であり、日本語の成しえる言葉の芸術の結晶ともいえます。文庫本をポケットに入れて持ち運び、ふとした時間に開いてみるのもいいものです。
- 著者
- 室生 犀星
- 出版日
- 1968-05-14
「ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや」
(「小景異情 その二」より引用)
出だしの部分は、あまりにも有名なものなので、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。実の親の愛情を受けずに育った犀星にとって、故郷とは何だったのでしょう。両親の無償の愛情と共にある憧憬の場所ではありません。しかし、心の拠り所となる場所……。経験を通し、研ぎ澄まされた感性が紡ぎだす、煌めくような印象を受ける詩です。
「いつの日に忘れしものならん
納戸の小暗きを掃きたりしに
三株ばかりの球根の種、
隅よりころがり出でて
もはや象牙のごとき芽を吹きけり。
芽にちからあり
指触れば水気ふくみゐて光る、
余りにしほらしく
土にうづめぬ。」
(「忘春」より引用)
納戸の隅から出てきた球根。ただそれだけの出来事の中に、犀星の感性が触れると、言葉が芸術性を帯びるから不思議です。そして、その内奥にある生命力を見て取り、歌い上げるところは、単純に凄いなあと思ってしまいます。
日本が生んだ屈指の詩人の言葉に触れるには、最適な詩集です。
犀星が自費出版した処女詩集です。不遇の少年時代から、苦労して文壇で確固とした地位を築き上げた犀星の、優しさと愛の集大成ともいうべき詩集です。
- 著者
- 室生 犀星
- 出版日
「ここにはあらゆる人間の愛がある。寂しい愛、孤独の愛、真実の愛……(中略)さうして一切の愛、これらが皆この中にある。」
(『愛の詩集』より引用)
この詩集の序文で、北原白秋が寄せた言葉です。あらゆる愛の形を挙げて、それらはすべてこの詩集の中につまっていると述べています。
「私はやはり内映を求めてゐた
涙そのもののやうに
深いやはらかい空気を求愛してゐた
へり下つて熱い端厳な言葉で
充ち溢るる感謝を用意して
まじめなこの世の
その万人の孤独から
しんみりと与へらるものを求めてゐた
遠いやうで心たかまる
永久の女性を求めてゐた
ある日は小鳥のやうに
ある日はうち沈んだ花のやうにしてゐた
その花の開ききるまで
匂ひ放つまで永いはるを吾等は待つてゐた」
(「万人の孤独」より引用)
「わたしは何を得ることであらう
わたしは必らず愛を得るであらう
その白いむねをつかんで
わたしは永い間語るであらう
どんなに永い間寂しかつたといふことを
しづかに物語り感動するであらう」
(「愛あるところに」より引用)
苦労をしたからこそわかる、人の痛み。そしてそこに根差す優しさ。犀星の詩からは、そういう優しさからあふれ出る感性を受け取ることができます。その言葉に触れることで、読み手一人一人、違った形で浮かび上がってくる「愛」を感じ取れる詩集です。
犀星の言語表現は、かの川端康成が「言語表現の妖魔」と讃え、芥川龍之介もその感性に羨望したと言われています。それは、不遇を乗り越え、苦労に屈せず生きてきた人間が持つ、強さと優しさに裏付けられた特別な感性と言えるのではないでしょうか。同じ日本人として、犀星の感性と言語表現は世界に誇るべきものの一つです。それは、ずっと読み継いでいきたい、詩人の魂の記録でもあります。