『ビルマの竪琴』が5分でわかる!あらすじやモデル、インパール作戦等を解説

更新:2021.11.18

日本人にとって馴染み深い児童文学『ビルマの竪琴』。戦争の悲惨さとともに、音楽の力で国境を超えて人々が繋がっていく様子もいきいきと描かれています。この記事では、あらすじや作中で歌われる「埴生の宿」、主人公である水島のモデルとなった人物、インパール作戦などをわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。

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『ビルマの竪琴』のあらすじを簡単に紹介

 

1946年から1947年にかけて、童話雑誌に掲載されていた『ビルマの竪琴』。小説家の竹山道雄が手掛けた児童文学です。ではまず、あらすじを紹介していきましょう。


第二次世界大戦時の1945年、現在のミャンマーであるビルマに、音楽学校出身の隊長が率いる日本軍の部隊がいました。彼らは歌を歌うことで隊の士気を高め、労わりあい、団結しています。

特に水島上等兵が奏でる竪琴は素晴らしく、隊員たちは彼の演奏を聞きながら、いつ戦闘が始まるかもしれない状況の自らを鼓舞していたのです。また水島はビルマ人に紛争することも得意で、敵の様子を偵察して竪琴の音色で情報を伝える役割も担っていました。

ある日のこと、彼らは敵を油断させようと、イギリスで生まれた民謡「埴生の宿」を歌いながら戦いの準備を整えていました。すると、敵方も英語で「埴生の宿」を歌い始めます。結局両者は相まみえることなく、日本軍はその時自国が戦争に負けたことを知り、降伏するのです。

しかし別の地では、降伏をよしとしない者たちが戦い続けていました。説得をするために、水島が現場に赴くことになります。しかしその後何日経っても、彼は戻ってきません。

そんなある日、隊長は水島によく似た見た目をした僧侶を見かけます。肩に青いインコを乗せていて、話しかけても返事をせずに行ってしまいました。

やがて帰国の日が決まります。隊員たちはこの地で歌うのも最後と、合唱をくり返しました。すると日本に帰る前日、例の僧侶が彼らのいる場所に現れたのです。隊員が「埴生の宿」を歌うと、歌声にあわせて竪琴を弾きました。やはり僧侶は水島だと確信した彼らは、一緒に日本へ帰ろうと呼びかけますが、僧侶は黙って「仰げば尊し」を弾き、去っていったのです。

悲しみのなか帰国の途についた隊員たちのもとに、1羽のインコが手紙を運んできます。そこには、水島が仲間の降伏の説得に出発してからの出来事と、ビルマの地で命を落とした日本兵を弔うために現地に留まることを決心したこと、そのために出家をして僧侶になったこと、さらに仲間への感謝の気持ちが綴られていました。

水島の想いを知った隊員たちは、惜別の気持ちを込めて静かに合唱を始めたそうです。

 

『ビルマの竪琴』に登場する歌「埴生の宿」に込められた想いとは

 

作中で何度も歌われる「埴生の宿」。原曲は、1823年に作詞作曲された「ホーム・スウィート・ホーム」です。イギリスで上演されたオペラのなかの1曲で、宮殿暮らしをすることになったヒロインが、貧しくも満ち足りていた故郷の家を懐かしむという内容。

日本では1889年に発表された歌集に掲載され、「埴生の宿」として知られるようになりました。「埴生の宿」は「みすぼらしい、粗末な家」という意味ですが、歌詞を見てみると、「みすぼらしくとも我が家に勝るものはない」という真意が含まれていることがわかります。

『ビルマの竪琴』では、水島たちが歌う「埴生の宿」にあわせ、イギリスの兵士たちも歌いだし、敵も味方も関係ない大合唱となる様子が描かれています。双方にとってこの歌は、故郷を彷彿とさせるものだったのでしょう。

戦争で疲弊し傷ついた彼らにとって、遠く離れた我が家を恋しく想う気持ちは同じ。「埴生の宿」には、故郷に帰りたいという国を超えた切実な願いが込められているのです。

 

『ビルマの竪琴』は実話だった?モデルがいる!

 

主人公の水島上等兵には、モデルがいるといわれています。復員後に群馬県利根郡昭和村にある雲昌寺の住職となった、中村一雄です。『ビルマの竪琴』は、彼と同じ部隊に所属していた人物から聞いたエピソードをもとに書かれました。

13歳で仏門に入った中村は、福井県永平寺で修行中の1938年に徴兵。中国やフィリピンなど東南アジアをめぐり、多くの戦死者を出したビルマで終戦を迎えました。

所属していた「吉本隊」のなかにオーケストラ団員がいたことから、捕虜となって収容所に入れられた後に合唱団を結成。歌の力で死者の魂を慰めようと尽力したそうです。

1946年に軍務を解かれ帰郷。群馬県昭和村で僧侶になります。村の開拓に奮闘する一方で、慰霊のためにたびたびビルマを訪れ、1998年にはミャンマーキンウー市に小学校を寄贈。戦没者のための慰霊碑も建立しました。

2008年に92歳でこの世を去るまで、生涯をかけて、戦争犠牲者の鎮魂と平和交流に力を注ぎ続けたそうです。

 

『ビルマの竪琴』から考える「インパール作戦」の白骨街道

 

1944年3月、ビルマにおけるイギリス軍の拠点となっていたインパールを占領するために、日本軍が決行した作戦を「インパール作戦」といいます。準備や計画が十分ではなく、多くの犠牲者を出し、「史上最悪の作戦」といわれているのです。

激しい雨が降るなか敵の攻撃にさらされ、兵士は次々と倒れていきます。食料も尽き、不衛生な環境下で伝染病も流行りました。作戦が中止された後の撤退路には3万を超える死体が並び、「白骨街道」と呼ばれるほどの惨状だったそうです。

こんな地獄のような光景を見た水島は、見過ごすことができなかったのでしょう。日本に帰ることをやめ、鎮魂のためにビルマに留まる選択をするのです。

 

読んでおきたいおすすめの本

著者
竹山 道雄
出版日
1959-04-17

 

竹山道雄が手掛けた戦争児童文学『ビルマの竪琴』は、1947年から「赤とんぼ」という子ども向けの童話雑誌に掲載され、その後多くの版元で重版されています。1956年と1985年には映画化もされ、こちらもヒットしました。

物語をとおして、戦争の無情さややるせなさを訴え、重要な場面で歌われる「埴生の宿」がその世界観をさらに深めます。反戦への願いと、国境を超えた音楽の力が強く伝わってくるでしょう。

巻末には、作中で演奏された楽曲の楽譜も掲載されています。地獄のような環境でも水島たちが希望を見失わずにいられた歌を、ぜひ聞いてみてください。

 

インパール作戦から『ビルマの竪琴』を考える

著者
NHKスペシャル取材班
出版日
2018-07-28

 

およそ3万人が命を落としたといわれているインパール作戦。十分な食料のない劣悪な環境のなか、日本兵は幅600mのチンドウィン河や、標高2000m級の山々を超え、イギリス軍の拠点であるインパールの攻略を目指し、行軍しました。

しかし結果は、敗北。多くの死傷者を出し、史上最悪の作戦といわれています。ではなぜ、インパール作戦は立案され、決行されたのでしょうか。本書は、当時の肉声テープや元少尉の日誌、兵士たちの証言などに加え、イギリスで見つかった膨大な機密資料などからその真相を解き明かしていきます。

悲惨な環境下で苦しみながら死んでいった兵士たち。その一方であらかじめ失敗する可能性が高いとわかっていた作戦を精神論でむりやり決行した上層部。本当に現実に起こったことなのかと目を疑うような理不尽さに、さまざまな感情が掻き立てられるでしょう。

『ビルマの竪琴』で水島たちがどのような状況に置かれていたのか、本書を読んで想像してみてください。

 

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