ノルウェー出身のイプセンは近代演劇の父で呼ばれるほど、世界で最も重要な劇作家の一人です。シェイクスピア以降最も人気を誇ると言われ、もちろん日本の演劇界でもその存在は重要と言えます。それまでの理想や正論を描くものとは全く異なる物語で話題を呼びました。
ヘンリック・ヨーハン・イプセンは1828年ノルウェーに生まれ、ドイツやイタリアで長く暮らしました。
1850年に1作目を発表して以降、『ペール・ギュント』『人形の家』『野鴨』『幽霊』『ヘッダ・ガーブレル』などの代表作を生み出しています。たくさんの戯曲と1篇の詩集を残し、1906年に没しました。その言葉は巧みで、作品はいずれも名言、名文の宝庫。研ぎ澄まされていながら詩情的で美しい台詞を多く含み、多くの俳優たちをも魅了し続けています。
道徳的に正しい表現しかなかった当時の保守的な社会に一石を投じるようなストーリーで話題を呼び、今に至ってもその作品は色褪せることなく、読者は様々な問いかけを提示されるでしょう。
明るく無邪気な若妻ノーラは、いつものようにマカロンをつまみ食いしながら夫の帰りを待っています。銀行頭取である夫のヘルメルはそんな彼女をとても可愛がっていました。
ノーラは数年前、ヘルメルが病気をしたとき、その部下であるクロクスタから勝手に借金をしたことを秘密にしています。しかし保証人である父親の署名を自分で書いたことが発覚し、ノーラはクロクスタに脅されてしまうのです。
世間知らずのノーラは、夫のピンチを救ったというのにそれのどこが悪いのか、どうして脅されるのかピンと来ませんが、幸せな家庭が崩壊したらと思うと恐ろしくなり、徐々に真剣に考えるようになります。
- 著者
- イプセン
- 出版日
- 1996-05-16
夫婦は一見幸せそうに見えますが、ヘルメルはノーラを子供扱い、小動物のようにひたすら可愛がるだけで、ノーラも従うだけでした。二人の関係は、本当の愛情というには何かが足りなかったと言えるかもしれません。話が進むにつれてこの陰りは亀裂となって広がり、やがて取返しのつかない事態へと至ります。
一方で悪役のクロクスタが救いを見出す様子は人生の希望も感じさせ、幸せと思われたノーラとは対象的です。ノーラは冒頭からマカロンを夫に隠したり、飾り付け前のクリスマスツリーを隠したりもしますが、これらはとても暗示的とも言えます。
時代の流れと相まって、自立する「新しい女」を描いたとも受け止められた作品ですが、性別問わず、夫婦や親子、恋人、友人でも、関係が欺瞞的なことに気付いたら、時には切り捨ててまた新しく関係を探すことも有効である、ということを示しているようです。たった三幕のうちにノーラがめきめきと自我に目覚めていく様子が、非常に面白い作品となっています。
将軍ガーブレルの一人娘ヘッダは、美しくてプライドが高い女性です。夫テスマンは文化史専攻で奨学金を得ていました。
夫婦が長い新婚旅行から戻ってほどなく、テスマンの若い頃からライバルだった、同僚のレェーヴボルクが街にやってきます。テスマンは彼の能力に純粋に敬意を表しました。
一方ヘッダは、レェーヴボルクに協力している、旧友エルヴステード夫人と再会しますが、積極的に行動する彼らの関係性に苛立ちを覚えます。ヘッダは気位が高いのに臆病で、何をしていいか分からないでいるのです。
ある日レェーヴボルクが落とした大事な原稿を手にしたヘッダは、本人に返さずに燃やしてしまいます……。
- 著者
- イプセン
- 出版日
- 1996-06-17
ヘッダは、テスマンと結婚しても、彼を下に見て、また世の中全てを見下しています。しかし自分は何かをしたのかと言うと何も行動せず、せっかく恵まれた環境に生まれたのに、他人をやっかみ足を引っ張らずにいられなかったことは、かなり不幸な人生と言えそうです。
と言っても読者の中には、ヘッダの心理も一部は理解できるという人はきっと少なくないことでしょう。
ヘッダはイェルゲン・テスマンの妻ですから、フルネームはヘッダ・テスマンのはず。しかしタイトルがわざわざ旧姓のままであることは、妻としての立場に視点を限らず、むしろ将軍である父ガーブレルの娘である、一人の女性としての物語であることを、著者イプセンは示しているようです。
他人のことばかり気にしていると、彼女のような目に遭うこともありえるのかもしれない、と思うと身につまされ、読者の心にずしりと重く響くでしょう。
ノルウェー南部の温泉町。医学博士トマスは、その温泉療養施設で働いています。
この施設で発生する病人たちに疑問に感じたトマスは、専門の科学者に調査を依頼していました。その結果、川の上流にある工場の排水によって温泉の水が著しく汚染され、人体に有害な状態であることがわかります。下流の土地や海も汚染は免れません。
使命感にかられたトマスは施設の閉鎖と大規模改修を訴えますが、町唯一の収入源が失われ多額の改修費が必要であることがわかると、町民たちはトマスを敵とみなし、逆に糾弾されることになります。
- 著者
- イプセン
- 出版日
トマスが、公害の発見と警告という目的から徐々に離れていく様子からは怖さとリアリティが感じられます。
怖気づく周囲の人間たちを説得し巻き込んでいくには、彼のようなやり方では現実社会で不可能であることは想像に難くありません。トマスは真実を受け入れない民衆を見下すという、してはならない手段を取ってしまい事態が悪化しました。仮に高潔な理想と意志があっても、それだけでは問題解決に至らないということを教えています。
この民衆たちのような集団心理の恐ろしさは心に留める必要がありそうです。誰しもが持つ、都合が悪いことに目をつむりたい心理と、多数派になびいてしまいたい欲求を対峙させられます。彼らは台詞のなかに強い主張を込めていて、人々の激情渦巻く、苛烈な筆致を感じるストーリーです。
グレーゲルスは17年ぶりに山にある工場から戻り、やり手の豪商である父ヴェルレと会話をしています。
ヴェルレと過去に共同で事業をしていたエクダル老人は、そのとき行われた不正の罪を一手にかぶって投獄され精神に異常をきたし、その一族は没落していました。また、エクダル老人の息子の妻は、かつてのヴェルレ家の家政婦で、ヴェルレの愛人だった過去があります。ヴェルレはその負い目からもエクダル老人に雑務を与えるなど一家を援助していました。
グレーゲルスはそんな偽善的な状況が許せず、その秘密をエクダル老人に教えてやるべきだと確信するのですが……。
- 著者
- イプセン
- 出版日
- 1996-05-16
グレーゲルスは、全てをオープンにした上でエクダルは新しく家族関係を構築すべきだ、と信じて行動に移しますが、グレーゲルスの思ったようには事は運びませんでした。人にとって事実を明らかにさえすれば良いとは限らないということは、いつの世もしばしばありえることのようです。
グレーゲルスがエクダル一家に対してしたことは結果として悲劇をもたらしました。私たちも、ここまでことが大きくならないまでも、声高に正論をかざす人を煩わしく感じた経験は誰しもあるのではないでしょうか。人間関係が不確かな現代社会においても重要な指摘です。
結末で犠牲となった無垢な存在を考えると、時に生活の平穏というのは、ぎりぎりの絶妙なバランスの上に成立しているという悲しさが胸に残ります。
ノルウェー西部に住むアルヴィング夫人は、10年前に陸軍大尉の夫を亡くし、今は召使いレギーネと二人きりで暮らしています。世間的には名士と評価されている夫ですが、内実は長く放蕩生活をして夫人を悩ませていました。しかし夫人はその事実をひたすら隠し、一人で抱えて生きています。
長くパリに留学していた一人息子のオスヴァルが、挫折して家に戻ってきました。そしてオスヴァルは、召使いレギーネと結婚したいと夫人に打ち明けます。しかし、実はレギーネは夫が昔の家政婦に手を出して産ませた娘、つまりオスヴァルの異母兄妹でした。
そんな中、オスヴァルは先天性の病におかされており、容態が悪化していきます。
- 著者
- イプセン
- 出版日
- 1996-06-17
ぜひ『人形の家』に続けて読みたい作品です。『人形の家』で自分の選択をしたノーラと違って、このアルヴィング夫人は、結婚に愛がないことを思い知らされながらも、ひたすら留まるという選択をしました。そしてアルヴィング夫人のケースは、更に救いのない事態へと向かっていきます。
当時の風習や常識、法、道徳、宗教観に楔を打つセンセーショナルなテーマで、単純な善悪の話には終わらず、今も古さを感じさせない作品です。社会の因習の犠牲になってきた夫人が、息子に対しては加害者でもあるということが非常に皮肉で物語を深くしています。
葬ったはずの過去がそのまま幽霊のように生き続け、それを背負って悶え苦しむ息子オスヴァルが胸を打つ、悲痛で残酷な結末です。イプセンの作品の中でも特に詩情豊かな美しい味わいを持ちます。
イプセンの作品は、読んでいると演者の声やしぐさ、舞台の照明までもが見えてくるような、戯曲の中でも突出して動的で視覚的な作品と言えると思います。原稿は何度も微妙に調整され、台詞は無駄なく研ぎ澄まされていて効果的です。感情と表現力、そして社会に対する鋭い洞察力を持ったイプセンの作品を是非読んでみてください。