高校生の頃だった。その時分よく僕は自転車でキャンプをしていて、十和田湖への行きだったか帰りだったか、七戸町の親戚へ一晩の宿を借りることになった。早く着きすぎたので、七戸町の図書館へ行った。そこで何の気なしに手に取った別冊太陽──タイトルは失念した。大正~昭和にかけて活躍した作家の写真を百人ほど集めたもの──がすこぶる面白かった。雰囲気のある顔ばかりで、写真を眺めているだけで小説を読んだ気分になってくる。志賀直哉はなかなかの男前だと思ったが、また少し健全すぎる印象も覚えた。
ひときわ目を引いたのは、夢野久作と稲垣足穂。この人たちの顔貌は、内側に抱え込んだ狂気やらA感覚とV感覚とやらがそのまま面に表れたかのような、奇ッ怪なものである。いうならスノッブさのない顔。常識も建前も皆消し飛んで、そこいらを歩いていたら相当に怖いであろう顔。どちらの小説もすでにかじってはいたが、ああやはり僕はこういう異端の人が好きなんだなと、日暮れ方の七戸町図書館の片隅で一人、再認識した次第である。
瓶詰の地獄
- 著者
- 夢野 久作
- 出版日
- 2009-03-25
サブカルをこじらせた人が必ず通るであろう道、夢野久作。『少女地獄』の面白さについうっかり『ドグラ・マグラ』に手を出してしまい、その途方もない狂気の迷宮にあえなく未読のまま……僕の周りにもそういう人がいっぱいいる。
夢野の小説は、何かヒューマニズムを描くとかそういった類いのものではない。饒舌な文体でもって執拗に、権威を破壊し狂気を演出する。狂人の描写は堂に入ったものである。「笑う唖女」のエベエベエベという嬌声は、僕も詩作に使わせてもらった。「狂人は笑う」中の崑崙茶の一節、本当に人心を惑わす崑崙茶なるものがあるかのよう、堕落への魅力という点ではド・クインシーの「阿片常用者の告白」より勝る。
「いなか、の、じけん」に入っている花嫁の舌喰いも好きな話。舌を嚥下するダルダルという擬音が秀逸。あまりに不謹慎な話のせいか、今では文庫化の際に外されてしまうのが残念。「鉄鎚」は名作。退廃的生活がやがて破滅を招く話だが、お得意の饒舌も適度に抑制され、文芸作家が書いた探偵小説の様相を呈している。本編が収録された『瓶詰の地獄』を、ここでは挙げておく。
一千一秒物語
- 著者
- 稲垣 足穂
- 出版日
- 1969-12-29
浴衣一枚でオートバイにまたがる写真とか、褌一丁で原稿を書く姿だとか、夕飯はビール二本だとか、晩年は自身の作品の校正に費やしただとか、どうしてもイメージ先行で浮かんできてしまうタルホ。それだけ人生即芸術だったのだろう。
タルホのワードとは何だろうか。ダンディズム、宇宙的郷愁、世紀末的感覚、ニルヴァーナ……。ハイカラーで形而上的で、まず生活に汲々とする様や恋愛に悶々とする姿は出て来ない。あの浮世離れした怪異な風体は、宇宙的郷愁の持ち主ゆえだろう。極貧を経たともいうが、キリストにダンディズムを見たタルホにとっては、褌一枚こそが洗練された身だしなみとなるのだ。
「一千一秒物語」は序文にもあるように、軽妙なタバコの味わい。煙だけ出てけっして腹に溜まらないシガレットは、実体を持たないニルヴァーナの象徴といってよかろう。主役は主に月やホーキ星で、しかつめらしい苦悩、まとわりつくような情緒といったものとは無縁。その散文的展開ともいうべき「天体嗜好症」は、登場するのが私と少年オットー、そして存在だけが示唆される紳士E氏と、これまたあくまで観念的である(男女の機微を離れているという意味で)。
ストイシズムというかニヒリズムというか、誰かに似ていると思ったら星新一だ。タルホの方がやや難解で、哲学と仏教の素養が散りばめられてはいるが(別に星新一が子供向けといっているわけではありません)。自伝的色彩の濃い「弥勒」では、その辺りの消息が語られているのだった。