映画化されたことでも知られる「赤壁の戦い」。『三国志』にも登場するので、名前を聞いたことのある人も多いのではないでしょうか。この記事では、戦いの原因や武将たちの動き、諸葛亮孔明の計略、その後の三国時代などをわかりやすく解説していきます。
中国・後漢時代の末期である208年、長江の赤壁という場所で、曹操と、孫権・劉備連合軍が対峙した戦いを「赤壁の戦い」といいます。
曹操は200年の「官渡の戦い」で袁紹(えんしょう)を倒し、207年の「白狼山の戦い」で袁煕(えんき)を滅ぼして、黄河の北岸である河北地方一帯を治めていました。残す敵は、荊州の劉表(りゅうひょう)、江東の孫権、益州の劉璋(りゅうしょう)、漢中の五斗米道(ごとべいどう)、関中の馬騰(ばとう)、劉表の客将である劉備だけという状況です。
208年、曹操は劉表を倒すべく、荊州に向かいます。しかし劉表は、曹操の侵攻直前に病死。跡を継いだ劉琮(りゅうそう)は戦わずに降伏しました。
ただ劉表の長男で劉琮の兄である劉琦(りゅうき)はこれに従わず、父親の客将だった劉備とともに、夏口という地に移動するのです。
一方の曹操は、降伏した劉琮軍を吸収して、長江沿いに布陣。江東の孫権に迫ります。曹操軍の兵力は15~24万と圧倒的で、さらに後漢の皇帝を擁立していました。そのため孫権の家臣たちも、孫権自身も、降伏をするか決戦するか迷っていたといいます。
そんななか、孫権に仕えている決戦派の魯粛(ろしゅく)が提案したのが、劉備と手を結ぶことでした。しかし、当時劉表の客将に過ぎなかった劉備に、曹操と戦うだけの力と気概があるのかを確かめる必要があります。そこで孫権は、魯粛を劉備の元に派遣。会談をし、降伏派の説得のために諸葛亮孔明を連れ帰りました。
諸葛亮孔明は孫権軍に、「曹操の軍は大軍だが、水軍の戦いは不慣れであること」「袁紹や劉琮などの軍を吸収して構成されている寄せ集めに過ぎないこと」「長旅の遠征で疲労していること」「降伏したとしても、孫権に対して寛大な処置が望めないこと」などを説きます。この話を聞いて、孫権らは劉備と手を組んで曹操との戦いに挑むことを決断したのです。
しかし、孫権軍と劉備軍をあわせても兵力は6万ほどと、曹操軍との間には大きな差がありました。この兵力差を埋め、勝利を掴むために、諸葛亮孔明や孫権の家臣である周瑜らが、大いに知恵を働かせることになるのです。
曹操軍と、孫権・劉備連合軍は、戦いの前に激しい駆け引きをおこなっていました。焦点となっていたのは、敵軍の主要人物を排除できるかどうか、そして自分たちの作戦を成功させるために部下をスパイとして潜入させられるかどうかです。
曹操は、自軍の弱点が水軍であることをよく理解していたため、蔡瑁(さいぼう)という人物を登用。彼はもともと劉表に仕えていて、荊州の水軍を取りまとめていた人物です。その能力を見込まれて曹操水軍の指揮を執ることになりました。
一方の孫権・劉備連合軍は、総大将を周瑜が、副将を魯粛が務め、孫権自身は後方で万が一周瑜が敗れた場合に備えていました。
総大将となった周瑜は、曹操水軍の要である蔡瑁を排除しようと考えます。曹操もまた、孫権・劉備連合軍の要が周瑜であると考え、彼を自陣営に寝返らせることができないかと考えていました。
そこで名乗り出たのが、曹操の家臣の蒋幹(しょうかん)です。彼は弁舌の才があり、周瑜の幼馴染でもあったので、周瑜を寝返らせるのにうってつけの人物でした。しかしいざ周瑜の元を訪れても、説得に応じてもらえません。
そんななか蒋幹は、曹操水軍の要である蔡瑁が孫権・劉備軍へ寝返ることを約束する手紙をたまたま見つけてしまいます。周瑜の説得に失敗したものの、代わりにこの手紙を曹操に提出。激怒した曹操は蔡瑁を処刑しました。
しかし実は、この手紙は周瑜が作らせた偽物だったのです。これを知った曹操は、今度は蔡瑁の甥である蔡和(さいわ)と蔡仲(さいちゅう)の2人を周瑜のもとに送り、嘘の降伏を申し出ました。無実の罪で叔父を殺された2人ならば周瑜も信用するだろうと考えたのです。この作戦を「埋伏の毒」といいます。
しかし、「埋伏の毒」も周瑜に見破られてしまうのです。周瑜が曹操軍を打ち破るために画策していたのが、「火計」というもの。これを成功させるためには、部下の黄蓋(こうがい)を曹操軍に潜入させる必要がありました。そこで周瑜と黄蓋は、蔡和と蔡仲の前で一芝居を打ちます。黄蓋がわざと周瑜に逆らい、怒った周瑜が黄蓋を百叩きの刑に処す様子を目撃させたのです。これを「苦肉の計」といいます。
蔡和と蔡仲からこの報告を聞いた曹操は、再び蒋幹を周瑜の元に送って内情を探らせました。そして蒋幹は、またしても周瑜に利用されてしまうのです。
まず周瑜は、蒋幹が手紙を盗んだことに怒っているふりをして、蒋幹を幽閉。このままでは殺されてしまうと感じた蒋幹は、見張りの兵が居眠りをしている隙に脱出し、たまたま逃げ込んだ小屋で、たまたま龐統(ほうとう)という人物に出会います。龐統は諸葛亮孔明と並び称されるほど有名な軍師で、しかも曹操軍で働きたいというのです。
あっさりと騙された蒋幹は、龐統を曹操のもとに連れ帰りました。曹操も優秀な人物がやって来たことに喜び、龐統に自軍の陣営を見せ、意見を求めます。
龐統は、風土病や船酔いが蔓延する可能性を指摘。この2点は、曹操軍がまさにこの時悩まされていたことだったため、曹操は何か対策はないかと尋ねました。龐統が提案したのは、揺れを抑えるために船同士を鎖で繋げる「連環の計」です。そしてこれこそが、孫権・劉備連合軍が「火計」を成功させるために周瑜が仕組んだものだったのです。
こうして、「赤壁の戦い」が始まる前の駆け引きは、周瑜の作戦のもと孫権・劉備連合軍の圧勝という形で終わりました。そして実際に戦いが始まると、「火計」によって大混乱に陥った曹操軍は大敗してしまうのです。
敗走する曹操軍を待ち構えていたのは、趙雲、張飛、関羽など劉備軍の名だたる武将たち。この時曹操に付き従う者は残り少なくなっていて、誰もが疲労困憊状態でした。
ただ曹操と関羽はかねてより親交があり、曹操はかつて関羽が罪を犯した際に見逃してあげたことを引き合いに出して、助けてほしいと懇願。義理人情にあつい関羽は曹操を見逃し、彼は自分の領地に逃げ帰ることができたのです。
「赤壁の戦い」において大きなポイントとなったのが、孫権・劉備連合軍が実行した「火計」です。「火計」とは、敵の船や兵士たちを火を用いて焼き払ってしまうことをいいます。
曹操も「火計」をまったく警戒していなかったわけではありませんでしたが、赤壁という場所は、冬の間は北西の風しか吹かないことを知っており、その場合に甚大な被害を受けるのは南岸にいる孫権・劉備連合軍だと考えていたのです。
一方の孫権・劉備軍も、東南の風が吹くことを待っていました。そんななかで諸葛亮孔明は、周瑜に「東南の風を吹かせるための儀式をしよう」と提案します。祭壇を設け、孔明が神に祈ると、本当に東南の風が吹きはじめたのです。おかげで「火計」は成功し、孫権・劉備軍は「赤壁の戦い」に勝利することができました。
このように優れた軍師だった諸葛亮孔明のもっとも有名な策に、「天下三分の計」というものがあります。孔明が劉備に説き、「隆中策」とも呼ばれているものです。
これは河北地方一帯をを制して強大な力をもつ曹操に対抗するために、まずは交通の便のよい荊州と豊かな平野が広がる益州を抑え、その後孫権と手を結ぶことで、曹操・劉備・孫権という3つの勢力を均衡させようというもの。曹操がひとり勝ちするのを防ぎ、最終的には曹操を破るのが目的です。そうして劉備は孫権と手を組み、「赤壁の戦い」で曹操を倒すことに成功しました。
また、小説『三国志演義』に登場する、諸葛亮孔明の「矢」のエピソードも有名です。
開戦直前、周瑜は曹操の大軍と戦うために10万本の矢が必要だと、諸葛亮孔明に要求します。しかしこれはどう考えても無茶な要望で、周瑜は軍師として名高い孔明のの腕を試そうとしていたのです。もしも彼が失敗すればその名声は地に堕ち、成功すれば後々は警戒するべき相手になるということでしょう。
周瑜は孔明に、「10日以内」と期限を切りましたが、孔明は「3日で十分」と回答。その代わり、船と少数の兵、藁人形を求めます。
しかし、1日経っても2日経っても、孔明は動きません。期限である3日目にようやく船を出しました。向かった先は、曹操軍の目と鼻の先。川には霧が発生していて、敵が攻めてきたと勘違いした曹操軍は一斉に矢を放ってきました。用意した藁人形や船に刺さり、孔明は難なく10万本をはるかに上回る数の矢を手に入れることに成功したのです。
「赤壁の戦い」で多数の兵を失っていた曹操は、力を取り戻すために領地経営に専念せざるを得なくなります。
その間に、劉備は荊州と益州の攻略に乗り出し、221年に蜀を建国。220年に曹操が建国した魏、222年に孫権が建てた呉とともに3つの国の勢力が均衡する三国時代を迎えることになります。
諸葛亮孔明が提案した「天下三分の計」に従い、蜀と呉の同盟で魏に対抗しようとしていましたが、荊州をめぐって蜀と呉との関係が悪化したことで、計画は途絶えてしまいました。
反対に孫権が曹操と手を結んで、劉備軍と衝突。221年に「夷陵の戦い」が起こります。この対立のなかで、劉備は義兄弟である関羽・張飛の2人を相次いで失うことになりました。
曹操は220年に亡くなるまで、後漢朝の丞相と言う地位に留まり、皇帝になることはなかったそう。後を継いだ曹丕が後漢朝最後の皇帝である献帝から譲りうけて、魏王朝の初代皇帝になりました。
これに対抗して、220年には劉備が蜀の皇帝を、229年には孫権が呉の皇帝を名乗ります。3人の皇帝が並び立つことになりました。
しかし220年に曹操、223年に劉備と相次いで亡くなり、234年に諸葛亮孔明が「五丈原の戦い」で亡くなると、三国による争いは次の世代に引き継がれることに。最初に滅びたのは蜀で、263年に魏の司馬昭によって倒されました。
265年には司馬昭の子どもである司馬炎が、魏の最後の皇帝である元帝に禅譲を強要し、魏も滅亡します。
最後まで残った呉も、司馬炎が建国した晋によって280年に滅ぼされ、三国時代は終焉を迎えることになりました。
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本シリーズは全4巻で構成されており、その適度な分量と児童書ならではの文章の読みやすさが特徴です。 内容を不自然に省略しているわけではないので、大人の方が読んでも十分に満足できるでしょう。
「黄巾の乱」にはじまり、「桃園の誓い」「三顧の礼」「赤壁の戦い」など『三国志』を知らなくても耳にする言葉が次々と登場し、飽きることはありません。
翻訳は、中国在住経験もある渡辺仙州。平易な文章でありながら、ダイナミックさを感じられるでしょう。過去に『三国志』を読もうとして挫折をしてしまった人にもおすすめの、入門書に最適の一冊です。
- 著者
- 出版日
- 2013-10-05
『三国志』『三国志演義』『後漢書』『晋書』の登場人物を中心に、『三国志』にゆかりのある人物を3000人も掲載している辞典です。
ただ人名を羅列しているのではなく、関わった事件や戦いなどを中心に据えてまとめられているので、「赤壁の戦い」で活躍した人物について調べたい時など、時期を絞って読むこともできます。
最大の特徴は「ビジュアル」というタイトルのとおり、掲載されている人物の多くが写真付きで解説されていること。リアリティがあるので、より想像力を膨らませることができるでしょう。