ジェムストーン・涙とテレビの画面越しに初めて出会った日のことを、俺はこの先死ぬまでずっと忘れられないんだと思う。
ドラマの撮影現場でとある共演者さんが、毎朝テレビのニュースを点ける所から一日をはじめると話しているのを聞いて、あぁこの人がそうしているんだったら俺もそうしてみようかな、と思った。
その年下の共演者さんの事を、俺はなんとなく尊敬していた。
次の日の朝、起きてすぐにテレビを点けると重たい脳みそに乱暴なテレビの光が流れ込んできて、青とか灰とか茶とかで動くその光が動物園の風景を映している発光だという事にしばらく気付けなかった。というか、正直もう一度ベッドに戻りたかった。
画面には猿山が映し出されていて、ニュースでは画用紙に筆で電車の絵を描く一匹の猿にスポットが当てられ、特集が組まれている様子だった。
何の感慨も得られない俺はそれよりもテレビ画面の端に見切れる別の、鳥とか岩とかの方が気になってしまってそちらばかりを見やってしまう。
そうやって漫然と画面を見つめ、自分の脳が僅かに覚醒していく内、俺の視界を何か違和感めいたものがかすめた。
次第、俺はソファから背中を剥がして前傾姿勢になり、どう見ても電車には見えない何かを量産し続ける真ん中の猿そっちのけで、画面のその奥の猿に釘付けになる。
その猿は表面的には他の猿同様思うがままにただそこで暮らしているだけの風で背中を丸め、首だけをこちらに向けて、おそらく檻の外の撮影クルーの方を警戒して注視している様子だった。
でも、その猿からは何か、強烈な「個性」を感じた。
一目見た瞬間に直感した。
あ、この猿は他とは違う。
「本物」たる何かを本人の内に宿している猿。
人間の中でも限られた人しか獲得しえないほんの一粒の「本物」を。
この猿は猿の一生のうちでもうそれを見つけていて、自分の内側に宿している。
きっと自分が何が好きか、自分が何が嫌いかを、この猿は既に体の芯から知っている。
かと言ってその特別性を鼻にかけたり、ことさらに主張する素振りは見せずただ猿であればどの猿でもそうする様に、見慣れぬカメラに対しては一定の緊張感を保ってそちらの様子を伺い、猿としての自然な姿勢のままそこにいる。
ただそれこそが俺がこの猿から感じ取った、ただならぬ「個性」が、「作られた個性」ではなく、「漏れ出てしまう本物の個性」である事を裏付けていた。
一目見ただけの何かから、その印象にここまで自分を揺さぶられた事が、かつてあっただろうか?
「この猿は違う」
俺は一人の部屋で、実際にそう口に出していた。
この猿に会う。
その時にはもう決めていた。
というより信じていた。
俺は運命という事象を、その時初めて体感した。
この先、あの猿と出会わなかった俺の人生があったとして、だとしたらそれは俺にとって、あまりにも不自然な人生であるように思われた。
次の休み、というより正確には午後から仕事が入っていた日の朝に、俺はニュースで取り上げられていた動物園へと実際に足を運んだ。
しかし園内に入るとついに猿と対面できるその実感が、むしろ俺の足取りを重くした。
喜びと一緒に緊張が立ちのぼり、これから出会うあの猿が俺の人生を一体どう動かしてくれるのか、その予感が俺の身を震わせ、どうしても歩みを速める事ができなかった。
猿は、居た。
数十匹居る猿山の猿の中からその猿を見つけるまでの一瞬の時間は、俺を幸福に磔にした。
実際に見るその姿は想像していたよりも小柄で、それでいてあの画面越しに見出したほどの鮮烈さは無かったがそれがむしろリアルであり、本当にあの猿と対面しているんだという実感を俺に与えた。
そしてそれこそが、猿の本質が当人の内側にだけ咲いている証であり、同時に外界に発せられる信号の不在をも表現していて、猿側からは何も求めはしないという気高さをまさに今、目の当たりにしていることに他ならなかった。
これでは誰もこの猿の凄さに気付けないままに通り過ぎて行ってしまうだろう。
やっぱりその猿は、俺だけの猿だった。
俺は檻の外に取り付けられた猿のプロフィールに目を移し、写真を頼りに猿の名前を探し当てる。
『ジェムストーン・涙 ♂ 11歳』
それが彼を表す記号だった。
それからの俺は時間があればその動物園に赴き、時間の許す限りを猿山の前で過ごし、動物園に行けない日はSNSにたまに上げられる彼の写真を保存したりしては眺め、それをスマホの待ち受けにした。
ジェムストーン・涙の存在は俺の人生に斬新な価値基準をもたらし、俺の新たな目的地となり居場所となって、そして俺の人生の形を圧倒的に変えていった。
俺たちは檻に阻まれた関係だったが、いつかその檻すらも取り払われる日が来るのだろうと、根拠のない物語を俺は信じて止まなかった。
縁っていうのは不思議なものだよな、と俺は思う。
出会って。なんやかんやでまた再会して。何も無かった平地に、緻密な関係が築き上げられていく。
このなんやかんや、っていうのが大事なんだろうな。
この「なんやかんや」っていうものの有無が、縁の存在と不在を表しているんだろうな。
完璧でツルツルとしたこの神聖な縁を、少なくとも俺は実際に手で触れる位に感じ取っていたし、だってここまで俺に切迫してきた他者なんて初めてだったし。
運命の特別を感じずにはいられなかった。
俺がジェムストーン・涙と出会ったのは、ほんの些細なきっかけで、ふと耳にした誰かの小さな習慣を、俺が軽はずみに自分の人生に持ち込んだりする人間じゃなければ、あの日のニュースを目にする事もなく、ジェムストーン・涙の事など知らないままに歩き続けていたのだろう。全く違う風景の中を。
あそこで人生の軌道が逸していなければ、俺は今どんな時間の中にいて、その時間をどんな風に味わっていたのだろう。
そんなことも、いつかジェムストーン・涙と話してみたい。
ジェムストーン・涙と出会って、軌道を変えられた道の端っこで、そんな事を思ったりした。
その頃の俺は、いつかあの檻が取り払われた場所で彼と対面する時が来るのだろうと信じ切っていて、というか当たり前にそうなるから、そこについて考えた事がなかった、という方が正しいのかも知れない。
猿と話すいつかの日に向けて、ただ足を交互に出し続ける。
それが俺にとっての生きることそのものだった。
【ジェムストーン・涙が昨日、脱走してしまいました(涙)※見かけた方は当園窓口までご連絡ください!】
ジェムストーン・涙と俺の間に唐突に引かれた、檻の目なんかよりも潔白で、完膚なきまでの境界線。
動物園から姿を消すよりほんの少し前。
ジェムストーン・涙は、そういえばあまり人前に姿を見せなくなっていた。
最後に見た彼の姿は、他の猿たちがたむろする猿山の下、彼らの住居へ繋がる半開きの鉄扉の隙間を、彼の首から下の身体が数回行ったり来たりしたのが見えただけだった。
あれが本当にジェムストーン・涙だったのかも、今となってはもう確信が持てない。
彼は一体どこへ行ってしまったのか。俺の知らないどこかへ行ってしまったのであればそれは、彼がこの世界から消え去ってしまったのと、俺にとっては同義だった。
そういえば俺、彼に触れるどころか、一度だって言葉を交わしたことすらなかったんだ。
そんなところに運命はおろか、縁なんてあるはずがないじゃないか。
縁っていうのは不思議なものだよな、と俺は思う。
こんなにも誰かの事を思っていたとしても、その二人の間に縁が介在するとは、一切限らないのだ。
なぜ一匹の猿がこの世界から姿を消してしまわなければならなかったのか。
縁を持たざる俺がどれだけ頭をひねろうと、そもそも俺には考えるに値する材料すらあたえられていない話だった。
でも言葉を交わさずしても繋がりあっていたはずの彼はいつだって俺の知らない世界の見つめ方を知っていて、俺の知らない世界の秘密を知っていて、そんな彼のことを俺は知っていて、そして、だから。
だから、彼は彼にしかわからない入り口から彼しか知らない故郷へ、ただ帰って行っただけなのかも知れない。
彼の求める世界に俺は、別に居ても居なくてもどっちでも、一向に構わない存在だった。
それだけが確かな事。
ずっとどこかで、俺の人生における彼がそうであったように彼の人生においても俺が、俺自身が、何がしかの鍵を握る存在として、彼の人生の中に現れたんだと、そう信じ切っていた。
片っぽだけの運命っていうものがあるんだって、その時までは知らなかった。
縁っていうのは不思議なものだよな、と俺は思う。
自分が他の誰よりもその相手のことを思っていようとも、その相手の人生には、はなから自分なんて存在すらしていない事だってあるのだ。
まじお前誰?
マジでお前誰?
どこかから、Awichの声が聞こえた気がした。
でもそれはもしかしたら、そういう形の縁なのかも知れないな。
とも思う。
それはそれで、縁と呼んでいいものなのかも知れない。
片側だけが、相手から、一方的に何かを受け取るという縁。
家族という縁、恋人という縁、友達という縁、知り合いという縁、一度だけどこかですれ違うという縁、檻を挟んで片側だけが、一方向的に人生を動かされる縁。
その人だけが得た縁の集積で、その人だけの世界には、歪な均衡がもたらされる。
最愛の猿が居ないというその歪みによって成り立った、今の俺の世界。
明日も俺は朝起きたら、まずはニュースの赤とか緑とか白とかの乱暴な光を脳に流し込むことから、その一日を始める。
猿が居ないことでしか知り得ない、猿が居ない今日を始める。
※今回はマジ。
【#20】※この岡山天音はフィクションです。/岡山天音 コメント
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【#18】※この岡山天音はフィクションです。/福禄寿のストラップ
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※この岡山天音はフィクションです。
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