堀田善衛のおすすめ本5選!『広場の孤独』で芥川賞受賞

更新:2017.7.14 作成:2017.7.14

その作品は読んだことがなくても、スタジオジブリ宮﨑駿監督の最も尊敬する作家として、堀田善衞の名前をご存じの方もいるかもしれません。戦時中の自身の体験をベースに、国や時代の枠を飛び越えた幅広い題材をもつ作品のなかから、初めての読者におすずめの本を集めました。

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戦後を代表する作家にして進歩的知識人堀田善衛

堀田善衞は1918年、冨山県高岡市に生まれます。慶應義塾大学在学中に現代詩の同人誌『荒地』に参加し、卒業後は、第二次世界大戦末期の1945年3月に国際文化振興会の派遣員として上海に滞在しました。後に堀田善衛は、この地での1年9ヵ月の生活が、戦後の生き方そのものに決定的なものをもたらしたと語っています。

1953年には朝鮮戦争に揺れる日本を描いた『広場の孤独』で芥川賞を受賞。その後は国内のみならず、中国、インド、中東、アフリカ、ヨーロッパを舞台とした、国際的な視点をもった作品を次々に発表してゆきます。

また、アジア・アフリカ作家会議の団長を務めて世界中の作家と親交を結んだり、1977年から11年間スペインに移住したりするなど、実生活でも世界中を精力的に動き回り、1998年に死去するまで戦後を代表する進歩的知識人として精力的に活動しました。

戦後の矛盾のなかで孤立する人間を描いた芥川賞受賞

『広場の孤独』は1951年、堀田善衛33歳の時に発表され、翌年に芥川賞を受賞した作品です。

当時の状況を振りかえってみると、1950年に朝鮮戦争が勃発、日本は戦争特需で沸く一方、いまだGHQの占領下にあり、公然とレッドパージ(共産党員、同調者の公職追放)が行われていました。本作は、そのような時代を背景にして書かれた作品です。

冒頭、主人公木垣が勤める新聞社で、ちょっとした騒動がもちあがります。

著者
堀田 善衛
出版日
1998-09-01

ことの起こりは、朝鮮戦争の戦況を告げる英文の電文でした。そこに記された北朝鮮の「共産軍」という言葉を、「敵」と訳すべきか否かで意見が二分したのです。

しかし木垣は、「敵」という言葉に違和感を覚えつつも、自分の意見を決定できません。彼は数年前の戦争体験で人間に対する深い絶望感を味わい、あらゆる立場へのコミットを恐れていたのです。

アメリカ人のハントによる「何故米国に頼らないで自力で防衛しようと思わないだろうか?」という問いにも、特需景気に酔いしれる労働者を見た中国人張国寿の「やはり日本人は(朝鮮)戦争を喜んでいる」という言葉にも、言い返すことができませんでした。

木垣は戦後の矛盾に覆われた日本、そしてその日本で働き、結果的に政府の片棒を担いでいる自分を責めさいなみ、孤独感を深めてゆきます。

「なにもかもが揺れ動き、なにもかもが解決していない―」(「広場の孤独」より引用)

しかし、本作の最後で、木垣はある決意をします。矛盾のなかから新しい自分を、そして新しい現実をつくるために……。

戦争中の社会の動きを知っている堀田善衞だからこそ描けた臨場感、痛いほどの緊張感を、ぜひ体感してみてください。

一人の中国人の目を通してみた戦争のリアリティ

1937年の中国・南京を舞台に、日本軍によって行われた数々の残虐行為が、詳らかに描かれたショッキングな小説です。

いわゆる「南京事件」に言及した作品なら他にもあるでしょう。しかし、この作品がとりわけ衝撃的なのは、それらの行為が、ひとりの中国人の目を通して語られているからでしょう。

著者
堀田 善衞
出版日
2015-11-18

裸にされて樹木に突き刺されたままの死体、10数人の日本兵にレイプされて動けなくなった少女、小学校の校庭で次々に斬殺される同胞……。主人公の陳英諦は、自身が目の当たりにした、言葉にすることさえ憚れる悲惨な光景を、冷然と、しかしこれ以上ない迫真的な筆致で日記に綴ってゆきます。

陳の身重の妻と息子も、日本軍によって殺害されました。その報せを受けた時、彼の顔面の筋肉は痙攣し、体中が震え、汗が吹き出し、失禁寸前の状態になったと語っています。

陳の日記には、この虐殺により○人が殺された、といった客観的記録の記述は見当たりません。ただただ彼が目にし、体験し、感じたことが記されています。著者が中国人を主人公にして読者に伝えたかったこと、それは、日本軍の残虐行為以上に、それをもたらした戦争そのもののリアリティだったのかもしれません。

「何百人という人が死んでいる……しかし何という無意味な言葉だろう。(中略)一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にものぼったのだ。」(『時間』より引用)

堀田善衛によって覆される『方丈記』

多くの人にとって鴨長明といえば、「ゆく河の流れは絶えずして」の『方丈記』を書いた人、俗世間から離れ小さな庵で隠遁生活を送った「無常観」の人、という印象があることでしょう。

しかし、本書の著者によって明らかにされるその人物像は、一般的な世を儚むイメージとは遠く離れた、トゲトゲしくて、おっちょこちょいで、何にでも首をつっこむ行動人としての鴨長明なのです。

著者
堀田 善衛
出版日
1988-09-01

そんな鴨長明が起こしてしまった大スキャンダルがあります。歌人としてだけでなく、音楽、すなわち管弦の道にも熟達していた彼は、ある日、錚々たる貴族を集め音楽パーティーのようなものを開きました。そこで彼は調子に乗って、秘曲という、みだりに演奏してはいけない曲を演奏(しかもかなり達者に)してしまったのです。

今で言えば、生放送の歌番組でいきなり放送禁止の曲を歌い出したようなものでしょうか。この事件で長明は当時の天皇・後鳥羽院に叱られ、それが後の隠遁出家の原因のひとつにもなったと言われています。

時代は平安時代末期。『方丈記』は、当時都を襲った火災、飢饉、地震の模様が詳らかに書きとめられた一冊です。そんな動乱の世をジタバタしながら生きた長明と、戦時中、明日をもしれぬ日々をすごした自分を重ね合わせるように、著者は『方丈記』を読み解いてゆきます。

堀田善衛を虜にしたゴヤの破格の生涯

スペインを代表するロマン主義の画家にして、近代絵画の創始者の一人とも言われるゴヤ。

「カルロス4世の家族」「裸のマハ」などの作品が有名ですが、それらの作品のみでゴヤを知る方がこの長編評伝を読めば、その型破りな人間性と苦難に満ちた人生に、きっと驚かれるでしょう。

著者
堀田 善衛
出版日
2010-11-19

平均寿命が35歳だった当時のスペインで82歳まで生きたゴヤ。生涯で354点もの肖像画を描いたゴヤ。妻に20人の子供を産ませたゴヤ。「贅沢、おれは贅沢が好きだ」と公言したゴヤ。大金持ちになるためになりふり構わず貴族に取り入ろうとしたゴヤ。

そんなゴヤを、堀田善衞は「怪物」「化け物」「闘牛の牛のような、粗野で野望に満ちていた男」と呼び、時に呆れつつ、時に応援するように、その生涯を詳らかに綴ってゆきます。自分を虜にするゴヤの絵を通して、自分自身を見つめなおすために。

「見るとは、しかし、いったい何を意味するか。見ているうちに、われわれのなかで何かが、すなわち精神が作業を開始して、われわれ自身に告げてくれるものを知ること、それが見るということの全部である。すなわち、われわれが見る対象によって、判断され、批評され、裁かれているのは、われわれ自身にほかならない。」(『ゴヤ』1より引用)

書物との時代を超えた幸福な出会い

平安時代末期から鎌倉時代初期を生きた歌人・藤原定家が、19歳から56年間にわたって綴った漢文日記『明月記』。

本書では、その出会い以来、40年以上も『明月記』を読み続けてきた著者が、歌人としては一流ながら、実生活では二流貴族として苦悶の人生を送った定家の人物像と、当時の時代状況を浮き彫りにしてゆきます。

著者
堀田 善衛
出版日
1996-06-01

戦時中に『明月記』と出会った著者は、そこに記されたある一文に衝撃を受けました。

「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」

「源氏と平氏の権力争いなど俺の知ったことか」平安末期の動乱のなか、昂然とそう言い切った定家に、同じく文学を志しながらも、戦争に召集されることを恐れて日々を過ごしている自分との、圧倒的な覚悟の差を突きつけられたような気がしたのです。

戦後、堀田善衞はついに作家として歩みはじます。舞台が現代であれ、中世であれ、中国であれ、スペインであれ、堀田善衞の作品の背景にはつねに戦乱や争乱の存在がありました。それはもしかすると、著者が戦争時中の暗澹たる心境にあった自分を励ましてくれたと語る、定家と存在があったからかもしれません。

「私はやはり、この先も定家氏とともに描き続けるであろう」(『定家明月記私抄』より引用)

これ以上に幸福な書物との出会いはあるでしょうか。

堀田善衞の作品を読むと、今も昔も人間は同じようなことを考え、同じように悩んできたんだな、ということがよくわかります。どれか一作でも、興味をもってもらえるとうれしいです。