文化を流通させる人たちの役割とは
- 著者
- うめ
- 出版日
- 2007-03-24
ソフトハウス「スタジオG3」とそこで働くゲームクリエイターたちを描く熱血業界ドラマです。テンポが良く、熱いネームが心に残る名作です。主人公・天川太陽は、面白いゲームを作りたいという理念のもと、「仕様を一部変更する!」という決め台詞とともにスタッフたちを困らせます。徹夜や長時間労働は当たり前(どうやらこの業界ではそれほど珍しいことではないようですが)、クライアントや他のステークホルダーにも、無茶ともいえる交渉を繰り返します。それでも、彼が多くのスタッフに慕われているのは、その理念を必ず遂行しているためでしょう。
もちろん、そうした純粋さに支えられたゲーム作りは、必ずしもそういった理念だけで成り立っているわけではありません。スタジオG3の前には、いつも納期や表現規制といった課題が立ちはだかりますが、とりわけ後半になるにつれて見えてくるドラマには、ゲームが「作り手」や「ユーザー」、あるいは販売店や取次といった存在だけで成立しているのではないことをしみじみ感じさせられます。
例えば、音楽や絵画といった芸術や学問など、いわゆる「文化」として称されやすいような活動やそれをとりまく業界のあり方が、いかにその文化のありように影響を与えるのかを検討した分野として、「文化生産論」があります。芸術や学問、あるいはエンターテイメントなどは、作り手や受け手の存在ばかりがクローズアップされますが、実際にはそれを流通させる人々や、競合する同業者集団、法律などの制度など多くの影響を受けています。
この漫画の中でスタジオG3の面々の前に立ちはだかるのは、大企業「ソリダスワークス」の品質保証部顧問である卜部・ジークフリート・アデナウアーです。彼の「健全なゲーム」に対する執念はかなりのものです。言うなれば「規制推進派」のアデナウアーなのですが、その背景にはある事件が関与しているのです。アーティストや芸術家が社会問題についてのメッセージを発したり、政治活動をしている人々がロックフェスに参加したりといった動きを許容できない人もいるのではないかと思います。ただ、文化は文化のみで独立して成立しているわけではありません。社会に存在する、私たちが時として忌避したくなるような事柄の連続によって構築されたものが文化だ、という解釈もできるのです。それを、太陽たちとアデナウアーの戦いが教えてくれるでしょう。
生活の中にあるものが、人と人とを結びつけるメディアになる
- 著者
- 黒田 硫黄
- 出版日
- 2009-01-23
筆を使用した力強いタッチ、ページ全面にあふれる迫力ある絵が印象的な黒田硫黄氏は、「天狗」や「戦争」など、歴史的で重厚なモチーフを用いる漫画でも印象深いです。どちらかというと深く掘り下げるタイプの世界観にもかかわらず、どのようにも受け取れる含意を持った作品群が多いように見えるのは、取り上げられるモチーフがきわめて「メディア」的だからではないでしょうか。
文化と切っても切れない関係をもつものとして、文化の創造や構築、伝達に関わってきた「メディア」があります。このメディアとは、テレビやラジオ、インターネットや書籍でもありますが、一方で直接対面しない他者同士を結びつけ、関係を変化させるようなものであれば、何でもメディアと言い得るものでもあります。ここでメディアとして紹介したいものが、黒田硫黄が用いている「茄子」というモチーフです。
アフタヌーンで連載された『茄子』は、毎回茄子が出てくる以外は特に共通点のない連作集です。ナスを育てる元大学教授のもとにやってきた駆け落ちカップル、故郷を離れた自転車選手が、故郷に帰って食べる茄子(これは『茄子 アンダルシアの夏』としてジブリで映画化されたため、ご存知の方も多いと思います)、久しぶりに会った異性の友達と食べる弁当に入った茄子……。いずれも、茄子は食べられたり、育てられたり、料理されたりする「モノ」ではあるのですが、それをネタにして、あるいは傍らに置かれて、人間ドラマが進んでいるのです。そういった意味では、ひととひとを結びつけるメディアとして茄子が成立していると言えるでしょう。
生活の中のあるモノが、人と人とを結びつけ、その関係を変動させる「メディア」となる――こうした議論を行っている論者の一人に、民俗学者・柳田國男がいます。例えば柳田は「酒」を、それを飲む祭礼やイエといった「場」とのかかわりの中で論じることにより、単なる「モノ」ではない、人々を結びつける「メディア」としての酒を論じました。また、行燈やランプといった「火」が、居間のような家族が集合する場からどこにでも運んで用いられることにより、イエの中の空間がそれぞれの部屋へと分かれ、人々がそれぞれ別個に本を読んだり物を書いたりするような空間が成立し、それによって家族が同居しつつも個人のスペースの中で生きるようになったと論じました。こうした観点から、あなたの身の周りのモノも、様々な役割を担っていることに気づくでしょう。
ジモトという文化 —— 「ローカル型雑食」のあり方
- 著者
- ツジトモ
- 出版日
- 2007-04-23
東京都台東区浅草をホームタウンとする、「元」強豪プロサッカークラブ・イースト・トーキョー・ユナイテッドが、その名の通り「GIANT KILLING(強い奴らをやっつける)」という爽快感あふれるサッカー漫画の本作。プレイヤーやチームワークといった部分でなく(勿論それらの部分も精密に書かれていますが)、「監督」や「戦略」に焦点を当てたという点でも新規性の高い漫画です。この作品が焦点を当てている珍しい要素のもうひとつに「観衆」があります。
とりわけ、サポーター集団「ユナイテッド・スカルズ」のキャラクターである羽田のエピソードは、サポーターである地元民の面々も皆それなりの人生のストーリーの中でETUを応援していると分かる、素晴らしいストーリーです。親子二代でサポーターをやっている「江戸前応援団」のゴローとコータ、久しぶりにサポーター活動を再開したシゲなど、ETUは単にサッカーをプレイし、その場において観客を魅了するだけでなく、家庭や友人間の話題を提供してくれたり、一緒に何かに熱中させてくれたりするような、そんな存在なのです。
実際に、日本のプロ野球球団やサッカーのクラブチームは非常にローカル性が高く、「地元にある」という理由から特定のスポーツチームを応援している人も多いでしょうし、ファン感謝デーなどのイベントに参加する方には「会場が近いから」という人もいるでしょう。しかし、地元にあって、特定のサービスを地域住民に対して提供する集団はスポーツだけではありません。例えば「××市民交響楽団」などもそうですし、もっと範囲を広げれば「××大学」なども入るでしょう。でも、この作品に出てくるサポーターたちは、「ETU」に声援を向けることはあっても、「浅草市民交響楽団」のコンサートを鑑賞することはないのではないでしょうか。
これは『大東京トイボックス』の紹介で挙げた「文化的雑食性」とも重なる部分ですが、社会学者の山田真茂留と小藪明生は、とりわけアメリカにみられる文化的雑食性を「ローカル限定の雑食性」と論じました。地元のNBAやNFLのチームを応援し、地元のオーケストラが開催するコンサートに行き、ローカルなフェスがあればそれに行く……。この場合、地元にさえあれば、どのような興業でも足を運ぶ可能性があるとも言えるわけです。
そういった意味で、文化は人の嗜好や生活背景から選び取られるだけではなく、所与のものとして存在し、地域や都市住民の凝集性を高める役割を担うこともあります。山田と小籔は、日本においてはローカルな雑食性が発揮されることは少ないと主張していますが、では日本においてどのような文化が「ローカル型雑食」の対象として見なされているか、考えてみるのも面白いかもしれません。