金子光晴は1895年に愛知県で生まれた詩人です。フランスの象徴派や高踏派の影響を受けた綺羅びやかな作風でしたが、戦時下には反権力、反戦的な詩を発表していきました。戦後一躍反戦詩人と脚光を浴びますが、社会に対して懐疑的になり、それが詩にも反映されます。
金子光晴は1895年に愛知県、現在の津島市に生まれました。暁星中学を卒業すると、早稲田大学英文予科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科にそれぞれ入るものの、すぐに辞めてしまい、20歳で大病を患うと病床で詩に出会い、それから詩にのめり込んでいきます。
翌年養父が亡くなると、莫大な遺産を養母と折半しました。大金が入ると鉱山事業に手を出して失敗したり、自費出版で自分の詩集を刊行したりで、その大半を短い間に使ってしまい、残ったお金を持ってヨーロッパに留学します。そしてベルギーで2年間詩作に励んだのです。
帰国後に「こがね虫」を刊行しました。フランスの象徴派と高踏派の影響を受けた、美に対する憧れが強く表れたものでした。しかし戦争の色が濃くなって来た頃、現実を風刺した「鮫」を刊行し、反権力、反戦の姿勢を示します。
戦後も多くの反戦詩集を発表し、晩年になると自伝も執筆し、その独特の文体で注目をあつめました。 妻は詩人の森三千代、息子には翻訳家の森乾がいます。金子光晴は1975年6月に病没。遺言により無宗教、無戒名だったそうです。
金子光晴の代表作とされる作品から、特に優れたものを集めた詩集。ベルギーから留学帰りに刊行した「こがね虫」、戦時色が強くなっていく頃に現状を風刺した「鮫」、終戦後、戦時下で書き溜めた詩を次々と刊行していった反戦詩集「蛾」「落下傘」、この世に1500部しか存在しない幻の詩集「愛情69」などから、選りすぐり1冊にした詩集です。
- 著者
- 出版日
- 1991-11-18
金子光晴の約60年間の詩作の中から、詩「鮫」は全文、他は数篇ずつ選りすぐって、年代順に集めたのが、この詩集です。注釈があるのは「鮫」だけなので、それ以外旧字体や難しい単語が点在している部分もありますが、読みにくい程ではありません。
金子光晴の初期の詩は、象徴派のボードレールなどの影響を受けたであろう頃に書かれた「こがね虫」などがあげられるでしょう。その中にある詩は、後年の金子光晴の作品と比較すると、光り輝くきらびやかな印象で凄みはあまり感じません。
しかし、後に自伝で書かれたようなどん底の生活をしたパリや、東南アジア、中国と世界のあちらこちらを放浪してきた後の著者の詩は、人間の持つ凄みを表しているのです。明らかに違うものに変化しています。人間の危うさや、根深い人の執拗で無残な業から、人間が開放されることを願った作品などがそうでしょう。
人間の本質に根ざした不信や憤りや憎悪といったものを綴った作品、将来のない人類の行く先についての絶望感を書いてある詩など、読み手側の気持がついていけなくなってしまい、心が塞がるような物もあります。
一方では、女性たちや孫娘若葉への、愛しか感じられない、優しい詩も読んでいるのです。特に孫娘若葉には「若葉のうた」という詩を出し、祖父から孫への手放しの賛美で、普段、詩とは縁のない人たちにも持を得たといいます。 今の現状に閉塞感を感じている人に特に、おすすめしたい本です。
2年のヨーロッパ留学の後帰国し、「こがね虫」で詩壇にデビューした金子光晴。その後当時女学生だった森三千代と出会い、子どもが出来て結婚します。やっと落ち着くのかと思ったら、妻である三千代が年下の男性と不倫をし、元々の生活苦も重なって、身動きの取れない状況になるのです。
妻を不倫相手から遠ざける目的と、生活苦を打破するために行き着くのが上海でした。 その地でのどん底生活を書いた自伝が、この『どくろ杯』です。
- 著者
- 金子 光晴
- 出版日
- 2004-08-25
自分自身の欲望やいい加減さ、とても人様に胸を張って、言えないようなことや、貧困生活などもありのままに書かれています。
例えば森三千代と結婚するまでの流れも、正直に金子光晴の心情が書かれていることで、2人の駆け引きがユーモラスにさえ感じられます。愛よりも欲の方にとらわれているのが、よく分かる話です。それから二人の間に子どもが出来て、結婚の運びとなります。
しかし、このあと妻が、後に美術評論家となる土方定一と不倫関係になったため、相手と妻を引き離すため、また生活苦を打破する目的で、上海に行きました。まさしく行き当たりばったりな、いい加減さです。このあたりも、ありのままに書かれています。
上海も魔都と呼ばれた頃の、上海です。それこそ金子光晴の言葉を借りるなら「世界の屑、ながれものの落ちてあつまるところ」でありました。その中で暮らすどん底生活をおくる人々の姿は、非常に胸に刺さるものがあります。
そんな上海での生活を二年に渡り送ってきた金子夫妻がパリに向かう所で、物語は終わるのです。どうしようもなく、貧しい生活ではありますが、その生活が克明に綴られていることに、または描写や表現の的確さにさすがに、一流の詩人と感心することでしょう。
昭和3年から7年、金子光晴が妻三千代とともに、東南アジアを放浪の旅をしていた時の、旅行記です。戦前の紀行文として評価の高いものです。
1930年代ごろの東南アジアの状況などが、多少知識としてないと、詳細まで読み取ることが出来ない可能性もありますが、単純に紀行文として読んでも、そこで暮らす人々の様子が生き生きと書かれており、また自然の色彩も目に浮かぶように表されています。
- 著者
- 金子 光晴
- 出版日
- 2004-11-25
1940年に出版されているのですが、今現在のシンガポールやマレーシアの発展を誰が予想できただろうかと思うような状況だったことは分かります。
その頃のマレーシアは錫炭鉱と天然ゴムの取れるところという扱いですし、シンガポールは現在こそガーデンシティと呼ばれ、美しく近代的な街並みが広がる一大繁栄都市ですが、この頃はまだジャングルがたくさんあり、マラッカ海峡を通る船の立ち寄る港町的な扱いだったということを念頭に置いて読まないといけません。
鉱山で働く苦力が、阿片を求めてそれこそ地獄のような環境で過酷な労働をしているなど苦労話も垣間見られ、それこそありのままに書かれています。
ジャングルの描写も多いのですが、やはり金子光晴の筆致が冴えるのは、人間の描写でしょう。様々な人々や風俗、文化などが書かれているところは、当時の様子が細部まできちんと、想像できる程です。その細かい描写は、まるで自分の目の前にその光景が映し出されているような気さえします。
単なる紀行文ではなく、人間描写を味わったり、当時の東南アジアの風俗を知るのにも一役買いそうです。
金子光晴が明治から昭和に至るまでに出会った、絶望の人たちを綴ったものです。
貧しい空寺の番人で一生を閉じた実父の話や、あまりにもロマンチックな思想と現実との乖離に絶望して自ら首を吊った北村透谷の話。また才能が足りないと自ら指を切断し、芸術への野心を断ち切った彫刻家の友人の話など、絶望に満ち満ちています。
- 著者
- 金子 光晴
- 出版日
- 1996-07-10
著者はここで、身近な人間の生きざまを晒すことを敢えて行い、気にいらないことははっきりと指摘しています。自分の身近にいる人の生き様を包み隠さず書くのですから、自分のみっともない人生の大半も赤裸々に綴っています。
日本人にとっての絶望はどういうものなのか、自分で思いつくままに、感じたままに書いているようです。
ありのままに書かれているため、救いようのない現実に、読み手側にとって見れば、あまりいい気持ちのしないところもあります。ただし、現実は時に残酷で、救いも何もないことがあるのも事実です。金子光晴は『絶望の精神史』を通じて、絶望しないのが日本人の美点と思っている人々に、絶望すらしない日本人の驕りを突きつけたかったのでしょう。
「人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物なのではないか、とさえおもわれてくる」という言葉で締めくくられますが、人間の本質を、欲深さを、よく表している言葉です。
自分の子どもを母親に預け、妻の森三千代を追って、中国から香港、東南アジア、そしてパリへと彷徨する旅の旅行記です。夫婦揃って、あてもなく、お金もない状況でパリで再会します。それこそ、人殺しと男娼以外なんでもやったという、金子光晴の言葉通り、様々な仕事をし糊口をしのぐ2人の姿に、強かささえ感じます。
- 著者
- 金子 光晴
- 出版日
- 2005-06-25
『どくろ杯』に続く、金子光晴の自伝的紀行文です。ぜひ『どくろ杯』を読んでから読んでいただきたいです。
パリでおちあったはいいけれど、金子光晴も三千代もにお金がなく、生活費は自分たちで何とかしなければならない八方塞がりの状況を書いています。
日本画を習っていた金子光晴は、怪しげな日本画を描いて現地の日本人に売りつけたり。お金を持っていそうな日本人へのゆすり、たかりで毎日暮らしている有様でした。そんな暮らしを続けている内に、パリ底辺で暮らす芸術・文芸家仲間にも、認められる存在となっていきます。
自伝的な紀行文なので、昭和初期のパリの文化や風俗が書かれており、当時のパリの様子がよく分かりますが、それと同時に鋭い文化批評にもなっています。
「東洋ではともかく、西洋での身の詰まりかたは、さすがに個人主義国だけに凄まじいものがあった。破産者は遠慮なく自殺した。敗者が生残れる公算がないからである。その点はしょぼくれて生き延びることに馴れている日本人のほうが辛抱づよかった」(『ねむれ巴里』より引用)
例え逆境にあろうとも、強かに生き抜く、生命力を感じます。人間の狡さや、汚さも併せて描かれているのです。仲間の日本人が自殺や病死、あるいは帰国していく中でも、生き抜いていった2人のたくましさが印象的ですらあります。
いかがでしたでしょうか。金子光晴という詩人は、明治、大正、昭和の時代を生き抜いてきた反骨の詩人と呼ばれますが、とても自分に正直に生きて来た結果、そう呼ばれているのかもしれません。自由に、そして強かに生きてきた著者の作品をこの機会に読んで見るのも良いでしょう。