読む前と読んだ後で、世の中がまったく違ってみえる作品があります。戦後派文学を代表する野間宏も、そんな作品を書き続けた作家のひとりと言えるでしょう。筆一本で真正面から社会にぶつかっていくような彼の作品から、おすすめの5作を紹介します。
人間と社会全体の構造を描く小説を志向し、作品以外でも社会が抱える問題に向き合い、つねに弱者の立場に立って発言を続けた野間宏。そんな彼の生涯を簡単に紹介します。
野間宏は1915年、神戸に生まれました。高校時代に同人誌を創刊するなど早くから文学への情熱を抱き、大学は京都帝国文学部仏文科へ入学。一方でマルクス主義への関心も強く、学生時代には学生活動家や労働者の活動家たちと交流を結びます。
その後、大阪市役所に就職し、被差別部落の融和事業を担当した彼は、部落解放運動の指導者らとも親交を深めました。太平洋戦争がはじまると応集を受け、戦地に向かいますが、1943年に治安維持法違反容疑で逮捕され、約半年間、陸軍刑務所に服役させられてしまいます。
そして終戦まもない1947年にデビュー作『暗い絵』を刊行。その後も、それまでの戦争体験、社会主義運動、部落解放運動などの経験から『真空地帯』『青年の環』などの重厚な作品を次々とうみだし、1991年に75歳で亡くなるまで、戦後派文学を代表する作家として活躍を続けました。
野間宏の代表作のひとつであり、戦後文学のひとつの達成ともいわれる本作。太平洋戦争中の兵営の実態を描いてその非人間性を告発した純文学作品、というのが教科書的には正しい読み方かもしれませんが、一級のミステリー小説としても読める、多面的な魅力をもった作品です。
主人公は、過去に兵営で財布を拾ったところ、何者かによって窃盗犯につるし上げられてしまった木谷上等兵。彼が陸軍刑務所で2年の刑期を終え、以前と同じ軍部内部班に戻ってきたところから幕を開けます。
- 著者
- 野間 宏
- 出版日
- 1956-01-09
木谷の目的はひとつ。自分をおとしいれた犯人を捜しだし、盗難事件の真相を暴き出すことでした。
久しぶりの兵営は、初年度の学徒兵や補充兵ばかりで、古い下士官を除いて木谷を知る者はいません。しかし、実は木谷が軍隊生活の長い古参兵であること、さらに刑務所帰りであることが明らかになるにつれ、班内は不穏な空気に包まれていきます。
もともと気性の荒い性格の木谷。ある夜、ひとりの上等兵から「監獄がえり」と揶揄された彼は、ついに感情を爆発させてしまいます。
「『くるか、くるか、こい、たて……、監獄がえりにこわいもんはないぞ……さあ、殺してやるから。』彼は池野上等兵の頭を床にごんごんとぶっつけていった。(中略)やがて池野上等兵の頭の下から流れでてきたものは、ねばねばした液体だった。」(『真空地帯』より引用)
この暴力事件を機に、完全に厄介者とみなされた木谷は、さらに孤立状態におちいってしまいます。はたして彼は、盗難事件の真相をつかむことができるのでしょうか……。
長編作品ながら、簡潔な文体とサスペンスフルな展開で、一気に読ませてしまいます。戦後文学や純文学に興味のない方も、きっと楽しめる作品です。
原子力や核の問題、環境破壊、食糧問題など、ヨーロッパ近代合理主義が生み出したさまざまな問題が噴出するなか、野間宏はあらためて日本人のこころをとらえなおすことで、明治以降の日本の近代化を問い直そうとします。
そこで注目したのが仏教でした。なぜなら、儒教、キリスト教、蘭学、マルクス主義など古来より輸入してきた思想系列のなかで、仏教こそが広く庶民のこころをとらえることができた唯一の思想だからです。
本書で野間宏は、そのキーパーソン、浄土真宗の開祖・親鸞の『歎異抄』をたどりながら、彼の思想の根源を探ってゆきます。
- 著者
- 野間 宏
- 出版日
親鸞には生涯をかけて取り組んだ問題が二つあった、と著者は述べています。それは「セックス」と「国家権力」の問題でした。
仏教にはインド伝来以来の厳しい戒律がありました。女性との性行為を絶たねばならないという女犯の禁止もそのひとつ。しかし、生涯にわたって性欲の問題に悩んでいた親鸞は、あるとき妻帯(結婚)を公表し、世間を騒がせたのです。
また親鸞ほど、天皇をはっきりと批判した仏教徒もいません。35歳のとき、ある理由で後鳥羽上皇の怒りにふれ、島流しされてしまった彼は、後の書物で、天皇もその臣下も仏法と正義に反している、私は無実の罪をきせられたのだと弾劾したのです。
そして野間宏は、このような人間の根源にあるものを追求しながら、権力とは反対側に立ち続けた親鸞の教えこそ、仏教が国中に広まった理由であり、人類の危機が叫ばれている時代にあらためて見直すべき考え方であると語ります。
本書の発表は1969年。しかし、冒頭で列挙した人類の問題についてなおも解決策が見いだせない現代、パンクでアナーキーな親鸞がふたたび有効な示唆を与えてくれるかもしれません。
長いあいだ、被差別民衆の存在は日本の歴史の闇、あるいは負の部分として、タブー視されてきました。
本書は、大阪市役所時代に被差別部落の融和事業を担当し、以来、差別・被差別問題を生涯のテーマにしてきた野間宏が、民俗学者・歴史学者の沖浦和光と、文化・芸能、宗教・民族の観点から、日本の歴史における身分差別をめぐって語った一冊です。
- 著者
- ["野間 宏", "沖浦 和光"]
- 出版日
- 2015-12-08
冒頭で2人は、人口に膾炙している「士・農・工・商・穢多・非人」という身分制の図式は、学問的にも事実としても完全に間違っていると一蹴し、その理由をこのように語っています。
「身分制の価値的源泉であり〈聖なるもの〉の象徴である天皇をはずし、身分制度の頂点にある貴種を除外しているんだから……。(中略)この図式では、身分差別についての天皇制の原罪的責任がまったく免除されているんだから……。」 (『日本の聖と賎:中世篇』より引用)
このようにして本書では、支配階級の側から書かれた歴史しか学んでいない人間にとってはほとんど知ることのなかった、差別・被差別の歴史が詳らかにされていくのです。
身分差別の歴史は中国をモデルとした古代律令制にはじまること、戦国時代に各地でおこった一向一揆で賤民層が大活躍したこと、観阿弥・世阿弥が大成した能だけでなく、浮世絵など日本の文化を代表する芸術が賤民によってうみだされてきたこと……。
なかなか取り扱われないテーマですが、対談形式のため、語り口がやわらかく、わかりやすいのが本書の特徴です。一面的、表層的にでなく、深く日本という国の歴史を知りたい方には欠かせない一冊と言えるでしょう。
本書はデビュー作「暗い絵」を収めた、野間宏の初期短篇集です。いずれの作品も発表は1946~48年。それぞれテーマは異なりますが、戦後の混乱が続く当時の日本を象徴するように、みずからの前途に不安と絶望をかかえた人物たちが登場します。
「彼は自分の人生の上で新しい一歩をふみ出したいと思っていた。しかし、如何にしてその緒(いとぐち)を見出してよいのか彼には解らないのだった」(『暗い絵・顔の中の赤い月』「顔の中の赤い月」より引用)
「もはや自分の人生を新しく切り開くことができないという思い、あるいは、ただこの思いが、彼の一切をとらえて、彼を痛めていると言ってよいのだろう」(『暗い絵・顔の中の赤い月』「崩壊感覚」より引用)
- 著者
- 野間 宏
- 出版日
- 2010-12-15
彼らを縛りつけていたのは、まだ記憶に生々しい戦時中の体験、生きるか死ぬかの戦場でみずからが為した、非人間的で自己中心的な行いでした。友の備品を盗んで知らぬ顔をしたこと、行軍中に力尽きた仲間を見殺しにしたこと、安易に性欲を満たすための強姦や慰安所通い……。
戦地に赴いた彼らだけではありません。夫を亡くした女性、思想弾圧にあい獄死した友人をもつ学生、さまざまな人間が戦争によって深い傷を負っていました。
しかし世の中は、一人ひとりの内面の苦悶など無視するかのように、復興をすすめ、物質的な豊かさだけを増してゆきます。まるでそれが、「仕方のない正しさ」とでもいうように。
公式的なマルクス主義の革命理論になじめない「暗い絵」の主人公、深見進介が最後にもらす心の叫びは、そんな社会に立ち向かっていこうとする、著者の清新な決意を感じさせます。
「《そうだ。》と彼は思う。《やはり、仕方のない正しさではない。仕方のない正しさをもう一度真直ぐに、しゃんと直さなければならない。それが俺の役割だ。そしてこれは誰かがやらなければならないのだ。》」(『暗い絵・顔の中の赤い月』「暗い絵」より引用)
先に紹介した『日本の聖と賎:中世篇』と同じ2人の著者による、「被差別民の歴史と文化」3部作のひとつです。
日本における身分制の形成と差別の構造には、インドのカースト制と、中国の律令制による差別の体系が深くかかわっていました。本書は、そこに朝鮮を加えたアジア全域の視圏から、日本の身分差別の起源と展開に迫ってゆきます。
- 著者
- ["野間 宏", "沖浦 和光"]
- 出版日
- 2015-11-06
野間宏らは、ヒンズー教の「浄・穢」という観念と、中国律令制の基礎にある「貴・賤」という観念こそが、日本の被差別民形成において大きなバックボーンになったと指摘します。一例をあげると、ヒンズー教で「穢」とされた医師や高利貸し、芸人、売肉業、屠殺業などや、中国で「賤」とされた商、工、医、巫などの職業が、そのまま日本でも差別の対象になっていったのです。
しかし本書では、彼らが受けた差別や弾圧については詳らかにされません。反対に、そうした被差別民が、いかに国内の産業のなかで大きな役割を担っていたか、その技術が同時期のヨーロッパに比べてどれほど高い水準にあったかが明らかにされてゆくのです。
それはもしかすると、本書が何者かに対する告発の書ではなく、日本人、あるいは全人類へ向けた祈り書である所以であるかもしれません。
あとがきで野間宏らは、上からの同情や救済ではなく、人間が真の意味で差別から解放されるために必要なことを、次のように述べています。
「人間の歴史や文化は、名もなき多くの民衆の手によってつくられてきたという事実を明らかにしていくこと、自分たちの祖先が賤民であったことを堂々と胸をはって誇りをもっていえる時代がくること」(『アジアの聖と賤:被差別民の歴史と文化』より引用)
野間宏の名前は知っていたけれど、なかなか手に取る機会がなかったという方も多いのではないでしょうか。紹介した作品は、今の私たちにも示唆を与えてくれる作品ばかり。ぜひどれが一冊手に取ってみてください!