究極のマゾ小説!谷崎潤一郎『春琴抄』はどこがすごいの?

更新:2021.11.8

純文学のなかでは比較的ストーリーが面白く、読みやすく感じる谷崎作品。80年以上にわたり読み継がれてきた代表作『春琴抄』の、文学作品としての魅力をご紹介します。

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『春琴抄』とは

『春琴抄』の作者である谷崎は、東京帝国大学在学中より創作活動を始め、やがて自身が創刊した雑誌『新思潮』に発表した『刺青』などの作品が高く評価されて、作家として注目を浴びるようになりました。『春琴抄』は、そんな谷崎が48歳のときに発表した作品です。

大阪の薬種商である鵙屋家に生まれた春琴は、9歳のときに視力を失ったことをきっかけに、本格的に琴や三味線の稽古をはじめます。そして春琴に密かな憧れを抱く丁稚の佐助もまた、彼女に習って三味線の稽古をはじめるのです。

佐助はわがままで気位が高い春琴に対して、常にまめまめしく仕え、春琴による稽古の際の激しい折檻にも決して根をあげません。

この作品において、狂おしいほどに春琴を崇拝し忠誠を誓う佐助の様子は、非常にマゾヒスティックに描かれていますが、そんな彼の姿はときに「究極の愛」としてもてはやされ、現代においても『春琴抄』は名作として多くの人に読み継がれています。

しかし、『春琴抄』に描かれているのは、そんな激しくも美しい師弟愛だけではありません。本作の文学作品としての最大の魅力は、物語の内容とそれを描く文章の構成が非常に美しくシンクロしている点にあると言えるでしょう。

つまり、物語の内容でも「マゾ」を描き、全体の構成も「マゾ」なものになっている……ということです。今回はここに着目して、作品の魅力を語っていきます。

著者
谷崎 潤一郎
出版日
2016-06-18

どのように描かれているのか?

この小説には、作者と私たち読者の間に結ばれる関係性について、さらには「読むこと」について、数多くの示唆が含まれています。

『春琴抄』は、佐助が著したとされる『鵙屋春琴伝』を読んだ語り手が、春琴と佐助について語るという形をとっています。

語り手は、春琴を崇拝していた佐助の記述には信憑性に欠ける部分があるとし、2人をよく知る女の話や自身の考察を交えながら真実を探るようにして『春琴伝』を読んでいきます。そして私たち読者は、実際の春琴たちには会ったこともない語り手の言葉を読んで、彼女たちについて知るのです。

語り手は佐助が書いた不確かな伝記を「読んで」春琴の一生を語り、読者は語り手の曖昧な言葉を「読む」ことによって春琴の生涯を知る。

つまりこの作品においては、読者に対して常に語る側の存在であり『春琴抄』の作者としての役割を与えられているはずの語り手が、同時に、『鵙屋春琴抄』の不確かな言葉に虐げられる読者でもあり得るということなのです。

「読む」とは何か

「読む」という言葉が、「真実であるとは限らない言葉の中から、自分なりの真実を見つけ出す行為」を意味するのであれば、読者としての役割を与えられているのは、語り手と私たちだけではありません。

『春琴抄』には、佐助が細々と気を遣いながら気難しい春琴の身の回りの世話を引き受ける様子を描いた、印象的な場面がいくつかあります。

「春琴は『もうええ』と云いつつ首を振った。しかしこういう場合『もうええ』といわれても『そうでござりますか』と引き退がっては一層後がいけないのである無理にも柄杓を捥ぎ取るようにして水をかけてやるのがコツなのである。」(『春琴抄』より引用)

春琴の佐助に対する言葉が常にまことであるとは限らないために、佐助は常に彼女の言葉や表情から、彼女の望むことを「読んで」いなければなりません。そうでなくては、春琴の機嫌をとることはできないのです。

「もう近いうちに傷が癒えたら繃帯を除けねばならぬしお医者様も来ぬようになる、そうしたら余人は兎も角お前にだけは此の顔を見られねばならぬと勝気な春琴も意地が挫けたかついぞないことに涙を流し繃帯の上から頻りに両眼を押し拭えば佐助も諳然として云うべき言葉なくともに嗚咽するばかりであったがようござります、必ずお顔を見ぬように致します御安心なさりませと何事か期する所があるように云った。」(『春琴抄』より引用)

これは『春琴抄』のクライマックス、佐助が傷つけられた春琴の顔を見ずに済むよう、自分の目を潰してしまう前の2人の会話です。佐助のマゾヒズムをことさらに強調するようなこの行動もまた、春琴の気持ちを「読んで」のことでした。

ここからわかるのは、谷崎は明らかに「読む」ということと、マゾであることの間に、共通点があると考えているということです。佐助が春琴に虐げられ自らを傷つけるに至る過程は、すなわち私たち読者が、自ら小説を読み、不確実な言葉に虐げられる道を選ぶ姿に似ているというわけなのです。

作者、そして読者としての佐助

『春琴抄』には、春琴の態度からその気持ちを「読む」佐助、『鵙屋春琴伝』を「読む」語り手、そして『春琴抄』を読む私たちという、3人の読者が存在するというのは先に述べた通りです。

そして、不確実な文章を読む語り手と私たちには、決して春琴たちの真実を知ることができないということも前述した通りです。

では、もうひとりの読者たる佐助には、春琴の真の姿を見ることができていたのでしょうか―――恐らく佐助もまた、真実にたどり着くことのできない読者のひとりであったことでしょう。

「彼の視野には過去の記憶の世界だけがあるもし春琴が災禍のため性格を変えてしまったとしたらそう云う人間はもう春琴ではない彼は何処までも過去の驕慢な春琴を考えるそうでなければ今も彼が見ているところの美貌の春琴が破壊される」(『春琴抄』より引用)

こういった記述によく表れている通り、佐助は自身のなかに理想の春琴像を作り上げ、それを崇拝していたきらいがあります。私たち読者が決して小説の真実を知ることはできないように、彼もまた自分のなかに春琴像を作り上げるより他なかったのです。

小説を読む、という行為には、確かに多くの自由が与えられています。描写を通してどのような情景を思い描くかもそれぞれに一任され、叙述トリックという言葉があるように、語りのあり方によって物語の様相を異なったものとして浮かびあがらせることもできます。

作者にも読者にも消耗を強いるそのあり方にどうしようもなく惹かれてしまう、と思ってしまうのは、やはり小説の読者として、マゾヒズムを持ち合わせている証なのでしょうか。

文学作品には、そうした小説の新たな楽しみ方を教えてくれる大きな力があります。このような視点から、また名作を読み返してみるのも面白いのではないでしょうか。

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