朝倉義景は織田信長や武田信玄と同時代に生き、一時は誰よりも天下に近かった大名です。時代劇や小説では無能という描かれ方をしてしまう義景ですが、実際はどんな人物だったのでしょうか。彼の波乱万丈な人生を伝える本をご紹介します。
朝倉義景(あさくら よしかげ)は、100年に渡って越前国を治めた名門・朝倉家の長男として1533年に生まれました。14歳の頃に父・孝景が亡くなったため、若くして11代当主となります。当初は一族の名将・朝倉宗滴が政務・軍事を補佐しており、越前国は平和で安定していました。
将軍家とも近しかった朝倉家は、将軍・足利義輝が暗殺された後、その弟である義秋(後の将軍・足利義昭)を助け、越前で匿います。義秋自身も義景を頼りにしており、義景が手を焼いた加賀一向一揆との仲介を行い、和解に導きました。
他の大名よりも近しい関係だった2人。しかし、義秋からの再三の上洛要請も義景は応じませんでした。結果、義秋は織田信長を頼ることに決め、信長が上洛。義秋を将軍とし、天下統一へのコマを進めることになるのです。
織田の領地である美濃と京都の間にある越前を疎ましく思い、朝倉義景を従属させる機会を窺っていた信長は、1570年に徳川家康とともに義景を攻めます。この際は、信長の妹婿である浅井長政が裏切って義景に加勢したため、信長は撤退。朝倉軍はその後を追うも、信長をはじめとする有力武将を取り逃がしてしまいます。
その2ヶ月後、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍の戦い(姉川の戦い)では、朝倉・浅井勢は敗走。小競り合いや合戦をくり返し、同年12月には信長と義景は勅命講和することになります。その後、有力大名である武田信玄、朝倉、浅井などによる織田包囲網が敷かれました。信玄が信長と戦っている間に、義景は長政とともに信長を攻めるも、羽柴秀吉の軍に手こずり敗走します。
しばらくして信玄が亡くなり、主力を越前へ向けることができるようになった信長は、1573年に大軍を近江へ向けて侵攻しました。義景は全軍で迎え撃とうとしますが、これまでの義景の失態に重臣たちの心は離れており、出陣命令を拒否されてしまいます。少ない兵力で出馬するも、大敗。義景は命からがら逃走し、寺へと隠れていたところを、最後まで味方だった朝倉景鏡にも裏切られて襲撃を受け、自害しました。
1:文芸に通じ、一大文化圏を作り上げた
朝倉義景は越前一乗谷に3つの庭園を作庭しました。どれも非常に風雅で素晴らしいものです。
なかでも側室・小少将のために造ったとされる諏訪館は、もっとも規模が大きく、回遊式林泉庭園としては、日本においても最大級の豪華さだったとされています。
また、小笠原流弓術が得意で、「犬追物」をたびたび開催していたそうです。そこで、弓の腕前を披露していました。
歌道・猿楽・絵画・茶道などの芸事にも通じており、一乗谷では多くの茶器(唐物茶碗など)が出土しています。京都から多数の文化人を招き、曲水の宴を催し、越前が「もう一つの京」と言われるほどの文化圏を築きました。
2:名前の一文字は将軍から与えられた
越前は京都近くに位置していたため、朝倉家のそれまでの当主は将軍の依頼を受けて援軍に向かうなど、治安維持に努めていました。そのため朝倉家に毎年将軍が訪れるなど、密接な関係を持っていたのです。
朝倉義景が当主となった4年後の1552年、当時の将軍・足利義輝から「義」の字を与えられ、それまでの当主がもらっていたよりも高い左衛門督の位が与えられました。将軍家が義景にその力を期待していたことがわかります。
3: 信長から宿敵と恐れられた
金ヶ崎の戦い、姉川の戦いなどを経て織田信長との講和の際、信長は義景に「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」という書状を送っていました。信長が義景に対して強い警戒心を抱いていたことがわかります。
4: 情にもろく、平和的な性格だった
1568年に義景の嫡男・阿君丸が亡くなった後、悲しみにくれて政務を行えなくなってしまいました。これが義秋からの上洛要請にも応じなかった理由だとされており、天下人になるチャンスよりも家族のほうが彼にとって大きかったということでしょう。
悲嘆にくれる義景を心配した家臣が、美しい娘・小少将を側室にとることを勧めます。そして1570年に小少将は男児・愛王丸を出産しました。義景は小少将と愛王丸を溺愛したといいます。それによって政務をさらに行わなくなってしまいましたが、このことから彼は愛情深く、情にもろい人だったことが窺えるでしょう。
また、弱った敵を追い込む好機であっても、徹底的に潰すどころか、逃がしてしまいます。
朝倉義景の性格が災いして、何度も敵を逃してしまったり、重要な戦場に赴かなったりするなど、戦国大名としては致命的な失態を犯しています。それによって、部下の離反を生んでしまうのですが……。平和を愛し、戦国武将に向かない性格だったのでしょう。
戦国大名としてチャンスが目の前にありながら、それを自ら逃してしまう、ということが何度かありました。彼の判断力のなさを感じさせる3つの逸話をご紹介します。彼は戦国を生きるのには向いていなかったのかもしれません。
①:天下を獲れる機会を逃す
足利義秋が上洛を求めた際、義景はそれに応えませんでした。この時、義秋は越前にかくまわれているという最高の条件が揃っていたにも関わらずです。
上洛をするということは、すなわち将軍の保護者となることであり、それによって政治的影響力が高まり、天下を獲れる機会が大きくなるのです。それをみすみす逃し、結果的に織田信長がそれをやってのけました。
②:信長を追えたのに躊躇する
金ヶ崎の戦いで浅井長政が信長を裏切り、信長を追撃する絶好のチャンスだったにも関わらず、義景は信長をはじめとする多くの有力武将を取り逃がしました。そして、その後も積極的に追い詰めることはしなかったのです。
次の姉川の戦いでは、義景が総大将を別の者に任せたことで浅井長政は激怒。戦いは敗退します。
③:絶好のチャンスに信長を攻めず
それでもまだチャンスはやってきます。信長が本願寺と交戦状態に入ると、信玄、長政などで信長包囲網が構築されました。
信玄が近江・三河へ侵攻し、信長は岐阜へ撤退。追い詰めるチャンスだと信玄から義景に挙兵要請があります。義景は浅井とともに挙兵しますが、羽柴秀吉軍に阻まれ敗退。そのまま粘ることもなく、越前へと逃げ帰ってしまうのです。
絶好の機会を逃したことに、信玄は激怒し義景を非難する書状を送っています。
戦国の世で名門・朝倉家に生まれながら、やってくるチャンスをことごとく逃していった朝倉義景。何が彼をそうさせたのでしょうか?
- 著者
- 出版日
福井県庁で県史編纂に従事した著者が、朝倉義景の育った朝倉家について、家臣たちについて、謎が多かったとされる生い立ちからその妻たち、人物像に至るまでを徹底調査し、まとめた本です。
また、史跡や文化財、城や城下町の様子まで書かれています。この本では、朝倉義景にまつわる事柄が様々な角度から詳細に紹介されています。
歴史の流れだけでなく、義景を構成する要素について多面的に知ることができるので、人物像をイメージしやすくなる一冊です。
名門朝倉家はなぜ滅亡の道をたどったのか。戦国の世を生き抜けなかった朝倉家最後の当主、朝倉義景について詳しく取り上げた伝記の草分け的存在の本です。
- 著者
- 水藤 真
- 出版日
- 1986-11-01
本書では、義景までの朝倉3代についてや、義景の人物像と彼の教養、朝倉家滅亡の理由までが多くの資料とともに明らかにされていきます。
義景という人物のバックグラウンドである朝倉家・越前について、そして彼がどう生き、どう人生の選択をしてきたかについて、深く知ることができる一冊です。
さまざまな人々が登場する歴史を体系的に、わかりやすく把握したい時は、本書のような漫画がおすすめです。
- 著者
- ["静霞 薫", "早川 大介", "加来 耕三"]
- 出版日
- 2015-03-04
読みやすい絵で展開されるこちらの学習漫画は、史実に忠実で、楽しんで歴史が学べるようになっています。
朝倉義景について、とても前向きに描かれており、彼の良い部分・活躍した部分についてがよく伝わってくるでしょう。最後には年表や豆知識が付いているので、この一冊を読むことで義景にまつわる戦国の歴史を学ぶことができます。
平和的で、文芸に通じていた義景。もしも生まれた時代が戦国時代でなければ、また違った活躍をしていたかもしれません。信長や信玄でなく、義景を通して戦国時代を見ると、また違ったものが見えてくるはずです。