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5分でわかる応仁の乱!原因と結果についてわかりやすく解説!

更新:2020.11.27 作成:2017.9.21

日本史上最大の内乱と言われる応仁の乱。京の都が舞台となり戦国時代の幕開けといわれるこの戦いですが、その原因は複雑で、なぜ11年もの間戦いが続いたのかは、当人たちも分かっていませんでした。今回はそんな応仁の乱を分析する書籍を紹介します。

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戦国時代の火種、応仁の乱とは?

「応仁の乱」は室町時代中期に起こった「戦国時代がスタートしたきっかけ」といわれている戦いです。ことの発端は将軍家のお家騒動と、管領家の畠山氏の家督争いが重なったことにありました。

当時、室町幕府8代将軍・足利義政は、管領畠山氏の義就と政長の争いを収めるため、これに介入していました。

義政は当初、嫡流の義就に家督相続を命じますが、途中で、義就の従弟である庶流の政長に権利を譲るという優柔不断なことをおこないます。この相続問題をめぐって義就と政長が対立し、さらに有力守護の山名宗全、細川勝元が介入。それぞれに加担する守護たちが次々と京都に集結します。

将軍家自身も義政の後継者を巡って、義政の妻・日野富子と幼い嫡子の義尚、そして義政の弟の義視という二派に分かれていました。御家人のなかには義視を暗殺しようとする者まで現れたため、義視派と義尚派が争う形で、宗全と勝元の争いに加わっていきます。

こうして1467年、京都にて、それぞれの家の複雑な事情がからみ合いながら集結した軍同士の戦が始まります。義就・宗全・義尚の西軍側と、政長・勝元・義視の東軍側の対決です。以後11年間にも続き、ようやく終わった時には、都は焼け野原になりました。そして元々脆弱だった室町幕府の権威は、さらに衰えていくのです。

応仁の乱が起った原因は?

原因1:8代将軍義政が優柔不断な性格だった

応仁の乱の発端となった人物をひとりだけ挙げるとするなら、間違いなく将軍・足利義政でしょう。将軍という立場でありながら、早い段階であらゆる問題に対する解決策を打てなかった優柔不断さは無視できません。

原因2:山名宗全と細川勝元が不仲だった

応仁の乱が戦として成立した原因は、有力守護である山名宗全と細川勝元にあります。宗全と勝元は元々は協力しあう仲でしたが、考え方の違いなどが要因で、乱勃発の前にはすでに犬猿の仲になっていました。

宗全は武勇に優れ中国地方にて最強の勢力を誇っていましたが、管領でもある勝元は宗全の台頭を快く思わず、宗全側の守護の邪魔ばかりしていました。宗全も反勝本派の守護とあちこちで婚姻関係を結び、勢力維持を図っていったのです。

そうして、周囲を巻き込みながらいがみ合ってきた2人は、結局衝突してしまいました。

原因3:義政の後継者争いが山名・細川の争いと混じり合ってしまった

幼少期から政治に絶望し、天皇から「政治をサボるな」と叱責されたこともある義政は、早くから後継者を決めて隠居しようとしていました。

当時20歳そこそこの義政には子がなく、出家していた弟の義視を還俗させ養子としていました。ところがそれから間もなく妻の富子が妊娠し、実子の義尚が生まれ、義尚が後継者という雰囲気が一気に強くなります。

義視は謀反の疑いをかけられ命の危機を感じていました。そこで折よく兵を率いて京に駐在していた細川勝元に支援をお願いし、これに加担するのです。本当なら山名・細川にとって後継者争いは主要な問題ではなかったのですが、こうした利害関係がさらにことを複雑化させていきます。

原因4:畠山氏の家督争いも終わっていなかった

義政や宗全・勝元の介入で、政長の当主就任で治まったはずの畠山家のお家騒動でしたが、実は義就がまだ諦めていませんでした。政長側の城を攻め落とすなど、積極的な行動に出ます。

こうして、かねてから勝元と敵対していた義就は宗全に、政長は勝元に協力を仰いだ結果、畠山氏の争いはさらに大きく発展していきました。

原因5:将軍や天皇が戦の大義名分に担ぎ出された

守護同士の小さな争いなら、規模次第では幕府が加わる必要もなく、しばらくすれば勝手に鎮圧できたかもしれません。しかしどんどん力をつける宗全を警戒して、勝元は大義名分を得るために義政の屋敷を包囲し、自分を「幕府軍」だと任命するように威圧します。

御家人は勝元の強引な方法を許したくありませんでした。しかし義政自身は半ば投げやりにこれを認めてしまい、幕府の軍事権が勝元に独占されてしまいます。一方の宗全はこれに対抗するために生き残っていた南朝系の天皇を自邸に招き入れ、自分は「天皇軍」であると主張します。

こうして宗全と勝元は自分を権威づけるために各地の味方を京に呼び寄せ、ついには全国の守護が関心を持つ戦にまで発展してしまうのです。

応仁の乱の結果、その後どうなった?

結論からいうと、応仁の乱で官職があがったり、領地が増えたりしたような人物は誰ひとりとしていません。そもそも勝敗すらつくはずのない無駄な戦だったのです。

まず、次期将軍の希望を奪われた足利義視は、はじめこそ義政に協力する形で東西両軍の和睦に奔走していました。しかし義政の側近によって義視の立場は徐々に危うくなってしまうのです。すると義視は、宗全の誘いに応じて西軍に寝返り。義政も義視を賊だとみなし、攻撃するように命じるようになるのです。

次に、宗全や勝元に誘われた守護たちは、それぞれがお家騒動や領地争いを抱えている身であり、自分が領地を留守にしている間に騒動が余計複雑になったり、同じく京にいる敵に領地を攻められたりしていました。本当は帰りたいけど仇が目の前に……というジレンマで、後に引けなくなっていたのです。

さらに1473年、乱の首謀者であった山名宗全と細川勝元が相次いで病死します。すぐに両家の後継者同士で和睦が進められたので、この時点で戦をやめればよかったのですが、和睦反対派が大勢いました。特に西軍の事実上の総大将になった大内政弘は義視を自邸に匿い、戦を続行する姿勢を見せました。 

同じ頃、将軍家では義政が正式に義尚に家督を譲ることを決めて隠居します。これによって次期将軍は正式に義尚に決定し、将軍家の後継者争いは終わります。義視も早々に富子を通じて義政と和睦しようとしていました。この流れに続いて、戦闘をやめて帰国する守護がやっと現れはじめます。

ところが大内政弘だけは、依然として勝元の息子・政元と戦いを続行していました。大内氏は代々細川氏に邪魔ばかりされてきたので退くに退けず、また手ぶらで帰ってしまっては自分の地位が危機にさらされる可能性があったためです。しかし大将の義視が義政に臣従する意思を示すと、政弘もついには戦う意味を失います。

最後は富子が朝廷に働きかけ、政弘の領国と官職をそのままにし、生きて帰ることを許可します。こうして政弘は誇りを守ったまま領国に帰ることができました。これに合わせて残った西軍が一斉に撤退。応仁の乱はようやく終わりを告げたのです。

この乱をきっかけに、日本各地で戦乱が恒常化するようになります。各地で守護同士の利害がぶつかり合い、権威を失った国主が家臣に殺されるなど、下克上が当たり前の時代になっていくのです。

一方、京の都でも将軍家と管領細川氏の対立が徐々に鮮明になっていき、ついには将軍家が細川氏の家督争いの道具にされるという事態に陥ります。こうして、わずかに残っていた将軍家の実権は完全に失われました。

ここから日本は、100年以上も続く戦国時代に突入するのです。

応仁の乱研究の最新版!必見の一冊

応仁の乱をはじめとする室町時代は、戦国や幕末に比べるとあまり人気がないとするのが一般的な評価でした。しかし本作はそんなイメージを覆し、2017年9月現在で約30万部を突破する大ヒットとなりました。

常に不安定だった時代背景と、100年以上続く戦乱の元凶ともいえるもやもやの正体は何だったのか?それを平易な文章ながらも、学術者としての確かな見識に基づいた分析で解く歴史新書です。

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

2016年10月19日
呉座勇一
中央公論新社

応仁の乱からは、現代日本にも通じる先行きの不透明さや、勝敗さえもはっきりしないグダグダぶりを学ぶことができます。日本史上これほどの大失敗から学ぶことは、英雄の成功エピソードよりも遥かに多いと著者は主張します。

元は単なる小競り合いに過ぎなかった家督争いが、どうして日本全土に広がることになったのか。その答えを引き出してくれる本書は、長い平和で戦争の記憶を忘れかけている21世紀の人々にとっても必読でしょう。

図説を豊富に掲載した、応仁の乱ダイジェスト版

宝島社による歴史シリーズで、応仁の乱を取りあげたものです。読みやすくするためにビジュアルに注意を払った構成でありながら、細かなポイントの図説を添えることで、歴史マニアも楽しめる定番のシリーズとなっています。

ボリュームに優れているので、これ一冊あれば応仁の乱の概観は把握できるでしょう。

著者
清水克行ほか
出版日
2017-04-14

数多くの学説を載せているため、内容はやや一貫性に欠けているかもしれませんが、どのような事件であったのかを知るうえでは問題ありません。

本シリーズはビジュアルや話題性を重視した構成となっているため、大河ドラマの予習復習や、教養として読みたい読者に特におすすめです。学術書というよりも雑誌に近く、気軽に手に取れるため、複雑な歴史の面白さを知るために有用な一冊です。

応仁の乱の発端となった山名家と細川家の歴史

宗全と勝元。一時は共闘し、ともに利権の拡大を図った両雄は、どうして日本中を巻き込む騒動の主になってしまったのでしょうか?

武勇の宗全と謀略の勝元、積み重なる矛盾、将軍義政の後継者争いよりもはるかに重要だった2人の動向について、新たな発見を目指した作品です。

著者
小川信
出版日
2013-10-09

地方の雄的存在だった宗全と、背後から人を操って世を動かした勝元。彼らは幕府や天皇への忠誠心などはまったく無く、ただただ己の勢力拡大に力を注ぐ中世的な武士に過ぎませんでした。

こうした存在を生んだのは、室町時代の不安定な政治構造と、領主が増えすぎたことによる土地の利権争いが原因でした。

秩序の崩壊と、戦国時代、そして近世日本が誕生する前夜の長い戦乱を生み出した両雄の成り立ちと、彼らの結末を知るベースとなってくれるでしょう。

日本史上、これほどまでにややこしく、誰も良い思いをせず、良い反作用も何も生まなかった無益な戦争は、応仁の乱をおいて他にはありません。平和を謳歌する現代社会も、当時のような危ういバランスのうえに成立しているのではないでしょうか。

数々の場で取りあげられる「戦国時代」はどのように到来したのか、そして戦乱のなかで新たに必要とされたのは何なのか?それを知るうえで応仁の乱は非常に学びが大きい事件です。