作家の中にはさまざまな経歴をもつ人があり、特に経験してきた職業が作品群に大きな影響を及ぼすことは想像に難くありません。 今回ご紹介する帚木蓬生は、精神科医として勤務しながら執筆活動を行ってきた作家です。 医師の経験ということから、難解な専門知識を駆使した物語を得意としているのかと思いきや、さにあらず。彼が描き出すのは医師としての知識そのものではなく、医療を通じて見た「人への慈しみ」の姿です。 そんな本職の精神科医が描く、珠玉の人間ドラマ5作品をお届けします。
第二次世界大戦前夜、日本からアドルフ・ヒトラーに向けて一組の剣道防具が贈られました。
通訳としてその贈呈式に立ち会った日独ハーフの若き陸軍将校・香田光彦は、やがてベルリン駐在武官の補佐官として、戦争へと突き進んでいく世界の姿を目の当たりにすることとなります。
文化交流の一環として武道の演武を行ったことからヒトラーの目に留まった香田は、やがてナチスドイツと深く関わらなくてはならない運命に巻き込まれていきます。
主人公の青年将校・香田を特徴づけるのはドイツ人と日本人両方の血を引いているという点です。前者の象徴としては、ネイティブが驚くほど正確で流暢なドイツ語、そして後者を象徴するのは剣道と居合道という日本の「武道」です。
香田の精神的な土壌にこの武道文化が大きく影響しており、心の拠り所として重要な位置を占めています。そんな「サムライ」としての姿がドイツ軍人の心を打ち、それがために香田を過酷な運命へと引き込んでしまうのです。
- 著者
- 帚木 蓬生
- 出版日
- 1999-04-26
当初の彼はヒトラーの持つ神秘的なカリスマに魅了されますが、社会的弱者を省みず、徹底した人種差別を断行するナチスの政策に徐々に不信感を募らせるようになります。そして戦争へと突入していくドイツと、それに寄り添う形で世界から孤立していく祖国・日本。外交官として、軍人として、香田は己の無力に煩悶します。
やがて激化する戦いの中、次々と訪れる愛おしい人たちとの別れ。ひと時の恋も、友人たちとの語らいも、戦争という惨劇に引き裂かれていきます。終末のその時、香田は一人の人間として、どんな選択をするのか?そして香田は「ヒトラーの防具」の本当の意味を知ることになります。
丁寧に史実を追いながらも、大胆なフィクションと衝撃の結末を巧みに融合させた名作。狂っていく時代の中で、最後まで人間であり続ける強さをもった人たちの物語です。
第二次大戦中、朝鮮半島から日本へと強制労働に動員された男、河時根(ハー・シグン)の回想として描かれる物語。タイトルのとおり、男は三たび、海峡を渡ります。一度目は過酷な運命に翻弄されるようにして、二度目はその運命に抗うようにして、そして三度目は老年期に至り、ある目的を胸に秘めて自らの意思で――。
大戦中の強制労働、そして戦争という狂気がごく普通の人たちに及ぼした暗い影、立ち場を越えて惹かれあう人間の絆などを真摯な筆致で描いた作品です。
- 著者
- 帚木 蓬生
- 出版日
- 1995-07-28
作中では「同胞」が必ずしも味方ではなく、敵であるはずの日本人皆を憎悪するわけではない、という複雑な人間関係が労を惜しむことなく描写されています。また、主人公がもつ日本と祖国への複雑な感情を描き出すのに一役買っているのが、それぞれの国の料理です。
主人公の時根が「淡白で微妙」と感じる日本料理の味は、日本に対する払拭できない感情をそのまま表しているかのようです。対して、素朴でありふれた料理であっても祖国の味わいの思い出が、強烈な郷愁のシンボルとして描かれています。
やがて時根が直面する、恩人である同胞の悲劇的な死や日本人女性との悲恋、そして真に憎むべき相手との邂逅。彼にとっての「本当の敵」とは誰だったのでしょうか。
ミステリー仕立ての構成も巧妙な作品です。
中世に横行したキリスト教の「異端審問」。日本人歴史学者・須貝が南フランスの図書館で発見したのは、十字軍の攻撃を受けて滅んだ「カタリ派」に関する古文書でした。その謎を読み解いていくうちに、カタリ派がたどった凄惨な運命が明らかになり、須貝らは宗教史の闇に直面することとなります。
そして暗号解読の進展に比例するように、次々と奇怪な殺人事件が起こります。やがてその火の粉は須貝らにも降り注ぐのですが……。
- 著者
- 帚木 蓬生
- 出版日
- 2009-12-24
異端審問という重い主題を選びつつも、それそのものを掘り下げるのが目的ではありません。人間の心の闇と、繰り返す愚かしい所業に対する警鐘こそが本作の主題です。タブーの多い宗教というテーマを扱いながらも、ここでは須貝という宗教的にも歴史的にも制約を受けない、いわば第三者が主体となることで、ある種の公正さを保つことに成功しています。
歴史の禁忌から目を逸らすのではなく、史実を直視して過去の出来事にスポットライトを当てるという、歴史家の視点をもった意欲作です。
老人専門のある痴呆病棟で勤務する新任の女性看護士の視点で物語は進行します。何気なく生活しているだけでは決して分からない、想像をはるかに超えた不思議な症状を抱える患者たちとの日々が、やわらかく丁寧に描かれます。
医療の専門家として著者の本領発揮というシーンが続きますが、あくまでも患者の側に寄り添った、あたたかな視点が崩れないことに、感銘を覚えます。
- 著者
- 帚木 蓬生
- 出版日
- 2001-09-28
この作品に緊張感を与えているのは、主人公の看護士と彼女が慕う医師との、医療行為をテーマにした議論です。プライベートな付き合いにおける会話も含め、終末医療への世界各国の取り組みや考え方が、それとなく読者に伝わるよう工夫されているのです。
淡々と過ぎていくかのように見えた日々ですが、やがて患者が次々と急死していきます。主人公がその謎に気が付いたとき、読者も「終末期医療」の命題と否応なく向き合うこととなるでしょう。
最後の最後で仕掛けられたミステリーとしての展開が意表を突く、巧妙な医療小説です。
奈良時代の一大国家プロジェクト「大仏造立」。この大事業を成すために、全国からあまたの人々が都へと呼び集められました。長門の国の銅鉱山で働く国人(くにと)は、やがて大仏を造営するための作業員として奈良の都へと召集されます。
しかし、当時の動員は、行けば無事に故郷へ帰れる保証のない、危険な旅でもありました。本作はそんな歴史に名すら残らない、市井の一個人の生涯にスポットライトを当て、その目を通した人と人の絆を描いています。
- 著者
- 帚木 蓬生
- 出版日
国人は故郷で培った薬草の知識を活かし、奈良の都で様々な人たちと心を通わせていきます。過酷な作業で一人、また一人と失われていく仲間たち。望郷の念に突き動かされながらも、どうしようもなく心惹かれる奈良の恋人。やがて光り輝く大仏が出来上がり、すべての務めから解放された国人はどんな生き方を選ぶのでしょうか――。
「古代のプロジェクトX」に懸けた青春を描く歴史ロマンです。
帚木蓬生作品に共通しているのは、冷静な「観察者」の目をもった人物が歴史の別角度を読者に語りかけるという構成です。その立場は歴史の勝者でもなく、また有名な人物でもありません。多くの読者と同じように、健全な感覚で弱者の側から世界を見ることのできる、揺るぎのない公平な視点を持ち続けるごく普通の人間なのです。
これは作者自身が持っている、人間そのものへの「慈愛」が形になってあらわれたもののように思えてなりません。
「真理は常に、弱者の側に宿る」。
『ヒトラーの防具』で語られる、この名言をご紹介します。これこそが精神科医として、作家として、そして人間としての帚木蓬生がもつ信念なのではないでしょうか。