5分でわかるアヘン戦争!概要と原因、南京条約などをわかりやすく解説!

更新:2021.11.11

麻薬ビジネスのせいで関係がこじれた結果、国同士の戦争になってしまったケースが過去にありました。代表的なものが、イギリスと中国の清による「アヘン戦争」です。今回は、この戦争の概要、背景と原因、終戦の際に結ばれた南京条約などをわかりやすく解説し、さらにおすすめの関連本もご紹介します。

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アヘン戦争とは?簡単に説明

1840年から1842年までイギリスと清の間で起こった戦争を「アヘン戦争」といいます。

「アヘン」は2018年現在もメジャーな麻薬のひとつで、特に19世紀は、「麻薬といえばアヘン」というほど広く流通していました。

当時の清では、イギリスから密輸されたアヘンのせいで中毒者が増加し、社会問題となっていました。中国国内では隠れてアヘンを吸うための「アヘン窟」という施設が農村部に多く存在していたようです。

大臣のひとりだった林則徐(りんそくじょ)という人物がこれを重く見て、清にはびこっていたアヘンの取り締まりを徹底的におこなったことから、イギリスの怒りを買うことになります。

戦いに発展し、旧式の装備しか持たない清は、当時最強と呼ばれていたイギリス海軍に惨敗。「南京条約」を締結することになりました。

アヘン戦争の概要

1839年、林則徐のアヘン取り締まりが激しくなってくると、広東に在住していたイギリス外交官のチャールズ・エリオットは、広東在住の全イギリス人を連れてマカオに退去します。

すると林則徐はマカオを武力封鎖、彼らを締め出そうとしました。それに不快感を示したエリオットは応援を要求。1840年、イギリス側は陸軍・海軍を集結させ、天津沖に進軍、舟山諸島を占領します。

一方で清の道光帝は、開戦のきっかけとなった林則徐を解任し、イギリスと和平派だったキシャンを後任にあて交渉させます。

川鼻条約という、南京条約よりも清に好意的な内容の条約の締結に向けて事態は収束するかと思われましたが、清国内で応戦派が再び勢力を増し、交渉は決裂に終わりました。キシャンは解任され、イギリス側も戦闘を再開します。

1841年にイギリス軍が廈門(あもい)、舟山(しゅうざん)、寧波(ねいは)と広州半島の主要都市を占領。その翌年には上海と北京への補給路である鎮江を陥落させています。北京の喉元にも迫る状態で、負けを悟った清は、イギリス艦コーンウォリス上にて南京条約を締結しました。

アヘン戦争が起きた背景と原因は?

1:背景

康熙帝、雍正帝、乾隆帝という3人の皇帝が統治していた頃、清は最盛期ともいえる時代を築きました。しかし、彼らの後はどうもピリッとしない皇帝が続きます。アヘン戦争が起こる20年前に即位した道光帝の時代は、その繁栄はもはや見る影もありません。

一方イギリスは、インドから密輸したアヘンを中国で密売し、巨額の富を得ていました。自国で生産した絹織物をインドに売り、インドに作らせたアヘンを清へ売り、清からは茶葉を買うという「三角貿易」といわれるシステムです。

この取引は銀でおこなわれており、少しでも銀の流出を少しでもカバーしようと、アヘンを密売していたのです。

2:原因

アヘン戦争が起こった直接の原因は、林則徐の厳格なまでの取り締まりです。販売していた者を容赦なく処罰し、発見したアヘンは焼却処分をしたうえに、その灰に石灰を撒いて毒性や臭いを消すなど、かなりの徹底ぶりです。

それだけではなく、アヘンをもたらしたイギリス人も容赦なく締め出しました。イギリス船員による現地人殺害を理由に、井戸に毒を撒くという過激な方法でマカオからイギリス人を追放しています。

無論これは、「薬物の強制処分」という行為ではあるのですが、これに猛反発して武力報復をしようとしたのがイギリスでした。

イギリスからしてみれば、商品を燃やされたうえに清とのビジネスから追放された形です。議会では、アヘン密輸よりも中国から締め出されたことがクローズアップされ、中国への軍事報復が決定されました。

アヘン戦争の結末。清とイギリスは「南京条約」の締結へ。

道光帝は、鎮江がイギリスによって陥落したころから自国の敗北を悟っていました。そこで、耆英(きえい)という人物にイギリスとの講和の全権を委任します。

イギリスの司令官ポッティンジャーは「もし皇帝が譲歩しなかったら、兵站を開いて他の地域にも侵攻できる用意がある」とし、道光帝は降伏を決断します。

そこでイギリスとは不平等条約である南京条約を、この流れにつけこんだアメリカとは望厦(ぼうか)条約、フランスとは黄埔(こうほ)条約をそれぞれ締結することになりました。

南京条約とは?詳しく紹介

アヘン戦争の終戦条約が、南京条約です。大まかな内容は以下のとおりです。

 

  • 香港をイギリスに譲渡すること
     
  • 広州、廈門(あもい)、上海、福州、寧波の開港すること
     
  • 対外貿易を独占していた公行を廃止し、貿易を自由化すること
     
  • イギリスへ賠償金を支払うこと
     

 

特に2と3について、清は「開国」させられたわけですが、もうひとつ、南京条約のおまけとして虎門塞追加条約が締結されています。南京条約が不平等条約と言われているのは、このためです。

 不平等条約の基本元素ともいえる

1:治外法権(領事裁判権)

イギリス人が清で犯罪を犯しても、清の法律で裁けなくなる。

2:関税自主権の撤廃

清側が関税をかける権利がなくなる。

3:片務的最恵国待遇

清はイギリスとの貿易で最大限の配慮をしなければならなくなる。

この虎門塞追加条約によって、清はイギリスから文字どおり搾り取られる結果となります。

アヘン戦争のその後。清は「アロー戦争」へ。日本は鎖国体制の解除へ。

アヘン戦争後の清は、とにかく混沌とします。

1851年に洪秀全が「太平天国の乱」を起こし、南京を占領するまでの勢力を誇ります。清はこの乱を平定しようにも、軍隊が貴族化していたため役に立たず、独立を許してしまう失態を犯しました。太平天国の乱は結局、アメリカとイギリスによる傭兵団によって鎮圧され、清の軍隊は最後まで活躍することができませんでした。

1856年には、イギリス船籍のアロー号を不当拿捕したとイギリスから因縁をつけられ「アロー戦争」に発展し、多額の賠償金を支払わされる事態になりました。

その後、内乱や列強の侵略によって中華のプライドを打ち砕かれたのか、李鴻章という人物が西洋の力を利用して国力強化を図る、洋務運動を実施します。

余談ですが、日本もアヘン戦争の影響を強く受けました。隣国の清がイギリスに惨敗し、圧倒的に不利な条約を結ばされたことは、日本がこれまでとっていた鎖国方針を揺るがしかねない事態だったのです。

これまでの外国船を容赦なく撃沈させる異国船打払令を撤回し、燃料と水を与えて帰国させる薪水給与令を出すことにし、鎖国政策を緩和せざるを得ないほどの衝撃でした。

アヘン戦争をわかりやすくまとめた本

アヘン戦争が起こる前と戦争中の出来事をわかりやすくまとめた書籍です。

イギリスがなぜ麻薬であるアヘンを中国に売りつけたのか、アヘン戦争の経過、林則徐とはどんな人物か、といった気になる諸事を詳しく説明してくれます。

著者
陳 舜臣
出版日
1985-03-10

著者によれば、アヘンは当時世界的に蔓延していており、西洋人にとってアルコールが合うように、東洋人(中国大陸の人々)にはアヘンとの相性が良かったことが密売につながったようです。

清がアヘン戦争の前から衰退の一途をたどっていて、イギリスがアヘンの商売を認めさせるために戦争を起こした、という説にも注目です。

清の敗因は?

道光帝や林則徐の記述を中心に、当時の清国内の情勢が詳しく書かれています。アヘン戦争の敗因には、清の内部で人心腐敗が進んでいたことや、中華思想によって朝貢以外の外交手段を拒否したことが挙げられています。

著者
別宮 暖朗
出版日
2008-03-10

この書籍を見る限り、中国は負けるべくして負けたようです。その敗因を「イギリスの圧倒的な海軍力によるものだけなのか?」と疑問をもった時、本書は別の側面を教えてくれるでしょう。

小説で読むアヘン戦争。林則徐の物語

アヘン戦争が起きる少し前の広州を舞台に、林則徐らが清の激動の時代を生き抜く姿を描いた小説です。
 

著者
陳 舜臣
出版日
1973-08-15

連維材という実在しない人物と、林則徐やイギリス側の軍人であるネーピアといった実在する人物が登場します。

イギリス側の資料や林則徐の日記を提示するなど、とフィクションでありながらリアリティを演出しているところにも注目です。

アヘン戦争は、薬物の裏取引が原因で起こった異質な戦争でした。利益追求のためにイギリスが麻薬を密売し、中毒者が増えてしまったことで清の国政の腐敗にさらに拍車をかけてしまったと見ることもできます。歴史の見方は人それぞれですが、これらの本がアヘン戦争について考える入り口を提供できるのならば幸いです。

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