大竹文雄が紹介する行動経済学 - 基本から応用まで

2017年のノーベル経済学賞

2017年のノーベル経済学賞は、シカゴ大学のリチャード・セイラー教授に授与された。行動経済学という新しい経済学の学問分野を創設し発展させることに多大な貢献をしたことがセイラー教授の受賞理由だ。行動経済学分野でのノーベル賞は、2002年の行動経済学の創設者と言えるダニエル・カーネマン教授、2013年の行動ファイナンスのロバート・シラー教授に続いての受賞だと言える。


行動経済学は、伝統的な経済学とどう違うのだろう。伝統的な経済学では、人々は非常に合理的で、素晴らしい計算力をもっており、自分の利益のみを考えて行動する人々を前提にして、経済の動きを説明してきた。もちろん、現実の人間は、それほど合理的でも計算力が高いわけでもない。それでも、非合理な経済取引行動をしている人がいたとしても、合理的な人がいれば非合理な人と取引することで利益が得られるので、経済全体の動きは合理的な人が決めていると考えても大きな間違いではないというのが理由だ。

また、伝統的経済学において利己的な人を想定するのは、現実に人々が利己的だからというよりは、仮に利己的な人ばかりであったとしても、自由な市場での取引があれば、見えざる手によって社会全体の効率性が高くなるという意外な結果が導かれることが重要な理由だ。人々は利己的に振る舞うべきだとか、人間は利己的だ、ということを主張しているわけではない。ただ、人間は利己的で、合理的で、計算能力が高いという前提をおけば、経済の動きをかなりうまく説明できたのだ。伝統的経済学は、このような人間像をホモエコノミカスと呼んできた。

もう一つ、伝統的経済学で重視されてきたのは、人間の好みは安定的だというものだ。Bという選択肢よりAという選択肢の方が好きだと言っていた人は、無関係な選択肢Cが提示されようが、選択肢Aを手にしてからもその好みの程度は変わらないと考えられていた。

行動経済学の始まり

ところが、このようなホモエコノミカスという人間像が多数の人間にはあてはまらないだけではなく、人間の意思決定には合理的決定から系統的な"ずれ"があることが実験研究や実証分析から明らかにされてきた。そこから行動経済学が始まった。

ノーベル賞受賞が確実視されていたが受賞前に死去したエイモス・トベルスキー教授とカーネマン教授の貢献である。

彼らは、人間の行動特性は伝統的経済学の想定とは系統的に"ずれ"が生じていることを多くの実験で明らかにし、それを経済学者にも理解可能な形で発表したのだ。今年のノーベル賞受賞者のセイラー教授は、様々な経済学の分野で伝統的経済学では説明できない現象をアノマリーと呼んで、アノマリーの例を、Journal of Economic Perspectives という経済学の学術専門雑誌に連載して解説した。この連載は、非常に好評で一冊の本としてまとめられた。日本語訳が『セイラー教授の行動経済学入門』として出版されている。

著者
リチャード・セイラー
出版日
2007-10-27

しかし、行動経済学のこうした批判に、伝統的経済学者は当然黙っていない。セイラー教授は、その頃の伝統的経済学者からの行動経済学への凄まじい批判を「棒打ち刑」を受けた、と表現している。当時の様子は『行動経済学の逆襲』に描かれている。新しい学問の創設者たちの苦労は並大抵のものではない。

そうした障害を乗り越えて、経済学の流れを変えることに大きく貢献したセイラー教授にノーベル経済学賞が授与されるのは当然だろう。

著者
リチャード・セイラー
出版日
2016-07-22

伝統的経済学では説明できないように見える現象でも、よく考えれば、伝統的経済学の枠組みで説明できるという批判について、著書の中でセイラー教授は、伝統的経済学者がアノマリーを説明する様子を、天動説で惑星の動きを説明する天文学者になぞらえている。

天動説では、惑星も恒星もすべて地球の周りを回っていると考えられていた。しかし、恒星とは異なって複雑な動きをする惑星を天動説で説明するには、一工夫が必要だ。そこで、天動説では、地球の周りを回転する大きな円の円周に中心をもって回転している小さな円である「周天円」上を惑星は回っている、という説明をしていたのだ。

そんな複雑な説明をしなくても、太陽を中心に地球が回っている、という地動説で説明する方が真実で説明も簡単だ。伝統的経済学者もアノマリーを「経済学版周天円」で説明しようとしたのだと言える。


このような伝統的経済学の批判に対し、多くの実験結果、現実の経済データをもとにセイラー教授らが説得を続けた結果、現在では代表的な経済学の教科書にも行動経済学が取り入れられ、最新の学術雑誌には行動経済学的な論文が毎号のように掲載されるようになってきた。経済学におけるパラダイムシフトを引き起こしたのだ。そうした状況を反映したのが今年のノーベル賞経済学賞の受賞なのだ。

ヒューマンの特徴

セイラー教授は、伝統的経済学の人間像であるホモエコノミカスをエコンと呼び、行動経済学で対象とする現実的な人間像をヒューマンと呼んでいる。では、行動経済学で研究対象とされているヒューマンの特徴はなんだろう。4つの特徴がある。


第1の特徴は、損失回避である。誰でも損失を嫌うのは当然だけれども、利得からの喜びに対して、損失を嫌う程度が非常に大きいという特性だ。1万円をもらった後、1万円を失くしたことを考えよう。1万円をもらう前と比べれば1万円を失っても損得はないので、嬉しくも悲しくもないはずだ。しかし、多くの人は、1万円をもらった後の損失を、1万円をもらったときの利得よりも大きく感じるので、1万円をもらう前よりも1万円を失った後の方が不幸に感じる。

実際、多くの実験結果は損失の悲しさは、同額の利得の嬉しさの2倍から2.5倍だと計測されている。私たちは、今までの自分の所得水準、目標とする所得、自分が比較対象とする人の所得などのなんらかの参照点からの差で嬉しさや悲しさを感じるのだ。

著者
ダニエル・カーネマン
出版日
2014-06-20

第2の特徴は、現在バイアスである。私たちは、将来よりも現在のことを重視する。しかし、将来のことを全く考えていないというわけではない。健康に気をつけようと思って、ダイエットを計画したり、スポーツジムに行くという計画を立てたりすることはできる。しかし、実際にダイエットを始める時には、目の前のデザートを我慢することができないで、ダイエットを先延ばししてしまう。このように、計画を立てるのに先延ばししてしまうという意思決定の変更がヒューマンの特徴で、現在バイアスと呼ばれている。

第3の特徴は、社会的選好である。エコンは自分のことしか考えないという利己的人間なのに対して、ヒューマンは他人のことを考えたり、互恵性をもったり、不平等を嫌ったりする。他人の所得が非常に高かったり、低かったりすることは、自分の生活水準が同じであっても、満足度が異なってくる。

第4の特徴は、限定合理性だ。私たちは食費と娯楽費を分けて考えたり、1日単位で損得を考えたりする。これは、メンタルアカウンティングと呼ばれるものだ。他にも意味のない数字を最初に与えられるとそれを手がかりに物事を判断してしまうというアンカリング効果、松竹梅の3つの選択肢があると真ん中のものを選んでしまう極端性回避がよく知られている。さらに、物事を判断する際に統計的な推測ではなく、代表的なものや思いつきやすいもので判断してしまうという特性もある。

著者
マイケル ルイス
出版日
2017-07-14

これらの行動経済学的特性を豊富な例に基づいて説明しているのが、ダニエル・カーネマン著『ファスト&スロー(上、下)』(早川書房、2014)である。行動経済学で知られているバイアスがどのようにして定式化されていったのかを、行動経済学の創設者自らの素晴らしい文章で読むことができる。

また、カーネマンとトバルスキーという2人の心理学者がどのようにして行動経済学を作りあげていったのかという物語は、マイケル・ルイス著『かくて行動経済学は生まれり』(文藝春秋、2017)で見事に描かれている。

行動経済学の実用化

行動経済学は、私たちの生活をよりよくすることに使うことができる。なぜならヒューマンは、必ずしもいつも最適な選択をしているわけではないからだ。行動経済学をうまく使うと、私たちの選択の自由を維持したまま、私たち自身はよりよい選択ができるようになる。それが、セイラー教授が唱えるナッジという考え方だ。

選択肢の文章やデザインを変えてみるだけで、私たちは望ましい意思決定や行動をする可能性が高くなる。そのような仕組みを企業年金や健康促進に使っていくことができるのだ。リチャード・セイラー 、キャス・サンスティーン 著『実践 行動経済学』には、具体的な行動経済学の実際への応用例が豊富に紹介されている。セイラー教授がノーベル賞を受賞した理由の一つは、行動経済学を実社会に応用していったという貢献も大きい。

著者
リチャード・セイラー キャス・サンスティーン
出版日
2009-07-09

行動経済学を学びたい人に

行動経済学を学びたい人が読むべき教科書としては、新書として友野典男著『行動経済学 経済は「感情」で動いている』(光文社新書、2006)および多田洋介著『行動経済学入門』(日経文庫、2014)が手軽である。説明が丁寧なのは、筒井義郎、佐々木俊一郎、山根承子、グレッグ・マルデワ著『行動経済学』(東洋経済新報社、2017)である。

著者
友野 典男
出版日
2006-05-17

行動経済学の啓蒙書として忘れてはならないのが、ダン・アリエリー著『予想どおりに不合理』(早川書房、2013)をはじめとする、アリエリー教授の一連の著作である。ナッジという考え方は、デザインで人によりよい行動をさせるという大阪大学の松村真宏教授が提唱する仕掛学という考え方とも共通するところが多い。

松村真宏著『仕掛学』(東洋経済新報社,2016)には、そうしたデザインの例が紹介されている。行動経済の日本社会における様々な事例については、大竹文雄著『競争社会の歩き方』(中公新書、2017)にわかりやすく説明したので、お読み頂ければ幸いである。

著者
大竹 文雄
出版日
2017-08-18
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