千年の時を遡る日本。そこには今と変わらない男女の複雑な色恋がありました。思いどおりにいかない夫婦生活、葛藤、美しい和歌とともに綴られる蜻蛉日記の魅力は、時代を超えて人の心を打つ言葉の数々です。関連書籍も含めてご紹介しましょう。
時代は平安時代中期、大陸文化に憧れていた日本ですが、独自の文化を見直そうと仮名文字の使用が広まるようになっていました。
丸みを帯びた仮名はとくに女性のイメージに近く、女流の日記に続々と使われるようになります。その最初の作品とわれているのが「蜻蛉日記」です。
作者は藤原道綱の母、名前は明らかになっていません。上中下の3巻からなり、主な登場人物は作者本人とその夫、藤原兼家です。
作者は文才と歌才に優れているだけでなく、才色兼備で、男性からの人気もかなり高かったようです。自分に惚れた男の滑稽さを静かに笑いながらも、そのなかでもっとも熱心だった兼家と結婚しました。
ところが、彼はどうしようもない浮気者。やがて作者は、家に帰らなくなった夫への嫉妬や、愛人女性に対する怒り、それでも変わらぬ息子への愛などを募らせていきます。
夫婦と家族の物語を和歌で綴る、女流日記文学の最高峰、それが蜻蛉日記です。
本作の優れた作品力は、冒頭から発揮されます。どんな文学作品も掴みが大切。本作はページをめくった瞬間から、男女関係に悩む人々の心を掴んで離さないことでしょう。
「かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経ふ人ありけり」
時は淡々と過ぎ、世の中は相変わらず頼りなく、拠り所もなく、自分はただ暮らす人である、と始まります。
この気だるい鬱々とした書き出しは、現代にも通ずるところがあるでしょう。結婚したものの、毎日同じようなことのくり返しで、夫の愛も感じられず、ただ生きているだけ……このような少しグチっぽい文は、現代でもSNSなどで多くの女性が発信していることです。
作者の藤原道綱の母は、男女の永遠のテーマともいえる嫉妬や、すれ違う愛への苦悩を、類まれなる文才で綴りました。
満たされない思いを吐き出す場として、蜻蛉日記は書かれたと考えられます。平安時代にSNSがあれば、たくさんの「いいね!」が押されていたかもしれません。
蜻蛉日記は非常にモテた作者の若い頃から、結婚、そしてひとり残されることが増える寂しい夫婦生活へと展開していきます。
当時、男女の関係は現代のように平等という捉え方はされていなかったはず。とくに身分が高い夫と夫婦になった作者は、自分の気持ちを表現できずに我慢することが多かったことでしょう。しかし、おしとやかな外面とは裏腹に、鋭い観察眼を持っていました。
浮気夫の言葉のひとつひとつが、本心ではなく何か誤魔化そうとしていることなどはお見通しです。夫への嫉妬、許しがたい不貞に対する思いが、赤裸々に綴られていきます。
作者は家柄のよい環境で、現実の厳しさから隔離され、大切に育てられました。結婚も親の意のままです。だからこそ、ぞんざいな扱いを受けることに慣れていなかったことでしょう。
女心をむき出しにして書き留められていく蜻蛉日記ですが、そこにはグチや憎しみだけが込められているわけではありません。日を追うごとに女性として成長していくさまも感じられます。
女性の葛藤と成長、そして男の狡さと弱さを垣間見ることができます。
小説のように物語を追うだけでも大変魅力的な蜻蛉日記ですが、なんといっても秀逸なのが、百人一首にもなっている和歌の数々です。
短いフレーズに複雑な感情が織り交ぜられる、洗練された言葉選びのセンスの一部をご紹介しましょう。
「嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る」
あなたがいないことを嘆きながら、ひとり夜を過ごして明けるまでの時間は、どれだけ長いものかおわかりですか?わからないでしょうね。
百人一首になったもっともポピュラーな歌です。
ここからは、結婚前の夫とのやりとりの和歌を紹介します。
「鹿の音も聞こえぬ里に住みながら あやしくあはぬ目をも見るかな」
鹿の鳴き声も聞こえないような都に住みながら、不思議に眠れない、あなたの目を見れない、逢えないからです。この歌に対する返事が以下となります。
「高砂のをのへわたりに住まふとも しかさめぬべき目とは聞かぬを」
鹿の多い高砂の山に住んでいても、そんなふうに目が覚めるとは聞きません。不思議ですね。
恋の駆け引きが和歌で綴られるというのは、現代文学では味わえない独特の感動を生み出してくれるでしょう。
知れば知るほどその魅力と面白さが分かっていく蜻蛉日記ですが、やはり古典ということもあり、ハードルが高い部分もあります。当時の文体をそのまま読むにはある程度の知識が必要になるでしょう。
そこでおすすめなのがこの一冊です。
- 著者
- 出版日
- 2002-01-01
現代語訳を中心に書かれているので、専門的な古典の文法知識などは必要ありません。現代文学を読むような感覚で、登場人物たちに感情移入できるでしょう。
古典の世界への入口となるビギナー本としては外せない一冊です。
古典はあまりにも時代を遡るため、リアリティという面をカバーしきれない部分があります。
漫画であれば、想像と同時に視覚的情報を補うことができるので、臨場感を持って、その時代への脳内タイムトラベルが可能です。
- 著者
- ["羽崎 やすみ", "菅原孝標女", "藤原道綱母"]
- 出版日
- 2006-03-01
古典を学ぶ受験生などにも定評のある一冊です。
試験勉強中に恋愛のことを考えるなんて、本来は好ましくないことかもしれません。しかし、少女コミックのような美しい装丁の本書は、気楽に色恋の物語に浸りながら同時に古典を学ぶことができます。
大人にとっても十分読みごたえのある内容です。
作家として、元住職として、また人生相談のエキスパートとして有名なのが瀬戸内寂聴です。
彼女の人生観とともに綴られる、蜻蛉日記へのラブレターのような一冊。ぜひ蜻蛉日記の本編、原文を大まかにでも知ったうえで手にすることをおすすめします。
- 著者
- 瀬戸内 寂聴
- 出版日
- 2012-11-20
寂聴が完訳した「源氏物語」は一時期古典のブームを巻き起こしました。蜻蛉日記は源氏物語に繋がる部分も大変多い作品です。
男女の人生物語のプロともいえる寂聴が解説する本書は、あなたの共感をより深め、わからない部分を掘り下げ、そして蜻蛉日記の新しい楽しみ方を教えてくれることでしょう。
男女関係に悩むとき、あなたを苦しめるのは孤独という面もあるのではないでしょうか。時を超えて、いつの時代も同じ悩みを持つ者がいることを知れば、明日からも頑張って生きようと思えるかもしれません。