第二次世界大戦が終結した直後、ソビエト連邦に捕縛された日本人が労働を強いられた「シベリア抑留(よくりゅう)」。地獄のような日々だというその概要や、起こった理由、当時の生活、生存者や帰還者などについてわかりやすく解説していきます。あわせて体験記などの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。
シベリア抑留とは、第二次世界大戦終戦後、武装解除した日本兵が主にシベリアやモンゴルなどに作られた収容所に移送され、強制的に過酷な労働をさせられたことをいいます。なぜ多くの日本人が抑留されることになったのか、その経緯を見ていきましょう。
終戦直前の1945年8月9日、ソ連が日本に対して宣戦布告をし、満州や朝鮮半島の日本領へ侵攻を開始しました。その数日後である8月14日に、日本は降伏の意思を示します。
しかしその後もソ連の侵攻は止まらず、数日間続きました。脅威は樺太や千島列島にもおよび、これらの地域では日本兵がすでに武装解除しているにもかかわらず、軍人・民間人問わず多くの日本人が捕らえられ、ソ連の収容所に送られたのです。
これらの行為は「ポツダム宣言」に反するものでしたが、当時のソ連は主にドイツとの戦いで国全体が疲弊状態にありました。復興のための労働力が大きく欠如していて、敵国だった日本人やドイツ人を数百万人規模で捕縛し、劣悪な環境のなかで鉄道建設や土木作業、炭坑や鉱山での作業、農作業などさまざまな労働に強制的に従事させました。
満州や朝鮮半島、樺太、千島列島でソ連軍に降伏した日本人の多くは、「ダモイ(帰るぞ)」と言われて貨物車に乗せられました。しかしその行き先は日本ではなく、強制収容所だったのです。
マイナス30度にもなる極寒地で、彼らは十分な食事を与えられず栄養失調に陥る者が続出しました。固い黒パンやわずかに塩味のついたお粥、スープなど粗末なもので、過酷な労働を強いられている人にとってはとても足りません。
1尾の魚を数人で分けたり、木の皮を煮て食べたり、時には食料の奪いあいも起こるなど、筆舌に尽くしがたい状況を体験した人も少なくなかったのだそうです。
栄養状態が悪いことや住空間が不衛生だったことなどから、体にノミやシラミがわき、コレラや赤痢などの伝染病が蔓延したこともありました。また夏場に捕縛されたため、寒さの備えがない人がほとんどだったことも死者の増加に繋がったそうです。
抑留された日本人およそ57万5千人のうち、死者の数は5万5千人。およそ1割の人が劣悪な環境下で命を落としました。この人数については、戦後70年以上経っている現在もまだ正確な数字がわかっていません。
1945年8月の終戦時、アメリカ、オーストラリア、イギリス、中国なども含めると、海外にいた日本人の数はおよそ660万人といわれています。ポツダム宣言を受け入れ無条件降伏を決めた日本は、翌9月に降伏文書に調印し、これによって海外にいる日本人の一斉帰還がはじまりました。
アジア地域などからは順調に引きあげが進みましたが、シベリアだけは別。ソ連やモンゴルとの交渉がうまく進まず、帰還が進展しない状況にあったのです。
抑留者の引きあげがはじまったのは、終戦から1年以上が経過した1946年の12月から。最終的にはソ連との国交が回復する1956年までかかりました。50万人以上いるうち、帰還したのは47万人ほどだといわれています。
厚生労働省では、現ロシアから提供された資料などをもとに、抑留で亡くなった日本人の名簿の整理を続けています。失われた命や時間が戻るわけではありませんが、せめて亡くなった人すべての名前が判明し、全容が明らかになる日が来ることを願わずにはいられません。
無事に帰還した抑留者のなかには、有名人の名前もあります。
まず作曲家の吉田正。2000曲以上もの歌謡曲を作曲し、ムード歌謡の礎を築くなど日本歌謡史に無くてはならない人物です。戦中につくった曲が抑留者たちの間で広まったそうで、後に歌詞もつけられて1948年にレコード化されました。さらに1949年にはこの曲をモチーフにした映画「異国の丘」も公開しています。
歌手の三波春夫は、陸軍に入って満州にわたり、4年間シベリアに抑留されました。収容所では自慢のノドを活かして浪曲を披露していたそうです。
また、俳優の三橋達也、プロ野球読売巨人軍のトップ選手だった水原茂も抑留され、強制労働を経験しています。
第75代内閣総理大臣を務めた宇野宗佑もシベリア抑留を経験し、後に自身の経験を綴った手記『ダモイ・トウキョウ』を出版しました。
黒柳徹子の父親で、新交響楽団でコンサートマスターを務めるバイオリニストだった黒柳守綱は、満州へ出征し、戦後にシベリアに抑留されました。抑留中も音楽家としての活動を続け、日本人収容所を慰問にまわったこともあったそうです。
- 著者
- 山下 静夫
- 出版日
- 2007-07-01
およそ600ページにわたるボリュームで、辛く苦しい日々の記録が力強く繊細な絵と文字によって綴られた大著です。
作者の山下静夫は、4年間シベリアで過酷な労働を強いられた抑留者。戦後に生まれた自身の息子に経験を伝えたいと、辛い記憶を辿りながら筆をとりました。
過酷な労働、ロシア兵の執拗な監視、わずかな食事……劣悪な環境に生死をさまよう人々が描かれています。モノクロームの世界と淡々とした文章から、その悲惨さがひしひしと伝わってくるでしょう。目を覆いたくなるような出来事の連続です。
執筆したのは帰国してから20年以上経過してからとのことですが、そうは思えないほど鮮明に当時の様子がペン画で描かれており、まるで写真を見ているかのような感覚に陥ります。
作者の記憶であるとともに、貴重な歴史資料でもある本書。悲劇はくり返してはならないと訴えてくる一冊です。
- 著者
- 富田 武
- 出版日
- 2016-12-19
シベリア抑留はなぜ起きたのか、本書はソ連の近現代史という視点から、日本とドイツの捕虜たちが送った暮らしの全容を描いています。
シベリアだけでなく、満州や千島列島、朝鮮半島、モンゴルなど各地におかれた収容所についてもとりあげられていて、当時の抑留者たちがどんな生活を強いられていたか、あらためて知ることができる一冊です。
内容はやや難しく感じるかもしれませんが、その分読みごたえがあり、学ぶことも多いでしょう。体験記とは異なり客観的にシベリア抑留を記しているので、全容をより詳細に知りたい方におすすめです。
- 著者
- 栗原 俊雄
- 出版日
- 2009-09-18
戦後70年が経過し、約47万人の生存者が帰還して、過去の出来事として見られているシベリア抑留。しかしその裏には、劣悪な環境下で亡くなり、死後どこに埋葬されたのかもわからない人たちが多数いるのです。
本書は帰還した生存者たちの苦悩や、政府の補償なども含め、史料を紐解きながらこの一連の出来事を解説しています。
まだすべてが解決したわけではないと、あらためて考えさせてくれる一冊です。
長い間、シベリア抑留の辛く悲惨な体験を語る人は少なかったといいます。しかしなかには、悲劇をくり返さないために自身の体験を後世に残したいという思いから、手記や体験記を出版したり、講演をおこなう方もいるのです。ご紹介した本にはあまりの無残さに目を背けたくなる場面もありますが、日本人として事実を知り、平和とは何なのかあらためて考えるきっかけにしていただければと思います。