日本一有名な詩」ともいえる、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』。しかし、この有名な詩にモデルとされる人物がいたのはご存知でしょうか。「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」の「サウイフモノ」とはいったい誰のことだったのでしょうか。 理想と現実の狭間で「理想郷」を追い求め続けた賢治の、最後の作品に込められた本当の意味を考察していきます。
賢治は子どものころから詩や童話が好きで、小学校の成績は6年間すべて甲(今でいうオール5)の優等生でした。また、鉱物採集や昆虫標本作りに熱中し、このころから故郷の自然に特別な思い入れを持っていました。
- 著者
- 宮沢 賢治
- 出版日
- 1991-08-01
高等学校(現在の大学)卒業後は農学校の教師になります。このころ書いた童話『雪渡り』で、5円の原稿料をもらいますが、賢治が存命中に手にした原稿料はこの5円だけでした。その後も自費出版で詩集を刊行しますが、ほとんど売れることはなく、結局賢治の名は世間に知られることはなかったのです。
教師を辞めてからは、農業や、砕石工場の技師として仕事をしながら詩や童話を書きますが、体が丈夫ではなかったため、35歳の時高熱に倒れ、それ以降は療養生活を送ることになります。ほとんど寝たきりの生活の中なかでも、賢治は作詩やこれまでの作品の推敲に力を入れていました。
しかし37歳の時、弟に「原稿はみんなお前にやる」、父に「日蓮宗の経本を作ってほしい」と言い残して亡くなりました。弟の清六は賢治の死後、残された原稿の出版に奔走します。
賢治の作品の特徴の1つとして、一旦完成した後も書き直しが重ねられ、多くの作品が「未定稿」のまま残されている、という点があります。穏やかなイメージが強い賢治ですが、理想の作品を作り上げることに関しては頑なな面もあったのかもしれません。
今でこそ有名になった『雨ニモマケズ』ですが、書きあげられた当初は、ほとんどの作品がそうであったように、人の目につくことはありませんでした。そもそも『雨ニモマケズ』は、賢治自身が発表したものですらなかったのです。
『雨ニモマケズ』が書かれていたのは1冊のノート。賢治が亡くなった翌年、遺品の中からこのノートが見つかり、『雨ニモマケズ』も賢治の「遺作」として、多くの人の目に触れるところとなったのです。
ノートの書き込みから、『雨ニモマケズ』は1931年の11月3日に書かれたと推測されています。賢治が亡くなる2年ほど前のことです。この頃から、賢治は病気のためほとんど寝たきりの生活となっていました。その間も、彼は今までに発表した作品の推敲や、新しい童話、詩を書きあげていますが、ノートに書かれた「詩」は『雨ニモマケズ』の一編のみでした。
そもそも『雨ニモマケズ』は詩ですらなかった、とも考えられます。ノートの他のページには、これまでの自省やささやかな願望が書き記されているだけでした。この『雨ニモマケズ』も、賢治の純粋な「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」という願いだったのかもしれません。
では、もしその「サウイフモノ」にモデルがいたとしたら……それが「斎藤宗次郎」です。
斎藤宗次郎は賢治と同じ岩手県花巻に、1877年、禅寺の息子として生まれました。しかし小学校の教師をしていたころ、キリスト教思想家・内村鑑三の著作に触れ感動、洗礼を受けてクリスチャンとなります。
この頃の日本ではキリスト教徒は異端であり、受け入れられないものでした。宗次郎は親から勘当され、教師の職を追われました。さらに、9歳だった娘の愛子はいじめが原因で亡くなっています。
こうした世間の冷たい視線のなかでも、宗次郎は信仰を手放しませんでした。新聞配達の仕事をしながら、一軒一軒の家の前でその家に祝福が訪れることを祈りました。さらに新聞配達の帰りには病人を見舞い、雪の積もる日は小学校への道を雪かきしたのです。
宗次郎は50歳のとき、内村鑑三に招かれて上京することになります。ひっそりと花巻を去るつもりだった彼ですが、駅についてみると町の町長をはじめ、小学校の教師、生徒、神社の神主まで、町中の人が見送りに集まっていました。そのなかに、当時農学校の教師だった賢治の姿もあったのです。
2人の間には日蓮宗とキリスト教、信仰の違いを超えた交流がありました。賢治の散文詩「冬のスケッチ」には、宗次郎をもじったような「加藤宗二朗」という人物が登場しています。東京へ旅立った宗次郎に、1番に手紙を書いたのも賢治だといわれているのです。
もちろん『雨ニモマケズ』は賢治自身の願い、祈りであり、宗次郎がモデルだったかは定かではありません。ですが、どこかに彼の影響があるように感じられます。
『雨ニモマケズ』はほとんどの本で「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と結ばれています。しかし、ノートに書かれた『雨ニモマケズ』には、実は続きがありました。
『雨ニモマケズ』の続きに書かれていたものは、賢治が信仰していた日蓮宗の「法華曼荼羅(ほっけまんだら)」。これは中央に「南無妙法蓮華経」の文字、その周囲に仏の名を書き記したものです。
この法華曼荼羅はちょうど「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と書かれた次のページに記されていて、正確に『雨ニモマケズ』の続きなのかは断言できません。しかし『雨ニモマケズ』と法華経には、無関係だとは言い切れない共通点があります。
『雨ニモマケズ』には、「欲ハナク 決シテ怒ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」「ミンナニデクノボートヨバレ」という一節がありますが、法華経にはこの言葉を体現したかのような人物が登場します。それが、「常不軽菩薩」です。「常不軽菩薩」には、どんな人でも常に「いつか仏になる方だから」と敬い、たとえ馬鹿にされても決して相手を悪く言うことがなかった、という逸話があります。
賢治が「ナリタイ」と願った「デクノボー」が「常不軽菩薩」のことだとすると、『雨ニモマケズ』全体が法華経の精神、仏教の精神を表しているようにも感じられますね。
- 著者
- 宮沢 賢治
- 出版日
- 1991-08-01
『雨ニモマケズ』は、仏教の精神を表した詩で、宗派、宗教を超えた「祈り」の詩でもあります。
賢治は仏教を厚く信仰し、童話の中でたくさんの「理想郷」を描いてきました。しかし、理想が高いからこそ、現実の世界の中では「どのように生きてゆけばよいのか」常に悩んでいたのではないでしょうか。
賢治は、「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と、綴っています。理想と現実の狭間で、「なる」でも「なった」でもなく、「なりたい」と祈ることしかできませんでした。斎藤宗次郎や常不軽菩薩のように「なりたい」と願っても、「なる」ことはできなかったのです。
しかし、その「弱さ」をさらけ出した姿が時代を超えて共感を呼び、『雨ニモマケズ』が日本人の心に響く文章であり続ける理由ではないでしょうか。
いかがでしたか?有名な『雨ニモマケズ』ですが、初めて知る事実も多かったのではないでしょうか。今回の記事を読んで興味を持っていただいた方は、ぜひこの機会に読んでみてください!