今でも根強い人気を誇り、高校生などの現代文の教材としても使われていたり、映画化されたりもする、芥川龍之介の代表作のひとつ、『羅生門』。今回はそんな本作のあらすじから作品に秘められた思い、名言までご紹介していきます。
平安時代、災いが多発している京都の羅生門に下人が一人、雨が止むのを待っていました。
この当時京都は地震や火事、飢饉など災いが続き、そんな状況なので人々は金を稼ぐために仏像や仏具を砕いて金銀の箔を売るなど洛中はとても荒れていました。また引き取り手のいない死人を羅生門に捨てていくという習慣が出来たため、鴉が死人の肉をついばみにくるといったように羅生門は非常に気味の悪い場所でした。
そんな羅生門で雨宿りをしている 彼は今後、自分が生きていくためにも盗人になるしかないと考えているものの、その勇気がありませんでした。彼はこの一晩の寒さをしのぐため、羅生門の楼の上に行きます。そこには死体がゴロゴロ横たわっていましたが、その中に一人の死体から髪を抜く老婆がいました。
下人は老婆を捕まえ、死体の髪を抜いていたワケを聞くのですが……。
- 著者
- 芥川 龍之介
- 出版日
『羅生門』はまだ芥川龍之介が無名だったころの大正4年(1915年)の11月に雑誌「帝国文学(1895年から1920年発刊)で発表されました。このとき芥川はまだ23歳の青年で、東京帝国大学英文科に入学してから2年後のことでした。
それから35年後の昭和25年(1950年)に巨匠黒澤明が同名の映画を製作し、ヴェネツィア国際映画賞金獅子賞とアカデミー賞名誉賞(のちのゴールデングラブ賞外国語映画賞)を受賞しました。
芥川龍之介の小説『羅生門』には実はモデルがあり、今昔物語の本朝世俗部巻第二十九、本朝付悪行の中にある『羅城門』と巻第三十一、本朝付雑事の中にある『売魚』をベースにしていると考えられています。
『売魚』は 男が羅城門に上って老婆に出会い、着物を奪い去って逃げるという大まかな物語の流れは同じです。『羅生門』と違う点は、男がもとから盗みのために上京してきたことや、老婆が髪を抜いていた死体が元は老婆の主人だった人物といった設定などがあります。
また、『羅生門』の死体の女性の生きていたころの所業は『売魚』で書かれています。
『売魚』は最初から男を悪人として登場させていましたが、『羅生門』は悪人になるか迷いながら物語が進み悪人へと落ちていくのです。ここで重要になってくるのは『羅生門』では男は一度正義に目覚めたにもかかわらず、悪人になったことです。
皆さんも一度は似たような経験したことはあるのではないでしょうか?皆がやっているから自分がやっも仕方のないことと少し悪事を働いたこと……。ここでの男の心境の変化はまさにそれだったのではないでしょうか。
さて、それでは小説の題材となった羅生門、もとい、羅城門はどこにあるのでしょうか?残念ながら、羅城門は現存していません。ですが、跡地は残っており、京都市南区の東寺の近く、唐橋花園公園の中に「羅城門遺址」と刻まれた石碑が立てられています。
滑り台やシーソーのすぐ横に、柵で囲われており、日常のなかに急に遺跡があるということで、少し違和感を感じるかもしれません。気になった方はぜひ訪ねてみてはいかがでしょうか。
ここで気になるのは芥川がどうして「羅城門」ではなく「羅生門」と文字を変えたのか、ということです。
このことについては本人から明かされていないので理由は分かっていません。しかし、小説に登場する下人と老婆という「生者」たちの「生活」が描かれてるため、「羅城門」ではなく「羅生門」に文字を変えたのではないかという考察もできます。
さらに「羅」という字を大辞泉で調べてみると、「網の目のように並べ連ねる。並ぶ」と書かれています。京都の街が碁盤のようにできているというのもありますが、小説では人々の「悪」の連鎖的つながりにも関わってくる文字とも考えられるのではないでしょうか。
冒頭の二文目に
一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた(『羅生門』より引用)
とあり、その後に
作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた(『羅生門』より引用)
と唐突に作者が登場してきます。このような文章の構図にした理由は何なのでしょうか?
最初に下人の様子を説明し、次に 作者の主観によって京都の衰微した状態や下人の状況などが説明されているこの文章。客観的に語られる物語の合間に、作者による細かな説明が入ることや作者による主観的内容が加えられる事により、その後再び客観的文章に戻った時に下人に対する理解が二重に深められるためだと思われます。
ちょっとしたところにも、文豪ならではの技巧的な表現がみられますね。
『羅生門』は人の性悪説的な要素を示している作品ではないでしょうか。ここでは、そのテーマを示す作品の要素をご紹介していきます。
物語は雨の降る夕暮れから始まって真っ暗な夜で終わり、天候などからも暗さ・陰鬱さを感じさせる展開です。そして文中では下人が右の頬にできた大きなニキビを気にしているという登場しています。このニキビも、「モヤモヤとしたもの、煩わしいもの、膿」を具現化したような象徴のようです。
そんなすっきりとしない雰囲気を感じさせる表現がありますが、その次に物語を時系列的に逆に進んでみてみましょう。終わりでは下人が老婆の着物を奪い去ってしまいます。さらにその前には老婆が死体から髪を抜き取ってかつらにしようと考えていました。もっと前にさかのぼると、この死体の女が生きていたころ、女はヘビを切って干し魚と偽り、太刀帯(東宮坊警固の武士)に売っていました。
この3人に共通するのは何かというと、自分が生きるために悪事を働いたということです。つまりここでは一貫して悪が存在しており、上記でも紹介した「羅生」を表現しているのです。
下人の「ある勇気」というのはある種の爽快感、決断をともなう悪という存在。陰鬱だった序盤を吹き飛ばすかのような鮮やかな結末ですが、それはもちろん正義などではなく、悪。読者になりふり構わない生き方を見せることで、悪と正義の存在意義を問う構成にしている結末のように感じられます。
ストーリーのなかでも、印象に残る言葉として、主人公が短く発した
きっと、そうか (『羅生門』より引用)
という言葉があります。
この言葉は先述の「ある勇気」を持ったことが表現されている重要な部分。シンプルな言葉ながら、下人が盗人になる勇気を出したという大きな転換点が表されています。
- 著者
- 芥川 龍之介
- 出版日
- 2014-07-01
さらにこの言葉の後に、下人が不意に右の手をニキビから離したということも書かれており、下人がそれまでのモヤモヤとした感情に吹っ切れたということが暗示されています。
下人が老婆から着物を奪って夜の闇の中に逃げた後、
下人の行方は、誰も知らない。 (『羅生門』より引用)
という一文で、話は終わります。
下人の結末が分からないまま話が終わってしまうというのも、ホラーのようなゾッとする効果を演出し、読者に印象的な結末を見せるのです。
このようなシンプルながら骨太な文章表現、物語の構図が発表から100年以上たった今でも読まれ続けているゆえんなのではないでしょうか。
今回は芥川龍之介の小説『羅生門』について考察しました。小説のなかでも知名度が高い作品で、文庫本ではだいたい10ページほどの作品ですが、その内容には、すべての人間の中にある「悪」の存在について伝えたかったのかもしれません。