『走れメロス』は太宰治の小説です。執筆されたのは1940年、初出は「新潮」の同年5月号でした。主人公・メロスは親友・セリヌンティウスをほっぽいて、3日間をのんびりと過ごしていたダメ青年。 今回はそんな男が活躍(?)する『走れメロス』の面白さを斜め読みしていきます。
『走れメロス』の舞台は暴君ディオニス王に支配されていた古代ギリシャの都市シラクスです。
妹の結婚式に出席するためにシラクスの市を訪れた羊飼いのメロスは時の支配者、暴君ディオニス王に逆らってしまい、死罪を言い渡されてしまいます。
刑が執行される前にどうしても結婚式に出席したいという彼のために、親友であるセリヌンティウスが、3日間だけという条件のもと、代わりに捕縛されることになります。
しかし、この恩赦、実はディオニス王による悪巧みでした。もし彼が戻らなければ代わりにセリヌンティウスが処刑されてしまうのです。果たしてメロスは無事シラクスに戻ってこれるのでしょうか。
この小説は「メロスは激怒した」という書き出しから、ほぼ常にメロス主観で物語が描かれています。そうすることで、メロスの内面の動きを細やかに味わえるようになっているのです。
- 著者
- 太宰 治
- 出版日
世界文学大系〈第18〉シラー (1959年)詩・犯罪者・素朴文学と有情文学について・崇高について・世界とは何か・群盗・たくらみと恋・オルレアンの処女・ドンカルロス
『走れメロス』に関して、太宰治は「古伝説とシルレルの詩から」と記述しており、元ネタがあることが明言されています。
シルレルとは18世紀のドイツの詩人、フリードリヒ・フォン・シラーのことです。小栗孝則が1937年にシラーの翻訳を発表しており(『新編シラー詩抄』)、「シルレルの詩」とは、その中の1つ「人質」という詩のことを指していると言われています。
さらにシラーの「人質」自体がヒュギーヌスのギリシャ神話がモデルのもの。その大筋はピタゴラス派の教団員の間の団結の固さを示す逸話から取られています。この逸話に出てくる人物名はダイモンとフィンティアスという名前でした。
ではなぜ『走れメロス』では2人の名前はメロスとセリヌンティウスなのでしょうか。それはヒュギーヌスがフィンティアスをモイロス、ダイモンをセリヌンティオスの名前に変えたからだそうです。
モイロスはドイツ語圏でメーロスといいます。
太宰治は小説「走れメロス」はあくまでシラーの「人質」のオマージュであることを明確にするため主人公の名前をメロスにしたと考えられます。
原作の「人質」と「走れメロス」の違いは終わり方にあります。「人質」では最後ディオニス王が2人の友情の仲間に入れてくれ、と言って終わっていますが、「走れメロス」では可愛い娘が裸のメロスにマントを掛け、そこでメロスは赤面をしました。メロスの自意識をさらし者にする太宰治のちょっと意地悪な筆致が感じられます。
メロスは妹の結婚式をおこなうため、村に向かいます。一睡もせず10里の路を急いで帰り、村へ到着したのは、あくる日の午前。日はすでに高く昇って、村人たちは野に出て仕事を始めていたそうです。
1里は4kmなので、シラクスから村まで、10里ということは4×10=40km離れている計算になります。
この距離はほぼフルマラソンの距離ですね。「初夏、満点の星」の中、出発して、村に到着したのは「陽は既に高く昇っ」た頃と書かれています。大体の予想で0時に出て、10時頃到着したと仮定すると、10時間近くかかったことになります。
もしそうであれば、彼は単純計算で彼のスピードは、時速4km。これ、どれくらいの速度なのかというと、人の歩く速度が平均時速4kmほど。なので、彼はかなり足が遅いということがわかります。もしくはかなりののんびり屋さんなのではないでしょうか。
こちらの作品は、読まずに聞けるオーディオブックで楽しむことができます。今なら30日間無料!
「ながら聞き」ができるので、「最近、本を読む時間が取れない」方や「もっと手軽に楽しみたい」方におすすめです。
メロスは家に帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまいます。目が覚めたのは夜でした。起きてすぐに花婿の家に行くと、夜通しかけて結婚式を明日に執りおこなうことを承諾させ、そのまま昼には挙式します。
するとメロスは一生ここにいたい、と思ってしまいます。完全な現実逃避です。心の中では自分の身体はすでに自分のものだけではないことを知っていながら、メロスは明日の日没まで、十分時間があるといってひと眠りをしたり、雨が降っているから小降りになるまで待とうとしたり、少しでも永くこの家にとどまろうとグズグズしてしまうのです。
「まだ時間があるし、いっか」なんて考えているメロスですが、もともと足が遅い自分を客観的に見ることができません。「ウサギとカメ」のウサギようです。ただメロスは足が遅いので、カメがスタートダッシュして休んでいる感じです。
もし、メロスがもう少しグズグズしていたらセリヌンティウスは王に殺害されてしまい、デュオニス王は怒りに任せて、暴虐の限りを尽くすだろうし、メロスは一生逃亡者になってしまいます。妹も結婚したばかりなのにひどい目にあうだろうし、まさにメロスの人生の分岐点だったようです。
さて、3日目になってもメロスは寝過ごした、なんて言っています。もし本当に寝過ごしていたらどうするつもりだったのでしょうか。
さらにメロスは昨日の体たらくを忘れて、王に信実の存するところを見せる、何て考えています。大丈夫か、メロス。そしてまだまだ大丈夫なんて考えて、悠々と身支度をはじめています。かなりのダメ人間ですね。
そしていざ出発したかと思うと、しばらくしてすぐに、ゆっくりと呑気に歩き出して、よい声で歌っているメロス。死を恐れないというよりも非常に達観しているようです。
けど、そんなのん気なメロスに苦難が降りかかります。昨日の雨で川が氾濫しており、道が塞がれていたのです。するとメロスは泣いてしまいます。
なんとかして渡るものの、今度は山賊に襲われ、またメロスは泣いてしまいます。
苦難にぶつかる度に泣くメロスは子供なのでしょうか。なんでも自分の思い通りにはいかないものだ、と現実を目の当たりにして何もかもどうでもいい気持ちに襲われてしまうメロス。そしてまどろむメロス。ここにきてまた現実逃避です。
現実逃避をした結果、間に合わないことに気付いて走るメロス。ついにメロスが走ります。
感動的なフィナーレが待っているのでしょうか。ギリギリにシラクスの町に到着して、セリヌンティウスに自分がいかにダメな人間かを告白するメロス。読者としてはメロスを心配してしまいます。そんなこと言わなくてもいいのではないですか、メロス。でもメロスは純朴でピュアな男。本当の事を言わずにはいられないようです。
さて、友人セリヌンティウスはそんなメロスの友人でした。当然同じように自分もメロスが自分を裏切って帰ってこないかもしれないと思った、と告白するのです。なんというピュアで美しい友情でしょうか。
そしてそんな2人の姿を見てディオニス王は感動しています。どうやら2人のピュアさにやられてしまったようです。そしてあろうことか結局、彼らの命を助けると言い出しました。結構簡単に許すんだな、大丈夫ですか、王よ。周囲の人間はそう思ったかもしれませんが、国民は誰も何も言いません。むしろ歓声が上がります。
だってメロスもセリヌンティウスもデュオニス王もみんなピュアだからです。こんな感動的なシーンに水を差したくなかったのでしょう。罰が当たります。
けれども作者の太宰治はちょっぴり悪人だったのかもしれません。最後にメロスが実は全裸であることを書いてしまうのです。余計なことを。
しかも可愛い娘さんに裸を隠すようマントを差し出させるのです。もしかすると最後に赤面したのはこれを書いていた作者の太宰治だったのかもしれません。あまりにもピュアすぎる友情物語ができあがり、自分で書いておきながら恥ずかしくなる太宰治。最後にメロスを勇者と書いてしまう自分。もしかすると赤面していたかもしれない太宰治の顔、見てみたいですね。
「実時間小説 走れメロス」というアプリは、「走れメロス」の主人公、メロスの走り切った3日間を実時間として1時間単位で追って経験出来るアプリです。まるで24時間、メロスを監視しているような気分になれます。
ダメロスの足の遅さや、ダメさをさらに体感したい人はそちらで彼の運命の日々を覗いてみるのもいいかもしれません。
- 著者
- 太宰 治
- 出版日
ここまで少し茶化して紹介してしまいましたが、やはり「走れメロス」は名作と呼ぶにふさわしい挑戦の作品です。なぜなら本作は太宰治の師匠だった井伏鱒二のデビュー作にして超名作「山椒魚」へのオマージュだったからです。
「メロスは激怒した」からして「山椒魚は悲しんだ」と、そのまま文体を模倣しながらも、太宰一流なユーモアとパロディ的な文体を駆使して、あからさまな正義や純粋さに対し、果敢におちゃらかした一世一代の名作なのです。
さらに「山椒魚」に対抗して、あくまで実存的な部分での問い掛けを一切排除した文体も素晴らしいもの。一見子供向けと思いきや、正しさや純粋さに対する嫌味や当て擦りに満ちた文章は名文といえるのではないでしょうか。
「走れメロス」は学校の教科書の教材にもなっているため、誰でも知っているかもしれません。けど大人になってからもでも楽しめる内容であることは間違いありません。
メロスのように純粋な子供にも、かつてメロスのように純粋だった大人になってからもぜひとも一読再読することをおすすめします。