世界中で読みつがれている1951年に発表された小説である『The Catcher in the Rye』。作者である小説家のサリンジャーは2011年の91歳で逝去しましたが、その人気は現在でも衰えることはありません。 累計発行部数は何と6000万部を超えており、日本でも4人の翻訳者によって翻訳され続けている不屈の名作です。この記事では、そんな本作の魅力を余すことなく伝えていきます。
世界中で長年人気を博し続けている文学史上に残る名作と言えば、J・D・サリンジャーの『The Catcher in the Rye(キャッチャー・イン・ザ・ライ)』です。この作品は、売り上げ発行部数が世界で6000万部以上を超える作品で、その人気は現在も続いています。
本作は映画化もされたほどの人気作品で、なんと人気漫画『暗殺教室』にも登場。また、『攻殻機動隊』の「笑い男」の会話のなかでも、本作のセリフが何度も引用されています。さらに表紙の絵として、ピカソが使用されているものも存在します。そいったことからも、現在でもその人気が続いていることを伺い知ることができるでしょう。
- 著者
- J.D.サリンジャー
- 出版日
- 1984-05-20
本作は、次のような書き出しから始まることが有名です。
「もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、
まず、僕がどこで生れたかとか、
チャチな幼年時代はどんなだったかとか、
僕が生れる前に両親は何をやってたかとか、
そういった《デヴィッド・カッパーフィールド》式のくだんないことから
聞きたがるかもしれないけどさ、
実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな」
(『ライ麦畑でつかまえて』より引用)
本作は、フィクションとして描かれた作品。主人公である16歳の高校生、ホールデン・コールフィールドは学校の成績が振るわず、名門高校であるペンシー校から退学処分を言い渡されます。そんな状況のなかで、クリスマス休暇前の土曜の夜に、彼はルームメイトであるストラドレーターと喧嘩をして寮を飛び出すことに。
彼は、親元に退学通知が届くまでは家に帰らないと決意し、ニューヨークに戻って怪しげなホテルに宿泊。それから日曜の夜になるまで、友人やガールフレンドたちに会ったり、電話をしたり、女の子たちとダンスを踊ったり、ホテルで売春婦を斡旋する男に金を巻き上げられたり、酒を飲んで酔っぱらったりと、さまざまな経験をします。
そんななか大好きな妹であるフィービーに会いたくなったので、日曜の夜にほんの一時だけこっそりと家に帰ります。そしてフォービーを学校から呼び出して、公園へ出向く2人。彼は雨でずぶ濡れになりながらも、回転木馬に乗る妹を見て、とても幸福な気分となりました。
そして物語は幕を閉じるのです。
本作の魅力は何といっても、主人公が「子どもの夢」と「大人の現実」の狭間に生き、その時期にしか味わえない青春を謳歌する、そのことの美しさを表しているところです。かつてそういった経験をしてきた人が多いからこそ、世界中で多くの共感を集める作品となったのではないでしょうか。
作者のサリンジャーは、1919年1月1日、ニューヨーク生まれの作家です。10代で執筆活動を開始し、1940年に「ストーリー」という雑誌に掲載された『若者たち(The Young Folks)』という作品でデビューしました。
1941年、日本の真珠湾攻撃に怒りと愛国心を煽られたサリンジャーは、軍務につくことを志願。44年にはイギリスに派遣され、諜報員として訓練を重ねました。
彼は第2次大戦において、ノルマンディ上陸作戦を含むヨーロッパ戦線にも従軍した経験を持ちます。実際、同年代の作家で『誰がために鐘は鳴る』の作者であるヘミングウェイとも、パリで面会しています。これらの経験は、本作はもちろん、サリンジャーのその後の作品にも大きな影響を与えたのです。
彼の作品の中で最も有名な本作は1951年に発表され、大ベストセラーとなりました。現在も年間約25万部以上もの売上を記録するとともに、高校の推薦図書にも選ばれています。
そんな彼ですが非常に謎の多い作家でもあり、1953年にニューハンプシャー州の田舎町であるコーニッシュで隠遁生活を始めてからというもの、それ以降公の場に姿を表していません。
本作は、大人社会に対する純粋な子どもの反抗を描いた物語という意味で、中二病の青年を描いたことが特徴の小説と呼べるかもしれません。
大人になりきれない青年のわがままをそのまま描写しているだけ。中二病の心を持っているからこそ、社会に対して反抗的な態度を取り続ける主人公は、自堕落な生活を送りながらも、いつか自分はキャッチャーになりたいといえるのです。
しかし、そんな中二病的な内容だけが、本作の魅力というわけではありません。むしろ本当の魅力は、ホールデンという1人の高校生の「内面的葛藤」を描いていることなのです。
彼の心の中には、死んだ弟・アリーや、初恋の女の子・ジェーンが生きている、自分だけの内的な世界が存在しています。要するに彼は、アリーやジェーンを自分の心の中で繋がりたい対象として描き出しており、自分の心の外側にある現実世界の人間をあまり気にしていないのです。
彼の語り口はどこかベラベラと、好き勝手なことを話しているように感じます。彼の口から発せられる「あなた」や「きみ」という言葉は、そもそも現実に存在する相手を気にしている語り方ではなくなってしまっているのです。
そんな自分の内的な世界を徹底的に描き切っているところが、本作の本当の魅力となっています。それをひたすら読み込んでいくことが、この作本のおすすめの読み方なのです。
ここではそれぞれの登場人物について、簡単に紹介していきます。
ホールデン・コールフィールド
物語の主人公で16歳の青年。ペンシルベニア州にある全寮制のペンシー高校に在籍しています。彼は退学を繰り返しており、ペンシー高校がなんと4つ目の学校です。しかし、そんなペンシー高校も退学となってしまいました。
ヘビースモーカーですぐに息が切れてしまい、お酒が強いというのが特徴。赤いハンチング帽がお気に入りです。周囲のインチキで意味不明な大人たちや社会、友人たちに対して常に苛立っていますが、純真な子どもは好きです。
フィービー
主人公の妹で、ニューヨークの小学校に通う少女。ホールデンの1番の理解者として、作中では描かれています。彼について行きたいがために学校や家を捨てようとしますが、彼はそれを許さず、たまに喧嘩をすることも。
アリー
ホールデンの弟。フィービーの兄です。白血病で死んでしまっているため、直接的に物語の中に登場することはありませんが、ホールデンの回想に登場します。
スペンサー先生
主人公の通うペンサー高校の歴史の先生で、腰の曲がった老人。ホールデンが学校を辞めるために挨拶に行くと、彼に対して説教をします。
ストラドレイター
全寮制であるペンシー高校の男子生徒で、ホールデンのルームメイト。美男子ですが、うぬぼれ屋で、女たらしという特徴があります。ジェーンとデートをしたことがきっかけとなって、ホールデンと喧嘩をします。
モーリス
ホールデンが1日目に泊まるホテルの、エレベーターボーイ。宿泊客に売春婦を斡旋して稼いでいる男で、世間知らずの主人公は彼によってひどい目にあいます。
サリー
モーリスの手配によって、ホールデンの部屋に来る売春婦。彼女の言動によって、ホールデンはすっかり気分を概してしまいます。
フィッツジェラルド
主人公が好きな女の子。彼女を取り合って、ルームメイトであるストラドレーターと喧嘩をします。
カール・ルース
主人公が以前退学になった学校の友人。なぜか同性愛に詳しいのが特徴です。物語の2日目の夜に、ホールデンは彼とバーで、一緒にお酒を飲みます。
先にも説明したように主人公であるホールデンは、作中で何度も何度も社会や大人を小馬鹿にしたような態度を取ったり、言葉を発したりします。
16歳という年の男の子には、一般的にそのような傾向もあるでしょう。そのため本作は、大人社会に対する反抗の物語として読み継がれてきました。結果として、そのせいで社会批判の書であるとして発禁となったのです。
しかし2003年に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」として村上春樹氏が翻訳を手掛けて以降、この物語は社会と1人の人間の対立ではなく、自分の理想と現実のズレである、という読み方がされるようになりました。
たとえば作品の中で、白血病で死んでしまったアリーを何度も何度もホールデンは回想しています。その中で彼はアリーの幻影を追っているのではないかという見解があり、心理学的・精神分析的な観点から、彼はうつ病として描かれているのではないか、と考えられるようになりました。つまり彼は精神病であり、妄想の世界で生きているという見解です。
実際に物語の中で彼が被っている赤いハンチング帽は、人間刈りのために使われるということが描かれています。つまり自身がそれを被ることによって、問題だらけの社会の中でのうのうと生きているインチキな人たちを刈っていくということを示しているのです。またスラングばかりを並べ立て、相手を一方的に批判していくという話し方にも、その一端が現れています。
原題は、『The Catcher in the Rye』なので、直訳すると「ライ麦畑で捕まえる人」という訳となるはずです。しかし、翻訳者である野崎孝氏の訳では、『ライ麦畑でつかまえて』となっています。そのため、この訳は完全に間違った訳であるといわれており、その後、村上春樹氏はこの本のタイトルを『キャッチャーインザライ』とそのままカタカナにしたのです。
- 著者
- J.D. サリンジャー
- 出版日
そんな『The Catcher in the Rye』という原題は、本文中の一節に由来するといわれています。それが次の文章です。
だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、
小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、
僕はいつも思い浮かべちまうんだ。(中略)
それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。
で、僕がそこで何をするかっていうとさ、
誰かその崖から落ちそうになる子どもなんかがいたら、
どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。
そういいうのを朝から晩までずっとやっている。
ライ麦畑のキャッチャー(つかまえ役)、僕はただそういうものになりたいんだ。
(『ライ麦畑でつかまえて』より引用)
フィビーに「けっきょく、世の中のすべてが気に入らないのよ」と言われて、将来何になりたいのかと夢を聞かれたときに、ホールデンは上記のように答えます。
この台詞を読む限りでは、「ライ麦畑でつかまえて」という訳にするのは明らかに間違い。ホールデンは捕まえる側(キャッチャー)になりたいと言っているので、「捕まえて」では意味が逆転してしまいます。しかし、このように訳者が記したのには理由があるのです。
物語の中で、彼はやることなすことすべてうまくいかず、勉強もスポーツも出来ず、挙句に学校を転校させられてしまうような人物です。それを本人も自覚しています。そんな人間が将来なりたいものを聞かれて、「ライ麦畑で捕まえる人(キャッチャー)」になりたいと言っているのです。
彼のように社会から爪弾きにされているような人間が、広大なライ麦畑で遊んでいる子どもが崖に落ちそうになるのを助ける側の人間になりたいと言っているのです。
しかし実は、これは彼が自分自身に対して他人からしてもらいたかったこと、そのもの。ライ麦畑とは「大人の世界(社会)」がいかに理不尽で、問題だらけで、意味不明であるかということを表現している象徴であり、そんな社会の崖っぷちから落ちそうになっている自分を捕まえてほしいという意味が込められたタイトルとなっている、というわけなのです。
- 著者
- ["J.D.サリンジャー", "J.D. Salinger"]
- 出版日
- 1997-04-01
本作は英語版ももちろん発売されているものの、多くの人々によって翻訳されてきました。日本語訳としては、4つのものがあります。
日本でいち早くこの作品を翻訳したのは、橋本福夫氏です。1952年に彼は、この本のタイトルを『危険な年齢』と訳しています。かなり踏み込んだ、サリンジャーの作品の雰囲気がわかりやすい翻訳です。
その後、野崎孝氏によって1964年によって『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルで翻訳し直され、日本中に広く知れ渡るようになりました。その表紙には、ピカソが15歳のときに書いた絵が用いられたことでも話題となりました。
繁尾久氏の訳では、タイトルが『ライ麦畑の捕手』と原題に忠実に翻訳され、2003年には、人気作家で翻訳家でもある村上春樹氏によって、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」として翻訳されています。
主人公の言葉遣いや態度に問題があるとして、1954年にカリフォルニア州の教育委員会が本書を学校や図書館から追放。禁書扱いとなりました。
さらに1980年代には、有名人を射殺、または射殺未遂したことで逮捕された犯人が、この本を愛読していたことも問題とされました。
特に、1980年12月8日にジョンレノンを射殺した犯人であるマーク・チャップマンは、警察が到着するまで歩道でこの本を読んでいたとされ、実際、法定でも作中の一節を大声で読み上げたのです。
その他にも、ロナルド・レーガン大統領が射撃され、その犯人・モーテルの部屋にも本作があったことなど、当時は非常に問題のある作品とされていました。
本作はつまらなくて読みにくい、面白くないという感想もしばしば聞かれる作品です。表面的に読んでしまうと人の日記を読んでいるようなストーリーなので、淡々と話が流れていってしまいます。これといってあっと驚くような展開もないので、面白くないという感想が出てしまうのも当然といえるかもしれません。
特に物語の前半部分は、ホールデンが社会のすべてにケチをつけていくという展開なので、彼の言うケチに共感できないと、それほど面白くない作品になってしまうといえるでしょう。
しかし物語の後半、フィービーが彼にある問いかけをします。この部分を読んで初めて、この作品の本当の面白さに気づくことができるでしょう。
その一文とは「兄さんのなりたいものを言って?」と、フィービーが彼に問い詰める場面です。そこに至って初めて、彼は自分がどのように生きるべきかを悟ることができるようになります。この部分まで読んだ読者は、彼の気持ちや人間的な変化に気付き、作品に面白さを感じるのです。
本作には数多くの名言があります。そのなかでも特に有名なのが、次のセリフでしょう。
「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。
馬鹿げてることは知ってるよ。
でも、ほんとうになりたいものといったらそれしかないね」
(『ライ麦畑でつかまえて』より引用)
ここでは、ホールデンが本当になりたいものを吐露しています。そしてこの言葉こそが、『ライ麦畑でつかまえて』という作品の基盤となっているのです。
その他にも、
「僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えた」
(『ライ麦畑でつかまえて』より引用)
という名言が残されています。この一文は、アニメ『攻殻機動隊』のなかでも引用され、当時話題となりました。
他の名言には、
「こういうのがさ、すべてにおける問題なんだよ。
ひっそりとした平和な場所を見つけることができない。
だってそんなものはどこにもありゃしないんだからさ」
(『ライ麦畑でつかまえて』より引用)
というものがあります。これはホールデンが、安心して生活できる平和な場所を見つけようとしていることがわかる一文です。しかし、どこか諦めてしまっている節もここからは感じられますね。
そんなことを言う彼ですが、
「あなたは世界中で起こる何もかもが、インチキに見えてるんでしょうね。」
(『ライ麦畑でつかまえて』より引用)
と言われてしまいます。社会の何もかもを批判せずにはいられない。それが彼の抱えている悩みの1つとして描かれていますが、同時にこれは人間の普遍的な悩みでもあるといえるでしょう。
さらにサリンジャーは、鋭い視点で人間の本性を次のように記しています。
「未熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。
これに反して成熟した人間の特徴は、
理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある。」
(『ライ麦畑でつかまえて』より引用)
未熟な人間は理想のために高貴な死を選び、成熟した人間は理想のために卑小な生を選ぼうとすると指摘しています。それでは、どのように生きて死んでいくことが、人間として大切なのでしょうか?
それはこの物語のなかで、サリンジャーが繰り返し問い続けたことでもあるのです。
通っていた学校を退学となったホールデンは、ニューヨークにある実家へと帰ります。しかし、そこには彼の居場所はありません。自宅のあるニューヨークは彼にとって、好きになれない同級生や大人の世界のしきたりといった“インチキ”なもので満ちており、不確かなものでしかなかったのです。
- 著者
- J.D.サリンジャー
- 出版日
- 1984-05-20
そんな状況のなかで、彼は妹のフィービーに、自分のなりたいものについて語ります。それは、「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。」ということでした。ライ麦畑で遊んでいるうちに誤って崖から落ちそうになる子供を受け止める、ライ麦畑のキャッチャー、これこそが彼の理想だったのです。
このように言い残した彼は、このまま遠くの土地へ行こうかと考えます。
「どっか遠くへ行ってしまおうと決心したんだ(…中略…)
そこへ行ってどうするかというと、
僕は啞(おし)でつんぼの人間のふりをしようと考えたんだ」
(『ライ麦畑でつかまえて』より引用)
さまざまな人との繋がりを求める放浪の旅を終え、彼は孤独を選択したのです。そしてフィービーに最後の別れを言おうとしますが、彼女は「自分も一緒に行く」と言い張ります。
妹想いであった彼は、これをきっかけに「僕はどこにも行きやしない。気が変わったんだ」と言って、彼女に公園の回転馬車に乗ることを勧めます。
回転馬車で遊ぶ子供たちを公園のベンチから見守る彼の姿は、さながら「崖から落ちそうになる子供を受け止めるキャッチャー」のように描かれています。
このようにして彼が描いていた理想の自分は、なんともあっけなく現実化するのです。こうして物語の幕は閉じます。最後の最後に彼は、他人のいる大きな世界(社会)に目を向けるのではなく、もっと身近なところに目を向ける大事さに気付いたのでした。
先にも説明したように本作は、ホールデンがライ麦畑で(他人を)つかまえて(みたい)というのがこの作品の基調である一方、彼自身の内的世界の葛藤を描いた作品でもあります。
自分の言い分を社会に対して吐き出しているだけの作品として読んでしまうと、伝えたいことがわからないと勘違いされてしまいます。そのせいで、つまらなくて読みにくいと捉えられてしまうのかもしれません。
しかし彼は社会と自分自身との間で常に葛藤しており、揺れ動いています。その証拠に、4校も転校を繰り返している彼ですが、まだ自分に合った学校があるかもしれない、自分を受け入れてくれる人がいるかもしれないと、わずかな希望を捨ててはいないのです。
そういう意味で彼は、すでに無垢ではないという事実から目をそらそうとしている青年ともいえるでしょう。
そういう意味で、本作でサリンジャーが描きたかったのは、社会の理想と現実のズレに葛藤しながらも何とか今を生きようとする、16歳の青年の物語だったのではないでしょうか。今を生きることがどういうことであるのかを、彼は伝えたかったのでしょう。
この物語は現在でも多くの人に読みつがれている、不屈の名作です。日本語でも多くの翻訳が出ており、その翻訳の違いを比べてみるのも楽しみの1つとなっています。読み比べることで、本作の深さを感じることができるでしょう。もちろん英語が読める方は、ぜひ原文にもチャレンジしてみてください。
以前に読んだことがある方も、今読んでみると感じ方が変わるはず。ぜひこの機会に読み返してみてはいかがでしょうか?また読んだことがない方は、今回の記事をきっかけに読んでいただけると幸いです。