本作は芥川龍之介が初めて子供向けに書いた、児童文学作品です。仏の慈悲心とエゴイズムをわかりやすく伝えていることでも有名。 この記事では名作『蜘蛛の糸』をよりわかりやすく解説、さらに教訓まで考察をしていきます。
本作は1918年に童話雑誌「赤い鳥」に発表された、芥川龍之介の処女児童文学作品です。
主人公は、犍陀多(カンダタ)という大泥棒。地獄に落ちた彼の前に、お御釈迦様が現れます。彼が以前に蜘蛛を助けていたことから、お御釈迦様によって救いの手が差し伸べられるのです。それにすがる彼ですが、同じく地獄に落ちた者たちも救いを求めて……というのがあらすじ。
知らない人はいないといっても過言ではないであろう、教科書にも載っている名作です。
- 著者
- 芥川 龍之介
- 出版日
- 1968-11-19
本作は、アメリカ作家で宗教学者のポール・ケラスの『因果の小車』を題材にしたといわれています。『因果の小車』は近代仏教学をテーマにしているのに対して、『蜘蛛の糸』は日本で変容した仏教を想定して執筆されています。それゆえ、釈迦如来の行動に矛盾があると指摘されることも。
『因果の小車』のストーリーは、主に以下のような内容です。
大盗賊のカンダタは自らの罪を顧みずに死んだため、地獄へと落ちてしまいます。そんな彼の前に、仏陀が現れます。仏陀は彼の苦悩を見て、1本の蜘蛛の糸を垂らすのです。
カンダタが糸を掴むと、糸によって彼は上へと上がっていきます。しかし彼の後から、地獄の亡者たちも糸を掴んで上がってきていたのです。彼の意識は、上から下へと変わっていき、やがて仏陀を信じ仰ぐ心さえ薄れてきました。
糸が切れることをおそれ、彼は「来るな、この糸は私のものだ」と叫びます。すると突然糸は切れ、地獄の亡者もろとも、彼は再び奈落の底へと落ちていったのです。
読んでいただいてわかるとおり、『蜘蛛の糸』に非常によく似た内容となっています。
本作には大泥棒の犍陀多、お釈迦様、蜘蛛、罪人が登場します。そのなかで犍陀多と罪人は地獄にいて、お釈迦様と蜘蛛は極楽にいます。
主人公の犍陀多は家に火をつけたり、人を殺したりするなど、本物の悪党でした。地獄にいるのですから、きっと他の罪人も当然悪党でしょう。
お釈迦様は極楽から、そんな彼らの苦しむさまを観察し続けているのです。酷い所業だと思われるかもしれませんが、お釈迦様もかつては人の子。彼らを監視し続けるのは、決して楽しいものではないはずです。
芥川龍之介は宗教や既成概念に疑問を持っていた作家です。その既成概念に対する疑問が、1924年に発表した『桃太郎』にも大きく反映されています。
まず桃太郎が鬼が島の征伐に行く理由がこう記してあります。
お爺さんやお婆さんのように、
山だの川だの畑だのへ仕事に出るのが嫌だったせいである。
(『桃太郎』より引用)
桃太郎というと勧善懲悪物語であることが基本になっているので、芥川が描いたこの話は、私たちが知っている『桃太郎』とは違うようです。
さらに野良犬が、お腰に下げたのは何でございます?と問いかけると、これは日本一の黍団子だ、と返事をしますが、彼はそれが本当に日本一かどうかなんてわかっていません。しかも犬が、お伴するので1つください、と言うと、1つはやれないから半分やろう、と、まるで商人のような対応です。
その後、猿や雉が仲間になるも皆仲が悪く、いがみ合いを始めてしまいます。それを止めるため、鬼が島を征伐したら宝を分けてやる、などといい加減な約束をする始末。そんなことをしているうちに、彼らは鬼が島へと到着します。
しかし、いざ島へ着いてみると、そこは天然の楽土。鬼が平和に暮らしていたのです。
そこで桃太郎たちは、なんと鬼たちを殺戮。鬼の酋長は、彼らに頭を下げながら質問します。
わたくしどもはあなた様に何か無礼でも致したため、
御征伐を受けたことと存じて居ります。
しかし実はわたくしを始め、
鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、
とんと合点が参りませぬ。
ついてはその無礼の次第をお明し下さる訣には参りますまいか?
(『桃太郎』より引用)
すると桃太郎は、犬猿雉の3匹の忠義者を従えることができたので征伐に来た、と言うのです。そして、それでもまだわからないのなら貴様らも殺すぞ、と脅します。
そんな桃太郎は、その後幸せに暮らしたわけではなく、鬼たちが彼の屋形に火をつけたり、幾度も寝ているところを襲われたりします。彼は、鬼は執念深くて困ったものだ、と嘆息を洩らすのでした。
芥川の『桃太郎』は勧善懲悪のストーリーではなく、現実の英雄がもたらした悲劇を描いています。この物語を読むと、実際に桃太郎にこういった側面があったのかもしれないと感じてしまいます。芥川はこの作品をとおして、既成概念を正しいと思うことに対する疑問を投げかけているのかもしれません。
『蜘蛛の糸』の犍陀多は人殺しの放火魔ですが、罪のない小さな命である蜘蛛を助ける慈悲心を持っていました。正義だとされているものが常に正しいわけではなく、悪だとされているものが常に悪であるわけではないというのを、芥川は作品を通して伝えているのではないでしょうか。
『蜘蛛の糸』は芥川龍之介が子供向けに書いたこともあり、子供たちに伝えたい内容であったと推測できます。では子供たちは、登場人物なら誰に感情移入をするのでしょう。それは、やはり主人公の犍陀多ではないでしょうか。
彼は大泥棒の悪党ですが、実は罪のない蜘蛛を助けています。純粋無垢な子供であっても、喧嘩で相手を傷つけたり、時には嘘をついてしまうこともあるはず。それらと度合いは違えど、悪さをしたことで地獄に落ちてしまった彼に、少なからず自分を重ねて見てしまうかもしれません。
作中で彼が、蜘蛛の糸は己のものだ、と言ったとたんに糸は切れ、再び地獄に落ちてしまいます。このことから教訓を得るとすれば、「悪いことをすれば、必ず自分に返ってくる」ということでしょう。
さらにこの作品で興味深いのが、お釈迦様がなぜ大悪党の犍陀多を助けようとしたのかということです。お釈迦様ならば、放火や殺人をするような悲惨な人生を送っているけれど、時には蜘蛛を助ける慈悲心も持ち合わせている、と、この主人公に思い救いの手を差し伸べたのかもと想像することはできます。
しかし、もちろんお釈迦様は作中でこのようなことは一言も喋っていないので、私たち読者は、ただ想像するしかありません。助けた側からの視点がまったく描かれないことも、その意図、教訓を想像させる巧妙な表現です。
お釈迦様は犍陀多のたった1度の慈悲心を汲んで、彼に救いの手を差し伸べたように感じられます。おそらく彼が今後改心していくことを望んでいたのでしょう。
しかし彼は糸を上ってきた罪人たちに向かって、糸は己のものだと主張します。そのような自分勝手な行動によって、彼が心を入れ替えることはないだろうと思われたがために、糸は切れてしまいました。ただ黙々と糸を上っていったのならば、もしかしたら糸は切れなかったのかもしれません。
もともと宗教とは非常に厳しい世界です。その真っただ中に存在するお釈迦様に認められるには、犍陀多も沈黙を守って蜘蛛の糸を登り続けるのがよかったのかもしれません。
犍陀多が蜘蛛の糸を、己のものである、と喚いたとたんに糸は切れてしまいます。
そんな彼の一部始終を、お釈迦様は悲しげな顔で見ていました。自分ばかり地獄から抜け出そうとする彼の無慈悲な心を大変浅ましく思ったことでしょう。
しかし、たとえ彼にこのような一大事が起こったとしても、極楽は何ら変化もなく、緩やかに時が過ぎていきます。そして、気づけば昼を迎えていたのでした。そして、物語は幕を閉じます。
芥川の作品は本作に限らず、極限状態にいる人間の心理を描き、その人間の底に潜むエゴイズム(利己心)を鋭く描き切っています。
その観察力や緻密さは、そしてこの結末から感じられる、多くを語りすぎない表現の妙は、まさに文芸の天才を感じさせる展開です。
本作は当初、子供向けに書かれていましたが、現在では難しいと感じて読めない子供もいるでしょう。そこでここでは、アニメーションや漫画、絵本化された『蜘蛛の糸』をご紹介します。
まず、遠山繁年が絵を担当した絵本版『蜘蛛の糸』。
遠山繁年は、絵本作家です。フランスのパリ国立美術学校でリトグラフを研究しました。作品には宮沢賢治や芥川龍之介を原作にした絵本やロシアの昔話を題材にしたものもあり、本作では、おどろおどろしい地獄の表現がユーモラスに描かれています。
- 著者
- 芥川 龍之介
- 出版日
- 1994-10-01
また上記の他に、青少年向けのアニメーション「青い文学シリーズ」の作品もあります。キャラクターの原案は、なんと『BLEACH』の久保帯人。現代的なアニメーションで表現された地獄は、一見の価値があります。
絵本とアニメ、両者に共通しているのは地獄の不気味さや、恐ろしさが感じられる表現がされているところです。 まるで夢にでも出てきそうな雰囲気。
ただ子供向けに作るのではなく、原作のおそろしいイメージがしっかり味わえるのも、これらの作品のよいところではないでしょうか。
今回は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を紹介させていただきました。大変短い作品ですが、内容の濃さは短編とは思えないほど。子供も大人も、再読をしても損をしない内容です。この記事を読んだのを機に、ぜひともお手に取ってみてください!