本作は、村上春樹の短編集をまとめた小説で、5話の物語から構成されています。偶然をテーマにした「偶然の旅人」や、シングルマザーを描いた「ハナレイ・ベイ」などがあります。 この記事では『東京奇譚集』のあらすじやそれぞれの結末を解説。ぜひ最後までご覧ください。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 2007-11-28
本作は、村上春樹の短編集をまとめた小説です。第1話「偶然の旅人」、第2話「ハナレイ・ベイ」、第3話「どこであれそれが見つかりそうな場所で」、第4話「日々を移動する腎臓のかたちをした石」、最終話「品川猿」の合計5話で構成されています。すべての物語に起承転結があり、1話ごとに物語が完結しています。
ちなみに「ハナレイ・ベイ」に関しては2018年に映画化されることも決定しています。
村上春樹は、兵庫県出身の小説家です。早稲田大学卒業後、まずはジャズ喫茶店を経営します。そのときに書いた小説が『風の歌を聴け』で、この小説で群像新人賞を受賞。代表作には、『ノルウェイの森』、『1Q84』、『海辺のカフカ』などがあります。彼の熱心なファンのことを「ハルキスト」と呼ぶこともあります。
ノーベル文学賞に何度もノミネートされており、今年こそは受賞するとその度に日本は盛り上がりますが、まだノーベル文学賞の受賞経験はありません。世間の盛り上がりとは裏腹に、彼自身はノーベル文学賞にさほど興味がないようです。
第1話である「偶然の旅人」は、タイトルにあるとおり、「偶然」をテーマにした物語です。物語の導入は著者である村上春樹自身の偶然で奇跡のような体験から書かれています。2つの偶然について書かれていますが、その2つともが音楽に関してでした。
1つ目はジャズ倶楽部の出来事です。村上春樹がアメリカにいたある日のこと、愛好しているジャズピアニストであるトミー・フラナガンのピアノをジャズ倶楽部に聞きに行きました。楽しみにして聞きに行ったのですが、その時のトミー・フラナガンの演奏はパッとしないものだと感じていました。村上は、ぜひ、「バルバドス」と「スター・クロスト・ラヴァーズ」の2曲を弾いてほしいと頭で考え始めます。
この2つの曲目は愛好家でないと分からないようなとてもニッチな曲でした。通常であればポピュラーな曲を引くので、この2つが選ばれることはありえません。しかし、この夜は何かか違ったのです。トミーが村上に引いてほしい曲を訪ね、「バルバドス」と「スター・クロスト・ラヴァーズ」を弾いてくれたのです。これが1つ目の偶然。
そして、2つ目の偶然も音楽にまつわるものです。ある中古レコード屋に村上春樹が訪れた時のことです。
村上は、「10 to 4 at the 5 Spot」という古いLPレコードを見つけ購入しました。その店から出る時に、入ってきた若い男の人に「Hey, you have the time?(今何時?)」と訪ねられました。村上が答えた時間が「Yeah, it’s 10 to 4」でした。この時、彼はジャズの神様はいるのだろうかと考えたそうです。
物語は著者自身の偶然な体験から、彼の友人が実際に体験した偶然体験にシフトします。その友人はピアノの調律師を行っている男性でゲイでした。
この調律師は、火曜日にとても空いているカフェで読書をするのが趣味でした。あるとき、チャールズ・ディッケンズの『荒涼館』という小説を読んでしました。これは、あまり有名ではない小説で、同じショッピングモール内にある本屋さんで買ったものでした。
時間になり、カフェを出ようとしたときに、ある女の人に声をかけられました。「その小説はもしかして荒涼館ですか?」と。なぜならば、その女性も、調律師の隣で、ずっと同じように『荒涼館』を読んでいたというのです。偶然にも本を買った場所まで同じだと言うのです。
世の中にこんな偶然はなかなかありません。この偶然をきっかけにして、この男女は一気に仲が良くなります。しかし、女性は調律師がゲイだとは知りませんでしたし、調律師もゲイだとはわざわざ自分から告白することはしませんでした。2人の仲がどんどん深まるにつれて、女性の方が調律師に恋をしてしまいます。
女性は深い関係になろうと調律師を誘いましたが、そのことをきっかけに、調律師はゲイであることを告白したのです。女性は泣きました。理由を聞いてみると、明日が乳がんの再検査の結果が判明する日あり、結果が思わしくなかった場合、すぐに切除しなければならないということで、とても情緒不安定になっていたようです。女性は結婚もしていたので、これっきりさよならすると近いその場を立ち去ります。
こうして、女性の恋は終わったのですが、それをきっかけに調律師は何か女性のことが気になり始めました。調律師には、仲が良かった姉がいました。自分がゲイだということを告白してから急激に仲が悪くなり疎遠になっていたのですが、約10年ぶりくらいに電話をかけます。なんだか電話をしなければいけない気がしたようです。電話をかけると姉はびっくりした様子でしたが、会いたいと言ってくれました。
この兄妹は約10年ぶりに再会です。ここでなんとも不思議な事実を調律師は姉から告げられます。彼女は、明日乳がんの手術だということなのです。女性にとって乳房を切除することは並大抵の覚悟がいるものではありません。
彼女は不安になっていて、弟にこの事実を知らせようと1度は考えたみたいですが、やはり知らせないと覚悟をした矢先に弟から電話がかかってきたようです。これをきっかけにこの兄妹は以前と同じような仲がよい兄妹に戻って行きました。
第1話の「偶然の旅人」はここで幕を閉じます。この、なかなかない、それでいて何か大きな起伏がある訳でもない奇跡の物語は、不思議な読後感が魅力。奇跡ではあるものの、それが必然であり、自然にも感じられる、穏やかなストーリーです。
一人息子を事故でなくしたシングルマザーである、サチのお話です。彼女の息子は19歳のときに、アメリカのハナレイでサーフィンをしているときに、サメに右足を噛みちぎられなくなってしまいました。
その事件をきっかけに、彼女は毎年、決まった時期にハナレイに訪れるようになります。3週間ほど滞在して、息子が亡くなった海岸に座り、息子と同じような歳のサーファーをずっと眺めています。ある日、息子と同じように日本から来た2人組の、息子と同じような年齢のサーファーに出会いました。
その2人のサーファーは無防備にハナレイの街に訪れたので、ホテルやサーフボードを手配し少しだけ世話をしてあげました。息子と重ねてしまっていたのかもしれません。
あるとき、この2人のサーファーは右足がない日本人サーファーを見たと言い出します。それは、おそらく死んだはずの息子でした。それを聞いた彼女は彼の姿を探しますが、一向に見つかりません。彼女の前には姿を現さなかったのです。
彼女はまだ、息子の未練を引きずっているよう。それゆえ彼は、彼女の前には姿を現さなかったのかもしれません。彼女の巡礼は、息子の死を本当の意味で受け入れられるようになるまで続いていくのでしょう。
美しい景色とともに、母の悲しさが描かれた本作。潮の満ち引きのように、彼女の喪失感、巡礼の旅は絶え間なく変化しながらいつか息子との再会へと導いてくれることを願ってしまいます。
この話は映画化が決まっており、吉田羊らが出演。2018年10月公開予定です。
主人公が、胡桃沢という女性の夫を無報酬で捜索する物語です。主人公はある理由で、決まった失踪の形の対象の人だけを捜索している素人探偵のような人。失踪の理由は、誘拐や自殺、借金などではありません。
主人公は、失踪理由がわかっていました。彼女の夫は、現実世界から解放されたかったのです。それに気づいていた主人公は、彼が解放される世界を調べていましたそれが、それは高層ビルの階段でした。毎日26階もの階段の上り下りをしていたのです。彼にとってはこの階段こそ、唯一の安心できる場所でした。
結果的に彼は仙台駅で見つかります。20日間後の出来事でした。その間の記憶がないと彼は言っているようですが、これが本当のことなのか、演じているのかはわかりません。
いずれにしても彼は、現実世界にきちんと戻ってきたのです。居なくなったのも意図的であれば、帰ってきたのも意図的です。主人公は最後に心の中で「ようこそ戻られました」とつぶやいて物語は幕を閉じます。
主人公はなぜ無料であるにもかかわらず、こういった調査を行っているのでしょうか。それは、主人公自身も解放された空間を求めているからかもしれません。
この調査自体が主人公にとって、現実世界から解放される手段であり、唯一のものだと考えることもできます。だからこそ、そこにお金が介在する訳にはいかないので、あくまで無報酬という形でずっと調査をおこなっているのではないでしょうか。
男が一生に出会うなかで、本当に意味を持つ女は3人しかいない。これは主人公・淳平が、父親から教わったことでした。その言葉をもらったのをきっかけに、彼は出会う女性たちが、自分にとって意味のある存在であるかと自問自答するようになります。
やがて出会えた彼にとって本当に意味のある女性は、なんとあろうことか彼の親友と結婚してしまいました。
幼い頃からの夢だった小説家になった彼は、ある時キリエという1人の女性と出会います。彼と同じく、幼い頃からの夢を叶えた彼女。しだいに2人の距離は縮まっていきます。
しかし、そんなある日、彼女は彼の前から姿を消すのです。そして彼は、腎臓石の話を書き始めます。
腎臓石を体内に持つ女医は、夜毎に体を揺さぶる石に悩まされていました。彼女は石を捨て、恋人と別れることを決心。両方を捨てた彼女でしたが、捨てたはずの石は、なぜか毎朝彼女を待っているのでした。
この小説「日々移動する腎臓のかたちをした石」は、キリエがいなくなった後に発表されました。
そんなある日、移動中のタクシーで、彼はあるパフォーマーのインタビューを聞きます。それは紛れもなく、姿を消したキリエの声でした。淳平は彼女と連絡を取ろうとしましたが、やはり繋がらず……。彼女の存在の強さを確信した彼は、彼女を本当の意味をもつ2人目の女性に位置付けたのでした。
淳平が書いた小説で、彼が表現したかったこととは一体何なのでしょうか。小説に出てきた石。あれはきっと、キリエのことを表していたのでしょう。どんなに石を捨てても、毎夜体を揺さぶられる女医。それはまさに、キリエのことを忘れようにも忘れられない、淳平のことを表しているのではないでしょうか。
意味のある女性は3人しかおらず、その数字ばかりを気にしていた彼。しかし彼女と出会ったことによって、1人の相手をただ受容することの大切さに気づきます。彼にとって、彼女の存在はまさに腎臓のように体の一部となり、その存在はこれからも生き続けるのでしょう。
主人公であるみずきが、自分の名前を忘れてしまうことが気になり、区の心理カウンセラーに相談する物語。彼女はたまに、なぜか自分の名前がどうしても思い出せないときがありました。カウンセラーの名前は、坂木哲子といいます。相談していくうちに、坂木には彼女が名前が思い出せない理由がわかったというのです。
彼女が名前を思いだせない理由は、猿でした。品川に住んでいる猿が、彼女の名札を盗んでしまっていたのです。この猿は不思議な存在で、人の名前を盗むという悪趣味があり、言葉も話すことができました。猿は名前と一緒にその人が抱えているプラスの感情も、マイナスの感情も、一緒に盗んでしまいます。彼女は名前と一緒に、マイナスの感情も盗まれていました。
彼女が抱えていたマイナスの感情。それは、母と姉から愛されていないことでした。彼女もそれには気づいていたのですが、気づかないように目を背けていたのです。猿には、彼女のマイナスの感情がすべてわかってしまいます。そして、猿は彼女に伝えました。
その指摘に彼女は感謝をし、あらためて受け入れ、これからの未来を生きていこうと決心します。結果的に猿は感謝されて殺処分は免れ、高尾山に放されて物語は幕を閉じました。
彼女はこの猿に出会うことがなかったら、きっと自分の母親と姉と同じように、夫のことも心から愛すことはできなかったでしょう。その現実を突きつけるために、猿は彼女の名前を盗み、彼女と引き合わせたのかもしれませんね。
彼女はすぐに変わることはできないでしょうが、現実を直視できたことによって、それまでの自分を認め、少しづつ感情が変化していくのではないでしょうか。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 2005-09-15
「かたちあるものと、かたちのないものと、
どちらかを選ばなくちゃいけないとしたら、
かたちのないものを選べ。
それが僕のルールです」
(「偶然の旅人」より引用)
乳がん手術を目前にした女性に調律師が語った言葉です。なんとも深いセリフです。確かに人には目に見えるものにこだわる傾向があるでしょう。ですが、形があるものは、たいていお金で買えるものです。お金で買えるものよりも、お金で買えないものの方が価値があると言いたいのではないでしょうか。
「現実の世界にようこそ戻られました。
不安神経症のお母さんと、
アイスピックみたいなヒールの靴を履いた奥さんと、
メリルリンチに囲まれた美しい世界に」
(「どこであれそれが見つかりそうな場所で」より引用)
行方が分からなくなった胡桃沢の夫を探していた私が最後に言ったセリフです。ある理由で無報酬で旦那さんの行方を探していて、彼は20日間後に見つかりました。主人公である私は彼の失踪理由がわかっていたのだと考えられます。
このような調査を通して、主人公自身が、解放できる空間を探しているのかもしれませんね。
「それではありていに申し上げます。
あなたのお母さんは、あなたのことを愛してはいません。
小さい頃から今にいたるまで、あなたのことを愛したことは一度もありません。
どうしてかは私にもわかりません。
でもそうなのです。
お姉さんもそうです。
お姉さんもあなたのことを好きではありません。
お母さんがあなたを横浜の学校にやったのは、いわば厄介払いをしたかったからです。
あなたのお母さんと、あなたのお姉さんは、
あなたのことをできるだけ遠くにやってしまいたかったのです」
(「品川猿」より引用)
猿が、主人公・みずきに言ったセリフです。この言葉は残酷なことながら事実でした。彼女も目を背けていた部分でしたが、猿が現実を教えてくれたのです。彼女にこの事実を気づかせるために、猿は彼女の名前を盗み、彼女と引き合わせたのではないでしょうか。
彼女も、母親や姉が自分にしたように、旦那さんにも同じようなことをしてしまっています。自分の傷を振りかざし、他人に同じことを繰り返してはいけない。著者のそんなメッセージがこめられているのかもしれませんね。
あなたもぜひ、この世界観を原作でお確かめください。映画も楽しみな名作です。