5分でわかる『奥の細道』!ルートや場所、俳句の意味や解説をご紹介!

更新:2018.7.16

本作は、江戸時代の俳人である松尾芭蕉が江戸から平泉(岩手県)を目指し、さらにそこから日本海側を回り大垣(岐阜県)までを歩きながら俳句を作った旅についてまとめられた、俳句を好きな人々にとっては聖典のひとつに数えらえるほどの傑作です。 芭蕉はどのような目的で旅をし、何を思い多くの名句を残したのでしょうか?

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『奥の細道』のあらすじとは?「序文」「旅立ち」とともに紹介!

誰しもどこかで聞いたことがある『奥の細道』。いったい、どのような作品なのでしょうか?

本作は江戸時代の俳人・松尾芭蕉が、江戸を出発地として東北へ向かい、平泉に到着した後は日本海側を旅して、大垣に到着するまでの、旅の記録です。そのなかで創作された俳句も、作者自身の手で綴られています。

この俳句たちは名句として語り継がれ、国語の授業のなかでは必ずといってよいほど、取り上げられます。学校の宿題で暗唱したという方もいるのではないでしょうか?

本作の冒頭は、以下のような内容の書き出しで始まります。

「時は永遠の旅人で、人生は旅そのものである」
(『奥の細道』より引用)

これは芭蕉の人生観を表しており、ひとつの場所に留まることに執着せず、旅のなかで人生を生きようと考える彼の意志を表しています。彼はこの決意通り、この後の人生の多くを旅のなかで過ごします。

そこで生まれた俳句に今も多くの人々が心を動かされ、彼は俳聖として敬意を集めているのです。

著者
出版日
2003-03-01

『奥の細道』のルートと場所とは?その過酷な内容を簡単に説明!

 

本作には、実際に芭蕉一行が旅をした記録が記されていますが、その内容は驚異的なものでした。何が驚異的かというと、彼らの移動スピード。旅の総移動距離は、2,400km程にもなりました。その距離を3月の下旬に江戸を出発し、5月中旬に平泉に到達、そのまま9月初旬には大垣に到着するペースで歩き切っています。

つまり、わずか6か月にも満たない期間で、難所を含む旅の全行程を、景色を楽しみ、俳句の普及活動もしながら徒歩で完遂してしまったのです。旅の途中、知人の邸宅でしばらく留まることもあったため、実際に歩いた期間は、旅の全期間よりも短かかったはず。そんなスケジュールでこの距離を歩ききるためには、1日に50km程歩いた日もあるのだとか。

そのため芭蕉は忍者だったのではないか、という噂が現代にまで残っています。そうではなかったとしても、非常に丈夫な体を持ち、健脚であったことは間違いないですね。

 

松尾芭蕉って何者?

 

彼とは何者なのでしょうか?先ほど、上記のとおり忍者だったのではという話もありましたが、それは彼の出身地と関連付けられての事かも知れません。

松尾芭蕉は徳川家の3代将軍家光の時代に、伊賀上野(三重県)で生まれました。伊賀忍者の里ですね。ここから忍者と連想されたのかもしれません。

彼の家は、苗字を名乗る事を許された、準武士という社会階級の家柄でした。生活に困窮するほどではないが、出世も望めないという立場を悟り、自らの活路を文芸、特に俳句に求めます。そして29歳の時に、江戸へ修行に向かうのです。

そこでの紆余曲折の末、彼は旅のなかに自らの俳人としての理想を見出し、それに賛同した弟子や支援者の助けを借りて本作へと繋がる旅を始めます。

旅のなかに理想を見る彼の姿勢は、この後、生涯変わりませんでした。

 

『奥の細道』平泉の意味を解説!芭蕉はなぜ泣いた?

 

本作の旅の目的地は、平泉であったといわれています。そこは、どういった土地なのでしょうか?平成は源義経が、兄の頼朝から追われ逃げ込み、そして亡くなった土地として有名です。一時は奥州藤原氏の土地として栄え、鎌倉幕府も迂闊に手を出せない聖域のような場所でした。

しかし、そんな平泉も最終的には鎌倉幕府に滅ぼされ、芭蕉が訪れた時には夏草が生い茂る土地となっていました。

そんな、人の社会や人生の儚さを思い、彼はあの有名な俳句を残し、涙したと伝わっています。「夏草や……」と始まるあの俳句ですね。

口語訳は、「今は夏草が生い茂っているこの土地も、昔は武士たちが栄光を夢見て戦った場所なのだな」というような意味ですが、原文を読んだ方が彼の伝えたかったことを理解しやすいのではないかと思います。

 

河合曽良とは?その生涯

著者
松尾 芭蕉 萩原 恭男
出版日

 

この旅は、芭蕉の一人旅ではありませんでした。優秀な弟子とともに旅をしたのです。その弟子の名は、河合曽良。本作のなかでも、曽良という名が時折登場します。

彼は芭蕉より5歳年下の弟子で、俳句だけでなく地理や神道にも通じ、その博識で旅を支えました。スケジュール管理も彼がおこなっており、そんなしっかり者の性格の弟子を芭蕉も重宝し、頼れる秘書のような存在でもあったようです。

この旅について、芭蕉とは別に彼も『曽良旅日記』を書き上げ、こちらも貴重な文化財となっています。芭蕉との旅の後に幕府の巡見使となった彼は、九州を廻っている途中に長崎県で病没。墓所は長崎県壱岐島の能満寺にあります。

 

『奥の細道』の最後の俳句を解説!なぜ大垣だった?

著者
出版日
2003-03-01

 

長い旅を終え、芭蕉は大垣へと到着します。ここで、少し疑問が残ります。彼はなぜ、江戸に帰らなかったのでしょうか?この疑問に対しては、彼は自らの生き方で答えてくれていました。

人生は旅である。ひとつの場所へ留まることはしない。

そんな彼にとって、江戸は帰る場所ではなく、人生という旅の途中で一時立ち寄っただけの場所だったのではないでしょうか?大垣へもゴールとしてではなく、俳人仲間に手土産を持って立ち寄っただけで、その後再び、彼は次の旅へ出発します。

本作の最後の俳句は、そんな旅を続ける彼の姿を表現しています。「蛤の……」で始まる俳句ですね。意味は、「蛤のふたと身とがわかれるように、自分を見送る人々と別れて出発する……」のようになっていますが、これも原文を一読することをおすすめします。

きっと読んだ方の心に何かを残すのではないでしょうか?

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