1928年に発表された本作ですが、この物語は裁判にまでなって世間の注目を集めました。今回はそんな本の内容から裁判の内容まで、詳しく解説していきます。どうぞ最後までご覧ください。
本作は、コニーと森番・メラーズとの恋模様を描いた小説です。それは禁断の恋でした。彼女は最初、クリフォードという貴族階級の男と結婚をしていましたが、彼は戦争で下半身が不随となってしまい、介護が必要な体であったのです。
- 著者
- D.H. ロレンス
- 出版日
- 1996-11-22
コニーは自分の義務だと思い、献身的な介護をおこなっていました。しかしある時、自分の生活に対して疑問を持ち始めます。このままでよいのか?この生活は果たして幸せなのか?そんな疑問が、ふつふつと湧き始めたのです。それが時として、虚しさや寂しさとなって彼女を襲ってくるのでした。
彼女は27歳であり、クリフォードとの性生活もないただの介護生活は、そうとう厳しかったのでしょう。27歳といえばまだまだ元気で、旦那さんとたくさん愛し合いたい年頃なのではないでしょうか。
コニーの空虚感は日増しに強くなっていきます。そして、どんどん体調がすぐれなくなっていくのでした。そんな彼女の代わりに、ボルトン夫人という家政婦が来るようになります。ボルトン夫人が来たことで時間のできた彼女は、気晴らしに近くの森へ出かけるようになりました。
森にはクリフォードが雇っている森番のメラーズという男が住んでいました。彼はクリフォードが雇った人物で、すでに結婚していましたが奥さんとうまくいかず、子どもを実家に預け逃げてきていたのです。
奥さんとはほとんど離婚しているようなものでしたが、正式な手続きはしていません。戸籍上はまだ結婚していることになっていたのです。
そんな彼とコニーは、いつの間にか恋に落ちてしまいました。お互いが結婚しているため、禁断の、不倫の恋です。1度恋をしてしまった2人は、どんどんその恋に溺れていきます。そして、彼女が森に出かけては愛し合うという生活が始まってしまいました。
物語は2人の恋模様を中心に描かれていきます。果たして彼女達の運命はどうなってしまうのでしょうか。
彼は、イギリスのノッティンガムシャー出身の小説家です。1911年に小説家としてデビューしています。彼の作品は「性」を大胆に取り扱い、近代文明がいかに人間生活に悪影響を及ぼすかをテーマにした作品が多いことが特徴です。実は彼は、コニーと同じように禁断の恋に落ちています。
相手は、師匠であったアーネストの妻である、フリーダという女性です。2人は駆け落ちしてミュンヘンへ行きましたが、当時は第一次世界大戦の真っただ中。その結果イギリスのスパイと疑われてしまい、逮捕されてしまいます。その後はイギリスに戻り、2人で過ごしました。
彼の著作には『侵入者』『息子と恋人』『虹』など、数々の有名なものがあります。
本作に登場する人物を簡単にご紹介いたします。
コニー・チャタレイ
物語の主人公。チャタレイ家に嫁いだ若く、美しい令嬢です。下半身付随の夫に献身的に尽くしますが、徐々に空虚感に苛まされます。そんなとき森番のメラーズと出会い、肉体的にも精神的にも恋に落ちていきます。
クリフォード・チャタレイ
チャタレイ一族の長。第一次世界大戦中に下半身を負傷して不随になっていまい、車椅子生活を余儀なくされてしまいました。貴族を絶対的なものと考え、貴族以下の人物を同じ人種だと思っていません。コニーに対して歪んだ愛情を持っています。
オリヴァー・メラーズ
クリフォードが雇った森番。人を嫌い、ひっそりと暮らしたいと考えています。とても頭が良く、クリフォードからの信頼も暑い人物でしたが、コニーと出会い、禁断の恋に落ちてしまいます。
ヒルダ
コニーの実の姉。コニーのストレスに気づき、外に気晴らしに行こうと提案します。
ボルトン夫人
ヒルダの提案によってチャタレイ家に雇われることになった、とても能力が高い家政婦。コニーの代わりにクリフォードの身の回りの世話をおこないます。いち早く、コニーとメラーズの関係に気づいた人物です。しかし、クリフォードに告げ口するような真似はしませんでした。
実はこの作品がきっかけで、ある裁判が起こっていました。本作を日本語訳した伊藤整さんと、版元である小山書店の社長である小山久二郎さんに対して、刑法第175条である、わいせつ物頒布罪が問われたのです。
1951年から始まったこの事件。当時、日本は終戦直後で連合国軍最高司令官に統治されていたため、本作の日本語訳が検閲され、最高裁まで争われました。
当時の日本語訳としては、過度なわいせつ表現であったようです。これはあくまで、当時の日本の基準に当てはめると「過度」だということです。結果、伊藤整さんと小山久二郎さんは有罪になってしまいます。そのため当時の日本語訳は、発売禁止となってしまいました。
この裁判は、わいせつ物頒布罪に該当することになりましたが、論点は表現の自由についてでした。結果として、わいせつの判断が憲法に抵触するとのことで、有罪になり、表現の自由は認められなかったのです。この最高裁の結果は後に、その他の裁判にも強い影響力を与えたといわれています。
そして、なんと1960年には、ローレンスの本国イギリスでも同様の事件が起きました。『チャタレイ夫人の恋人』がまたしてもわいせつということで訴えられたのです。結果は、陪審員の満場一致で無罪。イギリスでは表現の自由の方が優先されたようですね。
この結果をみると、国によって価値観はさまざまだということを思い知らされます。
本作は裁判によって、ある翻訳部分が削除されてしまいました。その部分は、一体どのような表現だったのでしょうか。紹介とともに、解説させていただきます。
彼の指は、彼女の腰と尻の、デリケートな暖かい秘密の肌を愛撫していた。
彼はかがんで、自分の頬を彼女の腹に、また彼女の腿に擦りつけた。
すると、またしても彼女はそれが彼にどんな喜びを与えているのだろうと考えた。
彼女の生きている秘密の肉体に触れることによって、彼が彼女に見出している美、
ほとんど美の陶酔というべきものが、彼女にはわからなかった。
何故なら情熱のみがそれを感知するからだ。
(『チャタレイ夫人の恋人』より引用)
「秘密の肌を愛撫」や「秘密の肉体に触れる」の言葉がわいせつとなったのでしょうか。この引用部分をみると、現代では何も問題がないように感じますね。
また、次の内容も削除された部分なので合わせてご紹介させていただきます。
彼女は、彼の頬が自分の腿や腹や尻を滑るのを、
また彼の口髭や柔らかな髪がぴったりと肌を撫でてゆくのを感じ、
やがて膝を震わせはじめた。
自分のずっと深いところで、新しい戦慄が、新しいむき出しなものが
うごめき出すのを感じた。
そして半ば怖ろしくなった。
そして彼がそんなふうに愛撫してくれないことを、半ば願った。
彼女はなんとなく追いつめられたように感じた。
だが、彼女は待ちに待っていた。
(『チャタレイ夫人の恋人』より引用)
確かに少し官能小説のような表現が見受けられますが、発売禁止となるほどの表現ではないと考える方のほうが多いのではないでしょうか。
法律上のわいせつの定義は「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」として記載されています。それは、事実がどうなっているかどうかが問題なのではなく、法的価値判断が問題とされたようです。
つまり完訳本が出版された当時だからこそ問題になったのであり、現代で同じような表現の小説が出版されたとしても、裁判にはならないのでしょう。
やはりこの事件の背景にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が大きく関わっているのだと考察することができます。彼らは日本を統治下に置くために、なるべく支配をしようとしました。
彼らにとって「表現の自由」とはある意味で、とても危険なものです。表現の自由に対して、1度でも大目に見ることをしてしまえば、それが悪しき事例となり、表現の自由を掲げてメディアが何を書くかわかりません。
彼らは情報をなるべく制限して、日本を支配する必要がありました。これは表現の自由に対して、日本国民にある程度の抑制をさせる狙いもあったのではないでしょうか。この事件が見せしめになり、日本はGHQの統治国家として従順にしたがっていったのではないかとも考えられます。
本作の裁判の模様は、書籍にもなっています。それが、この本です。
- 著者
- 倉持 三郎
- 出版日
- 2007-03-01
日本では有罪判決になった事件ですが、イギリスとアメリカでは無罪となっています。この判決の差はなんなのか。なぜこのような判決結果となっているのかについて、詳しく解説されています。
日本、イギリス、アメリカの全ての裁判を比較し、それぞれの国の法律の解釈、一般国民の平均的な価値観を取り上げて解説されています。なぜ、同じ本で同じような訴訟内容なのに、日本は有罪になり、イギリスとアメリカは無罪になったのでしょうか。気になる方はぜひご覧ください。
本作は男性支配的な社会制度に問題提起を投げかけている、という見方をすることもできます。コニーは当初、夫であるクリフォードに献身的に尽くしていました。当時は完全に男性優位の社会なので、これが当たり前の価値観であり、「一般的な」女性の姿だったのでしょう。
これはあくまで当時の話しであり、現代に生きる女性にとってはあまりピンとこない話かもしれません。男性であれ、女性であれ、同じ人間です。
ロレンスは、女性は男性の言いなりに人生を過ごすよりは、女性自身も自立心を持ち、社会を生き抜いていく力や心を持ってもいいと考えたのではないでしょうか。女性が開放的になることで、社会がよりよくなっていく。そして女性が普通に恋愛をし、普通に愛し合うことはとても素晴らしいことであると伝えたかったのかもしれません。
本作は、各出版社から翻訳本が出ています。おすすめは、なんといっても伊藤整の訳した『チャタレイ夫人の恋人』です。当時は発禁処分を受けましたが、今では完訳版が新潮社から出版されています。
また、ちくま文庫版や、光文社古典新訳版からも出版されています。こちらの2つは比較的新しいため、現代の人でも読みやすいでしょう。
まず、ちくま文庫や光文社古典新訳版を読んでから、伊藤整が書いた完訳版を読んでみるが面白いかもしれません。より一層、本作の世界観が深く理解できるでしょう。
将来のことを考えていると憂鬱になったので、
そんなことはやめてマーマレードを作ることにした。
オレンジを刻んだり、床を磨いたりするうちに、
気分が明るくなっていくのにはまったくびっくりする。
考え事がまとまらないときや、鬱々とした気分のときなどは、この名言がピッタリかもしれません。
性の炎が消え去った人間ほど醜いものはない。
誰もが避けたがる汚らわしい粘土のような生き物だけが残るだけだ。
彼は、性欲というものは素晴らしいものだと考えていたようです。本作でも同様の考えを提示していますね。
娼婦のところに赴いて男がすることといえば、妻にすることと同じであるけれども、
ただ方向が反対なのである。
同じ行為でも、2つの側面があるという事実を気付かされます。
あらすじにも書きましたが、コニーは森番のメラーズと何度か会うと、恋に落ちてしまいました。はじめは肉体的な結びつきでしたが、徐々に精神的にも深く深く結びついていきます。最後はからみ合い、ほぐれないほど深く結ばれたのです。
しかし、お互い別の相手がいます。メラーズと妻の関係は破綻しているとはいえ、戸籍上はまだ結婚しているのです。コニーの方も、もちろん結婚しています。2人は禁断の恋に陥ってしまったのです。しかし、そういうものほど魅力があるのでしょう。
彼女は、奴隷のような生活から自立したいと考えていたのかもしれません。彼との出会いをきっかけに、彼女の心は徐々に変化していきます。自立心が芽生え、自分の力でこの世界を生き抜いていこうと考え始めるのです。彼女の行動には、著者であるローレンスのあらゆる考えが投影されています。
とうとう、メラーズの子どもを妊娠してしまったコニー。彼と出会うまでは、女性としての本当の喜びや幸せというものを知らなかった彼女ですが、彼と出会ったことによって、母性的な優しさを持つようになりました。
心の底から愛している人との間にできた赤ちゃんを生むことは、女性にとっての最大の喜びであることに気づくのです。
もちろん彼女は、生むことを決心します。たとえ1人でも、育てることを心に誓ったのです。しかし、この時点で問題は山積みです。メラーズは、妻であるバーサクーツと正式と、離婚しなければいけません。コニーもクリフォードと離婚しなければいけません。
お腹にいる赤ちゃんが、正式にメラーズとコニーのもとで幸せに育てられるためには、このとても大きな問題を2人で乗り越えなければならないのです。この問題に、2人はどう向き合っていくのでしょうか。そして、物語はクライマックスを迎えます。
- 著者
- D.H. ロレンス
- 出版日
- 1996-11-22
結果的に、メラーズは妻であるバーサクーツに、コニーのことを村中にバラされるという一悶着がありました。しかし、半年後にはなんとか離婚することになります。
問題はコニーの方でした。彼女はクリフォードにメラーズとのこと、そして、お腹にいる赤ちゃんのこと、全てを話します。しかし彼は、彼女の申し入れを聞かず……。
果たしてクリフォードがとった行動は?そして、コニーとメラーズの運命は?気になった方は、ぜひ本作をお手に取ってみてください。