『アンネの日記』をご存知でしょうか?聞いたことはあっても、読んでない人もいるかもしれません。これは、ナチスの支配下だったドイツを離れ、オランダのアムステルダムで隠れ暮らしたユダヤ人一家の少女、アンネ・フランクが書いた日記です。 ここには、いったい何が描かれていたのでしょうか?戦争の悲しみがわかる内容から、少女らしいちょっと意外な内容まで、詳しく紹介します。
本作はタイトル通り、彼女が隠れ家で暮らした日々を記したものです。
当時、ナチスの政権下に落ちたドイツでは、ユダヤ人への迫害が厳しくなってきていました。そのためフランク一家は、オランダのアムステルダムへ亡命することになります。
彼女たちがアムステルダムへ行く前、1942年の6月12日、アンネ・フランクは13歳の誕生日に一冊のサイン帳を両親からプレゼントされます。このサイン帳を、彼女は日記帳として使い始めました。日記のなかで「キティー」という架空の友達を作って、手紙のような形で書き記していったのです。
これが『アンネの日記』です。
彼女は、隠れ家の日々の出来事、母や父や姉の話、食料が不足していること、一緒に隠れ家に住んでいた同居人たちのこと、ナチスへの思いなどを自らの感性で書き連ねました。
制限も多く、外出もできない暮らしでしたが、当時のユダヤ人たちがどのような暮らしをしてきたかが垣間見える、貴重な資料にもなっています。
- 著者
- アンネ フランク
- 出版日
しかし、この日記は2年と少しで終わってしまいます。
隠れ家がゲシュタポ(ユダヤ人を取り締まる機関)に見つかってしまい、フランク一家をはじめ、隠れ家の住人たちは強制収容所に連れていかれてしまったのです。必要最低限の荷物だけといわれ、この日記は隠れ家に残されることとなりました。
その後かくまっていたオランダ人、ミープ・ヒースが散乱していた荷物から日記を回収し、保管。そして唯一生き残った父、オットー・フランクによってこの日記は書籍化されました。当初はごく少数配られたのみでしたが、徐々に評判を呼び、多く出版されることとなったのです。
そうして世界に本作は広まり、当時の貴重な資料として、また普通に暮らしていた少女が何の罪もなくこのような生活を強いられたことへの戒めとして、今に至るまで多くの人に読まれています。
アンネは、戦争が終われば、自分の日記を出版する予定でした。そのため、彼女が書いた日記は自分用に付けていたものと、出版用の清書と、2種類存在していたのです。
彼女が日記を出版する願いは叶いませんでしたが、父オットーがその2冊を編集して出版しました。ですが、そこは父親として、彼女の赤裸々な思いを皆の目に触れさせるのは気が引けたのでしょう。後に彼がカットした部分や、新たに見つかった部分が追記されたものも出版されたのです。
彼女は日記に、ナチスへの不満や生活のこまごまとしたことだけでなく、母親への愚痴や不満をかなりおおっぴらに書き記していました。「とにかくママが我慢ならない」「パパの手伝いならいくらでもやるけど、ママの手伝いなんてごめんです」など。ちょうど反抗期だったのかもしれません。
時には、仲良くしなくては、という反省も書いてあるのですが、多くは母の悪口です。姉マルゴット(愛称マルゴー)がおとなしく成績もよかったので、比べられるのも気に食わなかったようですね。
また、日記には思春期の女の子らしい「下ネタ」も書き記されていました。彼女にとって「没」となったページに「下ネタ・ジョークを書くことにする」と書いてあったのです。
内容は性教育についてや売春婦、誰かにセックスについて説明する羽目になったら……など、年頃の女の子が興味を持つようなことでした。この内容はのちに紙を貼り付けられ、人の目に触れないようにしてありましたが、研究者の画像解析によって発覚してしまいます。
数十年の時を経て、自分のジョークが世界中に発信されるとは思ってもいなかったでしょうね。
隠れ家での生活は、とても制限の多いものでした。
かくまってくれている人の事務所の裏に隠れ家があり、フランク一家4人と、ファン・ペルス一家3人、また歯科医のフリッツ・プフェファーの計8人でひっそりと暮らしていました。
見つかれば収容所に連れていかれるという恐怖のなか、昼間は事務所の人にばれないよう、カーテンは閉めたまま静かに過ごし、トイレの使用さえ時間を制限されていたのです。狭い隠れ家の中に8人もいれば、アンネと母のケンカだけでなく、ほかの人たちの間でもさまざまな問題が起こります。
町に隠れ住んでいたほかのユダヤ人が連行されていくニュースを聞いたり、かくまっていた八百屋さんが逮捕されたり、本当にギリギリの生活を強いられていたのです。
そんななか、アンネは一緒に隠れ家で暮らすペーターに恋をします。
彼は内気な男の子。日記からは、彼女が彼に片思いをしているところが読み取れます。やがて2人は想いが通じ合い、屋根裏部屋で多くの時間を過ごすことになりました。外にも出られない、音も立てられない不自由な生活。そんななかで、寄り添いあっていたのでしょうね。
また日記には、ペーターと初めてキスをした日もつづってあります。「わたしの一生の、とても重要な日だ」と。当時、彼女は15歳。こうして日記に書いてある思いだけを見れば、本当に普通の女の子です。
徐々にペーターへの思いは薄れていきますが、2人は結局、ナチスの親衛隊によって引き裂かれてしまうこととなります。
さて、フランク一家を初めとする8人をかくまっていたミープ・ヒースというのはどんな人だったのでしょうか。
元々彼女は、アンネの父オットーが所有・経営する会社の従業員でした。仕事ができた彼女は、社内に欠かせない「何でも屋」として活躍することになり、やがてオットーとも個人的に親しくなっていったのです。
恋人のヤン・ヒースとともにたびたびフランク家の食事会にも招待されるなど、家族ぐるみでの付き合いがありました。
オットーとミープは、よほど信頼関係があったのでしょう。彼女がヤンと結婚した際は、フランク一家と会社の社員たちがそろって出席。翌朝には、会社でお祝いのパーティをするといった具合でした。
ユダヤ人狩りが横行する最中、隠れ家生活をすることに決めたオットーは、非ユダヤ人であった最も信頼できる社員たちに相談し、手助けを願います。そのなかの1人に、彼女はいました。
8人が隠れ家生活をしている間、彼女とほかの協力者たちは、必死で彼らの存在を隠し通したのです。
食料の確保は彼女がおこなっていました。自身もユダヤ人をかくまっている青果店に頼み、野菜を購入し、また偽造の配給切符を確保してまで、彼らの食料を調達したのです。
ナチスを恐れる人々が多いなか、自らが逮捕される危険性を冒してまで、彼らを助けたミープ。結局、ナチスの親衛隊に隠れ家は見つかってしまいましたが、彼女ら女性の協力者は連行されませんでした。
このミープによってアンネの日記は保管され、後に収容所を出てきたオットーに手渡されます。いうなれば、この彼女がいなければ本作が世に出ることもなかったのかもしれないのです。
オットー・フランクは、この隠れ家の住人の中で、唯一生き残った人でした。
戦後、開放されてから家族の生死を調べて周りますが、どれも悲しい情報ばかり。妻エーディトはアウシュビッツで、姉妹のマルゴットとアンネも、その後の収容所で亡くなっていました。
元々、銀行家で資産家だった家に生まれた彼は裕福な暮らしをしており、自身も経営者として成功していました。そのため家族は、一般よりもいい生活をしていたといわれています。
そもそも第一次世界大戦では、ドイツ軍の将校として働いていたので、オットーはドイツがユダヤ人を迫害するなどとは思ってもいませんでした。しかし、ナチスが台頭してきてユダヤ人の迫害が始まり、オランダへ亡命することになってしまいます。
彼にはいくつかの選択肢があったようです。以前仕事をしていたニューヨークへ行くことも選べました。しかし長い旅になってしまうこと、一家を食べさせていけるかわからないこともあり、オランダを亡命先に選びました。
しかし、結果それが家族を離散させ、彼をたった1人きりにしてしまった原因となってしまったのです。彼の悲しみはいかばかりだったでしょうか。
オランダに帰ってきた彼は、ミープからアンネの日記を受け取り、自ら編集して出版します。もちろん父親として見せたくない、母への愚痴や性に対する興味の部分はきちんと手を加えて。
彼らの隠れ家を通報した犯人も、彼は生涯を通して探しましたが、結局わかりませんでした。これは、今でもわからないとされています。実は通報があったのではなく、偽造した配給切符の捜査の途中に見つけられたのではないかともいわれているのです。
本作が有名になり、彼は日記を通じて世界に愛することの大切さを訴え続けました。『アンネの日記』は、彼の一生涯の仕事となったのです。
彼も、生き残っていなければまた、本作は日の目を見ることはなかったでしょう。
当時のユダヤ人の暮らしを垣間見せてくれる本作ですが、でっち上げたものだという説がこれまでに何度か出ています。この日記は偽物、そんな少女はいなかったという主張が、ホロコースト否認論者(ユダヤ人に対する大量虐殺、また、その一部を否定する人たち)の人々から出ていたのです。
これに対し、父オットーが訴訟を起こして勝訴したり、アンネを捕らえた将校を探し出して言質(証拠となる言葉)をとったことで、それらは幾度も否定されてきました。
なかでも最も白熱した論争は、「ボールペンで書かれている」とされた日記の部分についてです。ボールペンが普及したのは戦後の1945年以降のことであり、終戦前に使われるわけがない、という主張です。
しかし、それらは日記本体に書かれたものではなく、後年筆跡鑑定の調査のために書き込んだものであることも証明されました。しかもボールペンで書かれた痕跡があるのは、ルーズリーフ帳に挟まれたたった2枚の紙だったとか。これでは偽物だという主張も、信憑性にかけますよね。
また文体や筆跡などが大人びており、とても当時のアンネが書けたようなものではない、実はゴーストライターが書いたのだという説も出てきます。
実は先ほどのボールペンの筆跡も、インクの筆跡と同じだという話も出てきており、実はアンネが生きていて、収容所から出た後に書いたものではないか?もしくは、『アンネの日記』という小説を誰かが書いたのではないか?という議論もなされました。
オットーに頼まれたゴーストライターだと主張したメイヤー・レビンという男性も出てきて、ゴーストライター説が一部の人には信じられているようです。
- 著者
- アンネ フランク
- 出版日
思春期を隠れ家でおびえながら暮らし、それでいて日記の中でみずみずしい少女らしい感性を発揮したアンネ。そんな本作の、名言をご紹介します。
薬を10錠飲むよりも、心から笑った方がずっと効果があるはず
(『アンネの日記』より引用)
閉鎖的な環境で生きていても、笑いを忘れなかった彼女。毎日きっと影のような生活をしていたのにも関わらずこうしたことが言えるのは、彼女に心の強さがあるからではないでしょうか。
幸せな人は誰でも、他の人をも幸せにするでしょう
(『アンネの日記』より引用)
これも、彼女の強い心情が伝わってくるようです。決して幸せな環境でなかった彼女の、この言葉は、今平和な世界に住んでいる私たちの心に響きます。
私は、死んだ後でも、生き続けたい。
(『アンネの日記』より引用)
戦争が終わったら作家になりたかった彼女。彼女の夢は半ばで終わってしまいましたが、彼女がしたためた日記は、こうして我々の手元にあります。彼女の幸せ、平和への思いは彼女が死んだ後でも生き続けているように思います。
私が私として生きることを、許してほしい。
(『アンネの日記』より引用)
ナチスに追われ「ユダヤ人」として、いわば人格を与えられなかった彼女。隠れ住み、誰かの手助けを借りないと生きられないこと。だけど彼女たちはそこで生きて、笑い、けんかし、恋をしていました。ユダヤ人だからといってそれらを阻害されることが、当たり前ですがあってはなりません。
彼女は隠れ家で、こうした思いを持って暮らしていたのです。
さて、いかがだったでしょうか?読んだことのある方も、まだ読んでない方も、アンネという少女と、その人生について触れてみるといいかもしれません。現在の平和の尊さ、愛のある世界にあらためて気づかされるかもしれませんよ。