哲学者であるニーチェが書いた小説。奥が深く、さまざまな思想が提示されています。この記事では、本作のあらすじなど、詳しく解説。また本作を読むうえで外せない名言の数々を、ランキング形式でご紹介していきます。ぜひ最後までご覧ください。
主人公であるツァラトゥストラが旅をしながら、自分の思想を伝えていくという物語。彼は10年間山にこもって、知恵を蓄えていました。
ツァラトゥストラの意味は、ゾロアスター教の開祖の名前であるザラスシュトラ(ゾロアスター)をドイツ語読みしたものです。
第一部「子供と結婚」では、彼の結婚への考え方が記載されています。
彼は、結婚は許された者だけがするべきだと述べています。お互いが畏敬し合う気持ちのことを結婚だと、彼は言うのです。そしてお互いよりも、もっとすぐれたものを作ろうとする意志が必要だと説いています。
もっとすぐれたものとは、「子供」のことでしょう。結婚については、それぞれいろいろな考え方があると思いますが、彼は「子供」をつくろうとする意志は必要だと説いているのです。つまり、パートナーとともに生きていくだけが結婚ではないということを意味しています。
世の中にはそうでない結婚が多すぎると、彼は嘆いているのではないでしょうか。恋愛を愚行と述べ、結婚を長期間のひとつのヘマと言うのです。このような結婚は、お互いが腹の探り合いをしており、とても畏敬の気持ちがあるとは思えないと訴えています。
そんな結婚はするべきではない。結婚はお互いを高め合い、すぐれた遺伝子を残すというとても神聖なものであると伝えたかったのではないでしょうか。
- 著者
- フリードリッヒ ニーチェ
- 出版日
- 1993-06-01
作曲家であるリヒャル・シェトラウスは、1896年に『ツァラトゥストラはこう語った』という曲を作曲しました。また、この楽曲は『2001年宇宙の旅』という映画のなかでも使用されています。
本作は、ちくま学芸文庫の『ツァラトゥストラ』や『ツァラトゥストラかく語りき』、『ツァラトゥストラはかく語れり』、岩波文庫の『ツァラトゥストラはこう言った』といったようなさまざまなタイトルで、同様の内容が出版されています。
そんな本作には、名言が多く登場。現代を生きる万人に読んでほしい内容となっています。以下ではそんな名言の数々を、ランキング形式でご紹介していきます。
こんなことがあってもいいものだろうか。
この老いた聖者は、森のなかにいて、まだ何も聞いてはいない。
神は死んだ、ということを
(引用『ツァラトゥストラ』より)
キリスト教信者に向けて訴えたセリフであると考察することができます。当時、キリスト教信者は、自分たちの世界観を絶対的なものとしており、その価値観に固執していたのではないでしょうか。
視野が狭くなり、現代社会の変化にまるで気づかない思想は、危険と感じたのではないかと考察することができます。
わたしは諸君に超人を教える。
人間は、克服されねばならない何かだ。
君たちは人間を克服するために、何をしたか。
(引用『ツァラトゥストラ』より)
ツァラトゥストラが、群衆に向かって投げかけた言葉です。ここでいう「超人」とは、スーパーマンなどではなく、絶えず新しい価値観を創造する存在のことを指しています。
この「超人」とは、ニーチェが提唱した概念のひとつです。彼は本作をとおして、人間関係がこじれることを懸念し、何も変えたがらない一般大衆を「畜群」として罵っています。
そのうえで永劫回帰の人生おいて、超人的な思想を求めるべきだと述べているのです。永劫回帰とは、これもニーチェが提唱した概念であり、人生は1回限りというわけではなく、超人的な意思によって、ある瞬間とまったく同じ瞬間を次々にくり返すことを確立するという思想です。
超人は大地の意義である。君たちの意思はこういうべきだ。
超人よ大地の意義であれ、と。我が兄弟よ、わたしは心から願う。
大地に忠実であれ、そして諸君に地上のものならぬ希望を語るものどもを、
信じてはならないと。
自らそれを弁えていようといまいと、彼らは毒を盛ろうとしているのだ。
(引用『ツァラトゥストラ』より)
ニーチェはキリスト教の死後の世界を徹底的に批判していたのだと、推測することができます。キリスト教の教えを「毒」と表現している当たりが、キリスト教との確執を物語っていますね。
彼はなぜ、キリスト教を批判していたのでしょうか。ニーチェはキリスト教の価値観が、自分たちの人生を否定し、台無しにしてしまうと強く確信していたのです。
キリスト教とは、強者に対して仕返しを欲してふさがってしまった弱者の心であるという、ニーチェ独自の価値観から生まれたものでした。
この独自の価値観から、人生をよりよく生きるために、考えに考え抜かれた思想が本作に反映されているのかもしれませんね。
もっとも重いもの。それは、
おのれの傲慢に痛みを与えるために、
みずからを卑しめることではないか。
己の知恵をあざけるために、
みずからの愚劣を明るみに出すことでは。
精神はかつて「汝なすべし」を。
みずからのもっとも聖なるものとして愛した。
今や精神はこの
もっとも聖なるものの中にすら、
妄想と恣意とを見いださざるを得ない。
こうして彼はみずから愛していたものからの自由を奪いとる。
この強奪のために獅子が必要なのだ
幼子は無垢だ。忘れる。
新たな始まりだ。遊ぶ。
みずから回る輪だ。最初の運動だ。
聖なる「然りを言うこと」だ。
(引用『ツァラトゥストラ』より)
ツァラトゥスゥトラは、人間の精神の3段階の変化を、駱駝、獅子、幼子の3つにたとえて説明しました。
駱駝は、世間の常識といわれるような、古い価値観に絶えうる精神力。獅子は、それを破壊する自由な精神力。幼子は、いろいろなものを創造する、純粋無垢な精神力を表現しています。
古い価値観はまわりを変化させません。ツァラトゥスゥトラは第一部の「子供との結婚」でも言っているように、変化しない古い価値観をよしとしませんでした。これらには、もちろんキリスト教の教えも入っていることでしょう。
そのような価値観を壊し、新たな価値観を創造していくことこそが、この世で最も尊いことだと伝えたかったのではないでしょうか。幼い子供が一人遊びを覚えるように、人間は固定観念にとらわれず、常に考え続ける力と精神力が必要なのだと考察することができます。
見よ。わたしは諸君にこの最後の人間を示そう。
「愛って何? 創造って? 憧れって? 星って何?」
最後の人間はそう尋ねて、まばたきする。その時大地は小さくなる。
そしてその上で、一切を小さくする最後の人間が跳ね回っている。
その種族は地蚤のように根絶やし難い。最後の人間はもっとも長く生き延びる。
彼らは生きるに苦しい土地を見捨てる。温もりが要るから。
やはり隣人を愛し、その身をこすりつける。温もりがいるから。
病気になること、不信を抱くことは、彼らにとっては罪である。
用心してゆっくりあるく。石に躓いても、人に躓いても、そいつは世間知らずの阿呆だ。
ときどきわずかな毒を飲む。心地よい夢が見られるから。
そして最後には多くの毒を。そして心地よく死んでいく。
働きもする。労働はなぐさめになるから。
しかしなぐさめが過ぎて、身体をこわさないように気づかう。
彼らは悧巧で、世間で起きることならなんでも知っている。
だから彼らの嘲笑の種は尽きない。口げんかくらいはする。だがまもなく仲直りする。
そうしないと胃に悪いから小さな昼の快楽、小さな夜の快楽をもっている。
だが健康が第一だ。
「僕らは幸福を発明した」
最後の人間はそう言って、まばたきする
(引用『ツァラトゥストラ』より)
ツァラトゥストラは自分の思想について、聞く耳をまったく持たない群衆に対して、末人の話をしました。末人とは「生きている」人のことではなく、生を浪費しながら「生かされている」人のことを指しています。
末人は安楽を求め生きています。安楽を求め続けて生きていけば、その世界に創造はなく、発展はないとニーチェは懸念していました。彼はこの「生かされている」人のことを、痛烈に批判していたのです。
末人の生き方は、現代人そのものではないでしょうか。現代医療や科学の技術によって人々の寿命は大幅に伸びていますが、その伸びた分、彼が提唱する超人の生き方ができているかと問われると、実践できている人はほんのごくわずかのように感じます。
それだけに尊い存在でもあるのが超人であると考察することができ、だからこそ彼は、超人を目指せと説いていたのかもしれません。
- 著者
- フリードリッヒ ニーチェ
- 出版日
- 1993-06-01
ニーチェは本作をとおして、何を伝えたかったのでしょうか。彼が本作を書いた時代は、産業革命によってドイツが発展して、人々はだんだんと神を必要としなくなりだした時でした。
そんな時代背景もあって、神がいない時代をどう生きていくかを伝えたかったのではないでしょうか。ドイツは急激な発展を遂げたため、神という絶対的なルールがあいまいになりました。経済は発展したものの、いろいろな統制が取れなくなってきていたのだと推測することができます。
ですがニーチェの考え方は、当時のドイツにはあまり受け入れられませんでした。しかし時代を超え、彼の考えは、この現代でも生き続けています。
この記事でご紹介したニーチェの考え方は、ほんのごく一部です。気になる方はぜひ本編をご覧ください。