ノーベル文学賞を受賞したドイツの小説家・詩人のヘルマン・ヘッセ。そんな彼の代表作が本作です。とても有名な作品ですが、内容を知らないという方も多いのではないでしょうか。 今回の記事では、そんな本作のあらすじ、名言などを紹介します。これを読んで、ヘッセの代表作に触れてみてください!
まずは本作のあらすじと、タイトルの意味をご紹介します。
ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトという町に、ハンスという少年がいました。彼は町が始まって以来の天才児と呼ばれており、神学校にも2位の成績で合格します。
将来有望とされた彼ですが、勉強ばかりしていた自分の人生に疑問を持ち、しだいに落ちこぼれていくよようになるのです。
- 著者
- ヘルマン ヘッセ
- 出版日
本作のタイトルでもある「車輪の下」という言葉は、作中で1度だけ登場します。
ここでいう「車輪」というのは、社会や学校などで、ハンスを追い詰めていく制度的な存在のことです。その車輪に踏み潰されていくことによって、彼の純粋な心はしだいに変化していくこととなります。
作中では釣りや、うさぎ小屋など、彼の好きな遊びやものが多く出てくる本作。しかし彼は、勉強のためにそれらを楽しめなくなったというのです。かつての純粋な心を失っていく、ハンス。その描写も、本作の見所の1つです。
本作の主人公。町始まって以来の天才児と呼ばれ、大きな期待を背負って神学校に入学します。年齢は明かされていませんが、13〜15歳くらいでしょう。従順で大人しい性格に見えますが、プライドが高い一面も。
ハンスの父親。男手一つで彼を育てました。厳格な性格です。
神学校でハンスが出会った友人。ハンスとは正反対の性格で、自由奔放な人物です。ハンスは彼に魅了され、周りの人物に止められるのも聞かずに交際をするようになります。
ハンスの友人のひとり。節約家で、勤勉な性格です。ヴァイオリンを習っています。
ハンスに語学を教えている人物。試験後の休暇にも勉強を勧めるなど、厳格な性格です。以下で紹介するフライクいわく不信者らしいですが、本当のところはわかりません。
靴屋の親方で、敬虔主義者。子供は遊ぶべきだという考えを持っています。神学校に合格したあとにも勉強を続けるハンスに忠告をしたり、牧師は不信者だと言ったり、作品のなかでは特殊な人物です。彼と牧師の対比は、本作のテーマを象徴しています。
ドイツを代表する小説家・詩人。神学校に進学しますが、「詩人になれないなら、何者にもなりたくない」といって脱走。職を転々としたのちに書店員になりました。その後『郷愁』でデビューし、作家生活に入ります。
- 著者
- ヘッセ
- 出版日
- 1956-09-04
人間の精神の幸福を問う内容が多く、作中ではしばしば哲学的な議論がくり広げられます。東洋の思想や仏教にも関心を持ち、釈尊を描いた『シッダールダ』という作品も著しました。
彼自身が神学校を逃げ出したり、15歳のときに自殺未遂を経験したりしている点からも、本作が作者の自伝的小説であることがわかります。
本作はハンスとハイルナーの交流が見所ですが、2人の関係は少年愛に近いものです。なんと驚くべきことに、ハンスはハイルナーにファーストキスを奪われます。
ハイルナーとの出会いをきっかけに、ハンスは学校生活や勉強に疑問を持ち、成績も落ちていきます。校長に注意されますが、改善されるどころか、症状は悪化。ついに心の病になって倒れてしまうのです。
1人の人間との出会いによって、人生が狂っていく……まさに恋愛のような展開です。ハイルナーは恋人ではありませんが、ハンスにとってはそれと同等くらい大切で、重要な存在だったのでしょう。
しかし、ハイルナーによって変わっていくハンスのことを、周りはよく思いません。周囲の人間はハイルナーとの付き合いをやめるように、彼に忠告します。しかし、彼は聞く耳を持ちません。そのうえどんどん素行が悪くなっていく彼に、友人も教員も、しだいに愛想を尽かしていきます。
そんななか、大切な存在であったハイルナーは問題を起こして、ついに退学してしまいました。仲間を失ったハンスに対し、ほかの友人は「一緒に出ていけばよかったのに」と皮肉を言うのです。
ハイルナーという存在を失い、彼はどうなるのでしょうか。
『車輪の下』は、言ってしまえば救いのないストーリーで有名です。ハンスはエリートとして神学校に入学しましたが、やがて落ちこぼれて、故郷に帰されます。精神的にも追いつめられ、周囲から白い目で見られることとなるのです。
そんななか、故郷に帰ってきた彼をさまざまなできごとが待ち受けています。休暇で遊びにきていたフライクの姪であるエンマに誘惑されたり、機械工として就職したり……。
機械工としての仕事は過酷でしたが、充実感がありました。仕事が終わったあと、旧友のアウグストとともに酒を飲みにいくのですが……。
救いのない結末で有名な本作ですが、ヘッセは本作にどんなテーマをこめたのでしょうか。
- 著者
- ヘルマン ヘッセ
- 出版日
- 1951-12-04
本作の題名になっている「車輪」とは、学校や社会などの制度のことです。ハンスはそれにつぶされないように、勉強して神学校に進みました。しかし、そのために結局は、彼も車輪に潰されることになったのです。そうして、彼は徐々に純粋な心を失っていきます。
同じようなできごとは、現代社会でも起こっています。就職したけれど、長時間労働で疲弊する人。名門校に進学したけれど、雰囲気や周りに馴染めな人。そういった制度に押しつぶされる人々は、いつの時代にもいるのです。
どんな生き方をしても制度からは逃げられないという、残酷な事実。そんな救いがないような現実を、本作では描いているのです。
社会で生きていくうえで避けられない理不尽なできごとや、避けられない現実。従わなければならないルールと、それを受け入れられない苦しみ……。本作で描かれているそれらは、どんな時代でも、若者にとっては避けられない葛藤でしょう。
そういった普遍の事実を描いているからこそ、現代に至るまで長く、世界中で読み続けられているのかもしれません。
- 著者
- ヘルマン ヘッセ
- 出版日
きみはこれらの勉強が好きでもないし自発的にやっているわけでもない。
そうじゃなくて先生や両親が怖いだけなんだ。
一番や二番になったからってそれがどうなる?
ぼくは二十番だったけど、ガリ勉のきみたちよりバカというわけじゃないよ。
(『車輪の下』より引用)
神学校をはじめとした制度を皮肉るセリフです。
人間は一人一人なんと違うことだろう、
そして育つ環境や境遇もなんとさまざまなことだろう!
政府は自らが保護する学生たちのそうした違いを公平かつ徹底的に、
一種の精神的なユニフォームやお仕着せによって平均化してしまうのである。
(『車輪の下』より引用)
ヘッセ自身が神学校を脱走した経験を持っていることを踏まえると、重みのある言葉です。
なに、別になんでもありません。
それにあなたとわたしも、この子に対していろいろと手ぬかりがあったのでしょうね。
そうは思いませんか
(『車輪の下』より引用)
最後の場面で、フライクがヨゼフに向けた言葉です。なぜこのようなことをいったのかは、結末を見ればわかります。ぜひご自身の目でお確かめください。