古典のなかでもちょっと地味な印象を受ける本作。内容も『源氏物語』のように、「光源氏の恋愛物語」というふうにスッと出てこない方も多いのでは?どんな話だったか、いまいち浮かんでこないかもしれません。 しかし『伊勢物語』は、光源氏同様「在原業平」という実在の人物の、大恋愛絵巻なのです。後の文学に多大な影響を与えた作者不詳の本作。その魅力を探ってみましょう。
平安時代初期に書かれた、1人の男の一代記という形をとっている歌物語。歌物語とは、和歌とそれに関する説話を組み合わせた物語構成のことです。
本作は主人公の青年時代から死にいたるまでの、主に恋愛遍歴を軸に話がくり広げられていきます。後に同じように、光源氏を主人公とした出された『源氏物語』と似た設定ですね。源氏の作者である紫式部に、非常に大きな影響を与えた作品として知られています。
『源氏物語』には、『伊勢物語』を思わせる歌や記述が出てきたりします。なんていったって、『伊勢物語』という作品名が歴史上最初に登場する文献が、『源氏物語』なのですから。
本作は恋愛遍歴の物語ですから、一代記とはいえ子供の頃は書かれておらず、始まりは「初冠」の初段からになります。「初冠」とは元服と同じ意味で、一人前の大人になったことを意味します。本作は百二十五段まである短編の形になっていますが、そのいくつかのあらすじをご紹介しましょう。
「 初冠 」
昔、男、初冠して、奈良の京、春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。
その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。
この男、かいま見てけり。
思ほえず、ふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。
男の着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。
その男、しのぶずりの狩衣をなむ着たりける。
春日野の 若紫のすりごろも しのぶの乱れ 限り知られず
となむ、追いつきて言いやりける。
ついでおもしろきことともや思ひけむ、
陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。
(『伊勢物語』より引用)
昔、男が元服後、狩りにいった奈良の春日の古びた里に、美しい姉妹がいるのを見つけました。すっかり夢中になってしまった男は自分の着ていた狩衣の裾を切って、そこに歌を書いて送ります。
「春日の若紫のようなあなた方の姿に、この狩衣の模様どおり、私の心は千々に乱れています」
そう大人ぶって詠み送りました。ちょうど男が着ていたのが「しのぶ摺り」の狩衣であったことから、「しのぶ摺り」と「しのぶの乱れ」をかけたおもしろい趣向とでも思ったのでしょう。それに対して姉妹は、心が乱れたのは私たちのせいではないと、同じく歌で返したのです。
解説を加えますと、ここでの「ふるさと」の意味は現在で使われている意味の他に、「古びれた里」「さびれた里」という意味で使われています。 この段のメインテーマになっている信夫摺りとは、陸奥の信夫郡という場所で作られていた乱れ模様の織物です。
そしてたとえに用いられている歌は『古今集』抜粋で、作者は「源融」。光源氏のモデルになった人物ですね。
- 著者
- 出版日
- 2007-12-01
『伊勢物語』は、平安当時から絵をつけられていた絵巻物もいくつか描かれていたようですが、すべての段が現存しているものは、ほとんどありません。本作には謎が多く、まだまだ解明されていない部分や推測するしかないものもあるようです。
なかでも作者がわかっていないというのが、もっとも大きな謎の1つといえるでしょう。さまざまな理由から名前が挙げられることが多いのが「紀貫之」ですが、これも決定的とはいえないのが現状です。
『伊勢物語』の現代語訳はこれまでにもたくさん出てきましたが、江戸時代にはパロディ本も出ています。『仁勢物語』という仮名草紙で、本作の偽(ニセ)物語という意味も込められています。本作を当時の風俗や世相になぞらえた、滑稽な内容です。
現代では、芥川賞作家の川上弘美による現代訳が、河出書房から出ています。
さて、ここからは「初冠」以外のあらすじについても触れていきましょう。
「 ひじき藻 」
むかし、男ありけり。懸想しける女のもとに、ひじき藻といふものをやるとて、
思ひあらば むぐらの宿に 寝もしなむ ひじきものには 袖をしつつも
二条の后の、まだ帝にも仕うまつりたまはで、ただ人にておはしましける時のことなり。
(『伊勢物語』より引用)
昔男がいました。思いをかけた女の元にひじき(海藻)を贈る時に、
「思いをかけてくれているのならば、葎(雑草)の生い茂る荒れ果てた家で、ともに寝ることもできましょうに。袖を敷物にしてでも」
と詠みます。清和天皇の后・藤原高子がまだ帝に仕えず、普通の人であった頃の話です。いうまでもなく、ひじき藻とひしき物(敷物)をかけた歌です。
その他、藤原高子の話は、通ってくる男を追い返すため后の兄たちが見張りを置いたという話「関守」など、いくつかあります。
また本作には恋愛沙汰だけでなく、いろいろな話が載っています。
「東下り」は、少しコミカルな旅のエピソード。男が、京に居づらくなり東国に居場所を求めて、友を連れて旅立ちます。しかし咲いている花や出会う人などに、いちいち京の都を思い出して落ちこみます。富士山を見て「比叡山を二十も重ねたような大きさだ」とたとえてみたり。
つらい思いで隅田川から船に乗りますが、見慣れない鳥がいて船頭に名前を尋ね「都鳥」というのを聞き、一同こぞって泣き伏せてしまうのでした。京を連想させることを聞くたびに落ち込む彼らはなんだか情けなく、それでいて可愛らしく見えてきます。そのやり取りは、まるでコントのよう。
「武蔵野」は、女性が咄嗟に作った歌。 男が人の娘をさらって、彼女を武蔵野まで連れてきました。しかし、この男は国守に追われ、娘を置いて逃げてしまい、結局捕まってしまいます。
置いてきぼりにされた女は、道行く人が「この草むらには盗人がいるから焼いてしまおう」と言うのを聞き困ってしまって、「今日は焼かないでください。私も夫も隠れていますので」と歌を詠んで知らせ、無事連れ帰られたのでした。こんな状況でも歌で説明するなんて、今の感覚だとなんだか面白いですよね。
「竜田川」は、紅葉の名所を詠んだ『古今和歌集』にも載っている、在原業平の有名な歌をもとにして作られたエピソードです。
千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは
(『伊勢物語』より引用)
不思議なことが多かったと聞く神代にすら、聞いたことがありません。竜田川の水を一面に赤く染めあげるとは、と読んでいます。
『古今和歌集』では屏風絵を見て詠んだとされていますが、それを実風景と見なして書かれた話になります。
「塩釜」は、源融が六条のお屋敷で、親王方を招いての酒宴を開いたお話。菊や、紅葉や、管弦を楽しめるこのお屋敷のすばらしさを皆が歌にしていたところ、板敷を這いまわっていた乞食のような老人が、陸奥の国の塩釜のすばらしさを歌いました。
「ゆく蛍」は、自分に思いを寄せてくれていながら亡くなってしまった娘を偲んで、空高く飛んでいく蛍に思いをたくした男の歌が、美しくも切ない話です。
ほとんどの物語は実名が記されず「男」となっているのですが、時々実名で出演する人がいます。それが藤原敏行という人物。「涙河」という段では、思いをかけた女に歌を送るのですが、代筆で返される歌に一喜一憂する姿がコミカルにすら感じてしまうストーリーとなっています。
「深草の女」は、一緒に暮らしていた女に飽きて出て行こうとする男が詠んだ歌に、男心をくすぐるうまい言い回しの歌で、自分の元にとどまらせた女の話。男が手の平で転がされている感に、思わずに頬が緩んでしまうでしょう。
「つひにゆく道」は、主人公の男が死にゆく時に残した歌がメイン。恋愛沙汰で凝った歌を歌い続けてきた男の最後にしては、意外にも誰もが感じる素朴な思いが逆に新鮮に写ります。
本作の主人公は、在原業平がモデルだというのは定説。『古今和歌集』に載っている彼の歌が本作にそのまま使用されていることや、二条天皇の后との恋愛関係など、相手の実名から憶測されています。
つまり成立した当時から、読者の間では暗黙の了解として、その名を記されていなくても在原業平であると認識されていたことが窺えるのです。
- 著者
- 出版日
- 2007-04-01
有原業平は実は、天皇家の血を引く高貴な身分の人。しかし、政変により皇族の身分を離れ、臣下に下ることになります。彼の姓はそこから名乗るようになった名前です。
そんな彼は、『伊勢物語』からも推察されるように、非常に遊び人であったよう。関係をもった女性は3000人を超えるともいわれていますが、その真偽はともかくとして、やはり非常にモテたようですね。
天皇の后である藤原高子との恋愛は、よく知られた話です。 この頃のモテる要素として重要視されていたのが、和歌の上手さ。彼は、有名な『小倉百人一首』にも歌がありますね。さらに『古今和歌集』の代表的な歌人「六歌仙」にも名を連ねています。
子孫を残すことが大切で、性についてもかなり奔放な面もあった当時とは、現代とは価値観が大きく違うものです。今の感覚では相当チャラい男ですが、平安時代はそんなこともなかったのかもしれませんね。
歌物語である本作には、聞いたことのある歌もたくさん。『古今和歌集』に載っている歌もあります。今回は「知ってるけど意味がわからない!」という方に、いくつか現代語訳でご紹介します。
先ほどもご紹介した「東下り」で、鳥の名が「都鳥」ということを聞いて詠まれた歌
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
(『伊勢物語』より引用)
都という名を持っているのならば、さあ問いかけてみようではないか。わが思う人は、この世にまだ在るものか、亡いものかと、という意味。京を連想させる言葉を聞いていては、ひたすら泣いていた一行。残していった大切な人を思い、詠んだ歌です。
その他の歌もご紹介します。男が姿を消した女の家に行き、梅の花を見ながら去年までのことを懐しく、悲しみながら詠んだ歌。
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身一つは もとの身にして
(『伊勢物語』より引用)
月は昔のものではない。春も昔のものではない。わが身だけが昔のままであるのに、という意味。周りが変化しているにも関わらず、自分だけ変わることができずに取り残されてしまったような感覚を詠んだ歌です。誰しもが感じたことがある虚しさではないでしょうか。
男が死にゆく最後に残す歌。
つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを
(『伊勢物語』より引用)
最後には誰もが行く道だと、かねてより聞いてはいたのだが。昨日今日のこととは思ってもみなかった、という意味。病気で死にそうになっている男。その心境を詠んだ歌です。最期の瞬間の心境とは、案外このくらいあっさりしているものなのでしょうか。その瞬間になってみないと、わかりません。
さて、ここからは一度は聞いたことがあるであろう段の内容を個別に解説していきます。まずは『伊勢物語』のなかでも、もっとも有名な段の1つである「芥川」。
男(在原業平)が、天皇の后である藤原高子を連れ去ってしまう話です。言わば駆け落ちですね。逃げていく道の途中で夜が更けてしまったので、男は女をあばら家に入れ、自分は戸口で見張ることに。
しかし、この家は鬼が出るという噂がある家でした。そして家の中からは悲鳴が……まるでホラーかミステリーのような展開です。
結局彼女は鬼に食べられてしまいます。しかし男は、雷の音に邪魔されて、彼女の悲鳴を聞き取ることができませんでした。翌日、忽然を姿を消した彼女。そのことに驚いた男は、昨夜見た露のように消えて死んでしまいたい、と歌を詠んだのでした。
やっと愛する人と一緒になれると思った矢先に襲った不幸。その悲しみが描かれています。
「筒井筒」は幼馴染の男女の恋愛の話。樋口一葉の「たけくらべ」の題名は、この段から取られたというので有名です。
子供の頃、井戸の竹垣の周りで遊んでいた子供たちも、お互い年頃になると遊ばなくなります。しかしそのなかで、お互い思い合う男女がいました。男の方が最初に、
「筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに」
(『伊勢物語』より引用)
昔、井戸の周りの竹で比べ合った背丈も、もうその竹よりも高くなってしまいました。あなたが見ない間に、と詠みました。
この背丈を比べ合った遊びから、「たけくらべ」が取られているといわれているのです。女もよい返事の歌を返し、やがて2人はめでたく結婚します。
しかしその後、経済的に厳しくなってしまった女の元から、男は離れ、別の女の所に通っていくことに。しかし妻は何も言わず、男を送り出します。怪しく思ったのは男の方で「彼女にも男が出来ているからではないのか」と、こっそりと妻の様子を盗み見るのです。
すると妻は、夫が出て行った後、化粧をして悲しそうに外を眺めながら、男を気遣うような歌を詠んだのでした。それを見た男が切なくなって、戻ってきたという話です。
よく話題になるのが、なぜ妻は男が出て行った後に化粧をしたのかということ。想像するしかないので、いろいろな意見が出てきます。男がのぞいていたのを知っていたとか、化粧は魔力があると信じられていたので、男が戻ってくるように願をかけていたとか。
しかし、そんなあざとい理由がなくても、女性は化粧をすることもあるのではないでしょうか。気分転換や気持ちを切り替えるためとか。女性が髪をバッサリと切るような、そんな気持ちの切り替えとしての、自分のための化粧だったのかもしれません。
色好みの業平の「究極の禁忌」が、この話です。
勅使として伊勢に出かけた彼が、なんと斎宮に会いたいと申し出ます。「特別なお方だから大切に扱ってさしあげなさい」と親に言われた斎宮は親切にしますが、なんと彼は手を出してしまうのです。
寝所に出かけていく彼女もどうかと思いますが、この一件はやはり衝撃的であったよう。なんといっても斎宮は、神の使いなわけですから。
この時、斎宮は推定で20歳前。業平は推定でおよそ40歳とされています。そういった意味でも、かなり衝撃的です。やはりプレイボーイのやることは、規模が違います。
「渚の院」は、男たちが花を愛でたり、月を愛でたりしながら、歌を詠んで酒を酌み交わすというだけ。特にストーリー性はありません。
しかし、その優雅で独特な平安ならではの雰囲気が味わえるのと、それ以外にもう1つ意味が隠されているのです。
この男たちのなかの1人は、水無瀬に屋敷を持つ惟喬親王です。文中ではよく付き添うお供として「右馬頭」の役職の人物がいますが、名前は忘れてしまったといって作者は書いていません。しかし、この彼は、明らかに業平なのです。
他のお供として、親王の伯父にあたる「紀有常(きのありつね)」などは、はっきりと名前が記されています。この段は、身分を越えた交流を描いているものであるともいえるのです。
狩場である交野に来た一行は、酒を飲みながらよい気分で桜の歌を詠みます。その時に詠んだ歌が、有名な桜の歌です。
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のげからまし
(『伊勢物語』より引用)
世のなかに桜がまったくなかったならば、春の人の心はのどかであったろうに、という意味。桜が咲くのを今か今かと待ったり、散るのを惜しんだりと、桜に振り回されて落ち着くことがない春の心地を詠んだもの。『古今和歌集』に載っている歌です。
「渚の院にて詠んだ歌」と記されています。
「和歌も古典も苦手……でもお話は知りたい!」という方には、漫画がおすすめ。原作を読んだことがある方も、より理解を深められるでしょう。
- 著者
- 木原 敏江
- 出版日
- 2011-10-19
漫画界の大御所・木原 敏江により、大胆に解釈された本作。クイーンズコミックスから出ています。
「芥川」や「筒井筒」など、有名な話を中心に5編収録。大胆とはいえ、あくまでも原作には忠実に、わかりやすく表現された、和歌とストーリーの世界です。作者本人による、本作のガイド付きとなっています。
美しいイラストで、耽美な世界観をより味わうことができるでしょう。
『伊勢物語』が在原業平の物語というのは周知のことですが、実はすべて史実かというと、そうではないようです。これはあくまで、物語の世界。しかし千年以上の時を超えてなお読まれ続けている本作から察するに、魅力的な人物であったことは間違いないですね。ぜひあなたも、この平安のプレイボーイの魅力に触れてみませんか?