数々の名作を遺したことで知られる文豪・谷崎潤一郎。何度もノーベル文学賞の候補に挙がったほどの実力を持ち、小説だけでなく、エッセイや戯曲も執筆しました。私生活でも波乱万丈な経験をしており、それも文学好きの間では有名です。 耽美的な世界観で知られていますが、そんな彼が隠れた性癖を持っていたことはご存知でしょうか。実は、彼はマゾヒストだったのです。しかも、それはただの個人的な性癖にとどまらず、作品でも自身の趣味を扱っています。 今回の記事では、そんな谷崎がドMっぷりを存分に発揮した本作をご紹介します。
本作は谷崎潤一郎の作品中でも知名度が高く、叶順子などが出演した映画もあるほど。主人公の一人称告白体でつづられた本作は、一体どんな物語なのでしょうか。あらすじをご紹介しましょう。
- 著者
- 谷崎 潤一郎
- 出版日
- 1947-11-12
電気技師である河合譲治は、20代後半になっても女性と交際したことのない男でした。その真面目な性格と恋愛歴から、からかい半分に「君子」というあだ名をつけられているほど。彼が恋愛をしなかったのは、結婚に憧れがあったからなのです。
彼はまだ世の中を知らない少女を自分の手で育て、いい年頃になったら夫婦になるという形式にこだわっていました。そんな彼はカフェでナオミという少女を見つけ、引き取って育てることにします。彼女を礼儀も教養もある女性に育てようとするのですが、彼女は彼の言うことを聞きません。
ある日、彼は、彼女が若い男と話しているのを見かけます。そのことを問いただしてみると、他にも男と密通しているとのこと。これをきっかけに、2人の生活は狂い始めていきます。
「痴人」とは、「性的に乱れた人」というよりは、「愚かな人・ばかな人」という意味合いが強い言葉。ナオミにだまされる譲治はもちろんですが、男あそびに狂っていくナオミのことも「痴人」といっているのかもしれません。
ここでは簡単に登場人物の概要をご紹介します。
電気技師として働いている会社員。20代後半まで女性と交際したことがなく、職場では「君子」というあだ名で呼ばれています。「少女を養育して年頃になったら結婚する」という形式にこだわっていて、ナオミをカフェで見つけて引き取ろうと決心しました。
西洋文化へのあこがれを持っており、西洋人の腋臭さえ好ましいと思うほど。ナオミを引き取ろうとしたのも、彼女が西洋人のような顔立ちをしていることと、その名前のハイカラさが理由でした。
カフェで働いていた少女。混血児のような美しい容貌をしています。譲治に引き取られて教育を受けますが、注意をされるとすねたり泣いたりして、彼を困らせます。正確には「奈緒美」ですが、作中での表記は基本的にカタカナです。
ナオミの遊び仲間のひとり。
慶応大学のマンドリンクラブのメンバーで、熊谷とともにナオミの遊び仲間のひとりです。ナオミはこの2人以外にも、複数の男と関係を持っています。
日本文学を代表する文豪。『細雪』『卍』『刺青』などの小説で知られているほか、『陰翳礼讃』というエッセイも有名です。美文家としても知られ、『文章読本』という本では、文章の書き方についても語っています。
- 著者
- 谷崎 潤一郎
- 出版日
- 1969-08-05
そんな彼はマゾヒストであり、作品にもその性癖を度々反映させています。本作もそのひとつで、文学好きの間ではそのマゾっぷりは有名。足フェチとしても知られ、エッセイでは「京都の芸者は足袋で足を隠していてけしからん」という趣旨の文章を書いています。
1958年、そして1960年から1964年にかけて計7回もノーベル文学賞の候補になったことがわかっていますが、残念ながら受賞はしていません。受賞を逃した理由として、「彼の作品のサディズムは西洋には受け入れられない」という見解が選考委員から公表されています。
ここでは、耽美的な作風で知られる彼の名言を、ひとつご紹介します。
美は考えるものではない。
一見して直に感ずる事の出来る、極めて簡単な手続きのものだ。
(『金色の死』より引用)
美しい文章に、彼の考えが見事に詰まった一文です。
彼は足フェチとしても知られています。その性癖が現れている作品は『富美子の足』です。この作品では、主人公の塚越が芸者の富美子の虜になり、彼女の足に異常な執着見せます。最後の場面で、塚越は病に倒れます。息を引き取る際に、富美子の足を自分の体に乗せてくれるように頼むのです。
このような足フェチっぷりは、『痴人の愛』でも描かれています。譲治は女性の足に強い執着を示しているのです。他にも、剃毛萌えや水着跡萌えなどのフェティシズムが出てきます。
- 著者
- 谷崎 潤一郎
- 出版日
- 2012-09-20
谷崎は「墓石を女の足型にして死後も踏まれ続けたい」という意味の文章も遺しているほど。『谷崎潤一郎フェティシズム小説集』も出版されているので、彼の性癖に興味があるなら1度目を通してみてもいいですね。
彼は私生活でも細君を他人に譲るなど、常人には理解しがたい経験をしています。そんな経験が反映された彼の作品は、一読の価値がありますよ。
主人公び譲治は、現在の東京工大を卒業した電気技師です。当時の資料によると、彼は公務員よりも高い給料をもらっていたといわれ、エリートであることがわかります。女性にもててもよさそうなのですが、28歳まで交際経験すらありません。それは、結婚に対するこだわりを持っていたからです。
彼は美しい少女を育てて、年頃になったら結婚するという形式に憧れていました。そしてカフェでナオミに出会って、その夢を実現させようとします。彼女を選んだ理由は、「名前が西洋人みたいだから」というもの。
晴れて夫婦になってからも、一緒に街を歩くとすれ違う人が振り向くので、彼は「これがわたしの作り上げた傑作だ」と誇りに思います。妻のことを作品あつかいするその姿には、嫌悪感を抱く人がいるかもしれませんね。
結婚に理想をもち、ナオミを傑作と表現する彼には、読んでいて賛否両論がありそうですね。
譲治よりも、さらに賛否両論ありそうなのが、彼女です。
彼女は、小悪魔的な女性として描かれています。その性格を、読者はどう評価するのでしょうか。彼女は美少女ですが、性格はまさに小悪魔的。その他にも、たくさんの欠点があります。
など。こんな女を好きになるなんておかしな話ですが、こういった欠点も含めて譲治は惚れ込んでいるのです。彼女の性格は、賛否両論がありそうです。絶対に願い下げだ!と思う人もいるでしょうが、譲治のように支配されたい!と思う人もいるかも知れません。
しかし、作中でも譲治が独白しているように、「女が男をだます」のではなく、「男が女にだまされにいく」ということもあります。2人の関係では、この言葉が当てはまるでしょう。そう考えるなら彼女は悪くなくて、だまされにいった彼に非があるのかもしれませんね。
譲治はナオミという作品を作るような気持ちでいましたが、逆に作品に支配されてしまったのです。
本作のナオミにはモデルがいたといわれています。作中では女優のメアリー・ピグフォードに似ていると強調されていますが、実際のモデルは当時の谷崎潤一郎の妻である千代の妹・せい子です。
彼女もメアリー・ピグフォードも切れ長のタレ目をしており、大きくて高い鼻が特徴的。谷崎はこういう容姿の女性が好みだったのですね。モデルがわかるだけでもナオミの外見がイメージしやすくなり、作品に感情移入しやすくなります。
本作以外でも、谷崎は自身の経験を作品に反映。細君を他人に譲った「小田原事件」は『蓼食う虫』で扱われています。気になる方はぜひ読んでみてください。
本作の最大の見どころは、譲治がナオミに振り回されるところです。彼は困惑しながらも、それを楽しんでいる節もあります。いうまでもなく、これは谷崎潤一郎の性癖を反映しているもの。本作は、彼の作品のなかでも特異な存在ですが、それは作者の趣味を前面に出しているからなのです。
ある場面で、譲治はナオミに絶対服従を誓います。そのときにナオミは譲治に馬乗りになり、男のような言葉で自分のいうことをきくように迫るのです。このシーンは爆笑必須で、本作の見所のひとつとなっています。
一見すると谷崎がドMっぷりを発揮した変態的な描写ですが、譲治が結婚に幻想を抱いていたことや、ナオミに散々な目にあわされていたことを考えると、哀愁さえも漂う場面といえるでしょう。
譲治はナオミを「傑作」と表現するなど、歪んだ性癖を持っているのも事実。その一方では純粋に彼女を愛してもいるので、複雑な感情を持った人物でもあります。
本作はただのエロ小説ではなく、大正時代の文化を描き、登場人物たちの心を描いた名作なのです。
本作が刊行されたのは、1925年。日本は西洋化をしている真っただ中で、「モダンガール」や「モダンボーイ」というハイカラな服装をした人たちが街を歩いていました。日本人は西洋に強いあこがれを持ち、欧米を目標にして国作りをしていたのです。
一方で、この時代の西洋礼賛に警鐘を鳴らす風潮もあり、これは大江健三郎ら多くの作家が取り組んできたテーマでもあります。しかし、谷崎潤一郎はその逆のことをしたのです。
西洋人のような顔立ちをしたナオミは、西洋文化の象徴。その他にも社交ダンスの相手などで、作中には西洋人が登場し、譲治は彼らに異常なまでに憧れ、腋臭さえ好ましいものだといいます。
途中でふたりは決別するのですが、結局は元のさやに収まりることも、ある暗示にもとれるもの。これは、西洋化が逆らえないもので、日本人が西洋の文化を取り入れざるを得ない風潮を表現しているようにも感じられます。
譲治はエリート会社員ではありますが、宇都宮の田舎の出身であり、西洋に対してコンプレックスに近いあこがれを持っていました。そのためにナオミに入れこみ、貯金をなくして、親に借金までするのです。
西洋へのあこがれのために身を滅ぼしていく彼の姿は、その後の日本を予言していたのかもしれません。
小説が苦手という方には、漫画版もあります。ポップな絵柄で読みやすい、こちらもご紹介。
- 著者
- 谷崎潤一郎
- 出版日
- 2016-01-17
漫画版の本作には、当時の会社員の給料などの資料が載っており、読者の理解を助けるような内容になっています。内容も原作の雰囲気を再現しており、あらすじを理解するには最適です。
本作は谷崎潤一郎の作品のなかでも分量が多いので、漫画で読んでから小説に手をつけるという順番でもいいですね。
本作の特徴は、大正時代の風俗が描かれていること。時代背景を理解するからこそわかる面白さもありますが、小説でそれらを完全に読み取ることは難しいです。しかし漫画ならわかりやすいので、本作の魅力を知るにはもってこいでしょう。
小説家として名高い谷崎潤一郎ですが、実は映画の脚本も書いているのです。もし本作が気になっているなら、谷崎の映画人としての一面も垣間見える『痴人の愛を歩く』もおすすめとなっています。
- 著者
- 樫原 辰郎
- 出版日
- 2016-03-12
この作品は、谷崎を映画に携わった人間として論じています。『痴人の愛』に焦点を絞って論じており、彼の性的嗜好についても説明。彼が本作を書くにあたってどのような構想をしていたのかがわかり、目からウロコの一冊です。
内容はすごろくのようになっており、浅草から始まり、横浜方面に向かっていきます。谷崎が細君を譲った「小田原事件」にも触れており、彼のファンなら必読の書です。
奔放なナオミに愛想をつかして、ついに譲治は彼女を追い出します。しかし、すぐに後悔して、再び2人で生活することになるのです。
果たして、2人の関係はどうなるのでしょうか。
- 著者
- 谷崎 潤一郎
- 出版日
- 1947-11-12
譲治はナオミを教育し、彼女は美しい女性に成長していきます。やがて2人は籍を入れますが、しばらくすると彼女の男あそびが発覚。彼は彼女を追い出すのです。
しかし譲治は、すぐに彼女が恋しくなります。その後ナオミも「荷物を忘れた」といって帰ってきて、なし崩し的に同居生活が再開しますが、彼女はやはり、他の男と関係を持ちます。
騙されていたと知りながらも、譲治はナオミの魅力に抗えません。ぐずぐずとした関係が続いていき、彼はさらに彼女のいいなりになっていくのですが……。
自分の理想の女性を育てていくはずだったのに、まったく譲治の思い通りにならないナオミ。理想通りの美しい見た目で成長していったけれど、手に負えない性格を持った彼女と一緒にいる譲治は、果たして幸せだったのか、そうでなかったのか……。
ナオミに振り回され続けた彼の運命は?ぜひご自身の目でお確かめください。
その結末は、諦念ともとれるような落ち着きと、一般的には気持ちが悪いとも思えるような幸福感を感じ取らせるもの。きれいにまとめられて終わってはいるものの、やはりテーマの濃さがあるので、読者に独特の後味を残すでしょう。