『リア王』は、イングランドの劇作家・詩人ウィリアム・シェイクスピアによって書かれた四大悲劇の一つ、5幕構成で1604~1604年頃の作品で、異なる2つの版があり、その主な2つを合成するのがテキストの主流でしたが、近年ではそれぞれを独立作品として扱うことが増えてきています。 ここでは、『リア王』のあらすじや登場人物たちから、この作品の魅力を解説していきましょう。
本作は、日本でも小田島雄志、安西徹雄などによって多くの翻訳がなされ、岩波文庫や新潮文庫、光文社などの出版社から発行されています。
本作は、リアの悲劇の物語。長女と次女に国を譲った老王が、娘達から裏切られて国を追い出され、半ば狂気に囚われます。そして、フランス王妃となっていた末娘の助力により2人と戦争するも、敗北。その後、王が絶命するまでの壮絶な悲劇、不条理を描いているのです。
多くの登場人物が死に絶えてゆく物語であり、救いはなく、このストーリーは「終わりのない悲劇」とも評されます。しかし、今日に至るまで毎年のように舞台で演じられ続け、何度も映画化されている本作には、単なる悲劇では片付けられない何か、読者を惹き付ける魅力があるのではないでしょうか。
それはシェイクスピア独特の、哲学的な深みを感じさせる台詞回しや、撞着語法(矛盾している言葉を組み合わせた表現。オクシモロンともいう)を使った名言たちや、なにかしらの教訓を含んでいるのではないかと思わせる展開など、一言では言い表せない複雑な魅力なのです。
- 著者
- シェイクスピア
- 出版日
- 2006-09-07
また、本作は、映画・舞台化作品も多く存在します。
原作を忠実に映画化したとされる作品に、グレゴーリー・コージンツェフ監督、ユーリー・ヤルヴェト主演の『King Lear』(1970)があります。
また日本では、黒澤明監督がフランスとの合作で製作して話題となった、仲代達矢主演で時代設定を戦国時代に変えた『乱』(1985)や、最近ではリチャード・エアー監督、アンソニー・ホプキンス主演、舞台を21世紀の架空の国とした『リア王』(2018)などの変わり種も。
また、舞台化作品としては、演出・主演横内正の『リア王』が挙げられます。
多くの人々がこの物語を紐解き、解釈、または忠実に演じ、今なお、あらゆる形で人の目に鑑賞されているのがわかりますね。
誰でも1度くらいは、この名前を聞いたことがあるでしょう。仮に、もし彼の名前を知らなくても、『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』と聞けば、タイトルすらまったく知らないという人は少ないと思われます。 数々の有名な劇を手掛け、詩人としても名を残した彼とは、一体どんな人物だったのでしょうか。この項で、少し読み解いてみましょう。
ウィリアム・シェイクスピアは、イングランドのストラットフォード・アポン・エイヴォンの手袋職人ジョン・シェイクスピアの長男として生まれます。
父は町長などを務めた事もある町の名士でしたが、羊毛の闇市場に関わったとして起訴され、ウィリアムが13歳を迎える頃には、一家は没落に向かっていました。
その後、経緯は明かされていませんが、ウィリアムは18歳で8歳年上の女性アン・ハサウェイと結婚。翌年には長女、さらにその後、男女の双子を授かり、一気に3児の父となっています。
ここからの、10代後半から20代後半までは彼の記録は発見されていません。この「失われた年月」を経て29歳になった彼は、ロンドンで詩人となっています。
空白の期間に一体何があったのか未だにわかってはいませんが、再び記録に現れるようになった彼は詩人として、また劇団の座付き劇作家として活躍し、役者として舞台にも立ちました。
- 著者
- ウィリアム シェイクスピア
- 出版日
- 2000-06-01
やがて、彼の劇団は宮内大臣一座から国王一座に昇格しますが、彼は47歳の若さで引退を決意。絶筆の意を込めた『テンペスト』を執筆します。しかし簡単に引退はさせてもらえず、後継者ジョン・フレッチャーから頼まれて、2作品を共同執筆しました。
その後、クローブ座の火事を受けて引退の決意を新たにしたのか、ついに劇場の共同所有者としての権利を手放して帰郷。没年は、1616年4月23日(あるいは4月24日)といわれています。生誕の日は(定かではありませんが)これも4月23日(4月24日)とされており、そのため生まれた日と同じ日に亡くなったとされているのです。
謎を残したままの「失われた年月」や、ドラマ性を感じさせる出生と没日の推測、年上の女性との10代での結婚……彼の作品だけではなく、その生涯が映画や漫画などで題材にされるのは、こういったミステリアスな面が、インスピレーションを刺激するからかもしれません。
皆様も、彼という人に興味が出てきたのではないでしょうか。
本作が書かれた時代。それは一体どのようなものだったのでしょう。シェイクスピア四大悲劇が書かれた10年間と、その年月に影響を与えたであろう出来事を紹介していきたいと思います。
イングランドの女王であったエリザベス1世は、すでに60代後半。当時としてはかなりの高齢。しかも彼女は一貫して処女王を貫いてきたため、嫡子がいない状態。さらに後継者指名もおこなっておらず、万一このまま崩御があれば、混乱は免れないという不安のなかにありました。
このため同時代には懐疑、幻滅などの憂愁を帯びた作品が多く生み出される事となったのではないでしょうか。本作もまた、そのうちの1つなのです。
この項では、本作の登場人物を紹介していきたいと思います。
王様の名前は「リア」。けれど彼は、名前のようにリア充とはいきません。この項では、散々な目に合う彼を中心に紹介していきたいと思います。苦難の連続で、息をつく間もありません。
まず彼には娘が3人いますが、そのうちもっとも忠実に父を敬愛しているコーデリアを自ら追放してしまうところから、彼の悲劇は始まります。
父におべっかを使うことを拒んだために、彼女は追放されました。リアは、この段階で老後の安らぎを失ってしまったのです。残った姉娘たちは権力を譲られたため、権力を持たないリアが未だに王のように振る舞う事にうんざりして、彼を冷たくあしらいます。
王ではなくなった彼のそばにいるのは、道化とケントのみ。騎士も、娘たちに取り上げられてしまいました。彼は荒野にさ迷い、嵐に遭い、避難することになります。そこで出会ったのは、浮浪者のような格好をしたエドガーです。
その頃にはリアはすっかり狂気に囚われ、裁判ごっこなどを始めてしまい、娘たちを呪う言葉を吐いていました。エドガーの父であるグロスターの助力を得て、ドーヴァーへと落ち延びるリアは、ようやく末娘コーデリアに再会。正気を取り戻します。
しかし、受難は終わっていませんでした。彼女が率いるフランス軍は敗北し、リア共々捕虜として捕らえられてしまうのです。牢に入れられた2人は、つかの間をともに過ごし、その後最大の悲劇がリアを襲います。そして物語は、葬送曲とともに幕を閉じるのです。
リアは、己の傲慢さや無知によって、知らす知らず自分を追い詰めていきます。そんななか彼の道化は、先々で彼に気付きを与える助言をしていくのです。けれど、リアがそれを理解するのは、あまりにも遅すぎました。
道化は狂気に捕らえられた彼の前から姿を消し、ついに助言を与えてくれる者すらいなくなってしまったのです。
実は、リア王にはモデルが存在します。それが、ブリトン人の伝説の王、レイアです。
主にジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王伝』では、あらすじはほぼ変わりません。3人の娘のうち末娘がレイア王の怒りを買って勘当されて、フランク人の王に嫁いだ後、王は国を継いだ姉娘たちから受けた仕打ちを恐れて海を渡り、末娘に庇護されます。
末娘は父王のために姉とその婿たちを倒してブリトンを取り戻し、レイアは再び王として統治をおこなって亡くなりました。その後は末娘が王位を継承しましたが、彼女は姉娘の子供たちに殺されてしまいます。そして彼らがしばらく国を統治した後、互いに争い、生き残った一方の国に統一されるのです。
『リア王』との大きな違いは、レイア王の代ではハッピーエンドを迎えているという点。その後王位を継いだ末娘がたどる結末は悲劇といえますが、老王は娘の助力により王として返り咲き、穏やかな死を迎えることが叶いました。
シェイクスピア版は、末娘の悲劇を取り込む形で統合され、一貫して悲劇の物語となっています。
『リア王』の登場人物のなかで、かなり異彩を放っているのが宮廷道化師です。彼は王に対してもへりくだらず、「おじちゃん」と呼びかけ、阿呆のように振舞います。しかし、度々真理を突いた発言をしている所に知性や賢さを感じさせる謎に満ちた人物で、物語の途中では挨拶もなく消えてしまいます。
彼は一体何者なのでしょうか。そして、なぜ消えてしまうのでしょうか。それには多くの説があります。今回は、そのいつくかを紹介しましょう。
まず1つは、単純に当時のシェイクスピア劇団の人数が足らず、1人2役が当たり前だったために、道化が途中退場してしまうというもの。
道化と同時に現れないコーデリアなどが2役の候補に挙がっており、彼女が終盤まで出ているため、道化は交代で出てこなくなったというものです。ちょっとロマンはありませんが、思わず頷いてしまう説ですね。
2つ目は、道化という存在がリア王の意識の片割れであるという説です。
他のシェイクスピア作品に出てくる道化には、きちんと固有の名前がある者もいるのですが、『リア王』の道化には名前がないという点も、その説の根拠の1つに組み込まれています。
リアが完全に正気を失うまでは、まるで彼に自己の認識をあらためさせるかのように、冷静に彼の置かれている立場を茶化したり皮肉ったりしているのですが、完全な狂気となってしまってからは、意識の片割れとしての機能が働かなくなってしまったために消えたのではないか、という説です。
この他にも多くの説があり、道化という存在が本作のなかで、かなりの存在感を放っていることがうかがえます。皆様は彼の言葉、行動から、一体どんなことを感じるのでしょうか。ぜひご一読して考察していただきたいです。
「おいらよりもっと偉い先生が来て、
もっと立派な教訓を垂れてくれたら、
おいらの今の教訓は返しとくれよ。
おいらの教訓は、阿呆にだけ聞かせてえんだ。
だって、こりゃ、阿呆の教える教訓だもんな。
金が目当ての 御家来衆は
ただの上面の お務めばかり
雨が降りだしゃ 荷物をまとめ
あんたを嵐に 放り出してく
けれど阿呆の おいらは残る
利巧なやつらは 逃げるがいいさ
逃げた悪玉 その実 阿呆
残った阿呆は 悪玉じゃねえぞ」
(『リア王』より引用)
上記は本編中の道化の台詞です。彼の言う「教訓」ですが、本作にはさまざまな解釈があり、伝えたかったことや教訓に関しても多くの説があります。その多くの意見のなかから、いくつかの説を考察してみましょう。
まずは「不適切な相手に権力と富を託してはならない」というもの。政治の世界と密接に関わっている立場から見て、物語から第一に読み取るのはこの教訓だそうです。
確かにリアは上っ面の甘言にのせられ、真実を見抜けなかったばかりに老後を保証してくれぬ相手を頼り、辛酸を舐める事となりました。
また、「遺産は死ぬまで譲らない」という世知辛い意見もあります。譲ってもらえばしめたもの、後はどうとでも出来てしまうのだから安易に保証は手放すな、という身につまされる教訓を読み取る方もいらっしゃるようです。
ここから考えられる本作のテーマとはなんなのでしょうか。それは、徹底的な悲劇は人の魂を揺さぶる、ということが挙げられるかもしれません。
善意の行動が果報をもたらさず、むしろ悲惨な結末で終わる圧倒的な悲劇。「勧善懲悪」すら超越した悲劇だからこそ、不条理すぎる展開に人は衝撃を受け、一種の感動を覚えるのではないでしょうか。
この物語の元になったお話の多くはハッピーエンドで締め括られており、それらを取材して本作を書き上げたシェイクスピアは、むしろ意図して徹底した悲劇に作り上げたといえます。そうして作り上げた理不尽極まりない悲劇だからこそ、逆に真に迫ってくるのではないでしょうか。
シェイクスピアの没後、彼の作品は18世紀頃までは、当時の文学者たちが「改作」したものが数多く上演されていました。彼の作品は野蛮で、洗練された文明の産物ではないという考え方が起こり、「改作」「翻案」がされたのです。
そのなかで有名なものが、ネイハム・テイトによる『リア王』でした。ハッピーエンドに書き換えられたこの筋書きは、道化の場面は総カットされ、コーデリアとエドガーの恋物語が追加されたもの。リアもコーデリアも死ぬことはなく幸せになり、大いに人気を集めて長く上演されたようです。
そして19世紀に入り、ドイツの詩人アウグスト・フォン・シュレーゲルによって「シェイクスピアの再発見」がなされるまで、シェイクスピア独自の特徴はむしろ「欠陥」とされていたのでした。
今日ではある種の神格化さえみられるシェイクスピアの作品に、そんな時代があったというのはまさに驚きです。
ここまで『リア王』を紹介してきましたが、「やっぱり読みにくい!」「読める気がしない!」という方におすすめなのが『リア王 (まんがで読破)』です。
- 著者
- ["シェイクスピア", "バラエティアートワークス"]
- 出版日
- 2008-05-01
文庫版のまんがで、『リア』王を読んでしまうことができるこの作品。活字を読むのが苦手な方にもおすすめです。絵で見ることによって、登場人物が覚えやすく、雰囲気も掴みやすいのではないでしょうか。
鬼嫁とされる長女次女、野心家のエドマンドなど、彼らの表情がかなり極端で、思わず笑ってしまうかもしれません。「昼ドラか!」と思わず突っ込みを入れつつも、さらっと読めてしまうのがすごい点です。
もし、「悲劇は重くて苦手かも」と敬遠してしまっているようでしたら、漫画から入ってみるのもよいのではないでしょうか。
「人間はみな泣きながら生まれてくる」、「人間はこの世に生まれ落ちるやいなや、阿呆ばかりの大きな舞台に突き出されたのが悲しくて、誰もが大声をあげて泣き叫ぶ」など、悲観的でありながら、真理を教えてくれるような名言たち。
この項では、コーデリアやリアなど登場人物たちの台詞から、名言をいくつかご紹介していきたいと思います。
「わたしの舌は重くとも、
わたしの愛はそれにもまして重いのだから。」
(『リア王』より引用)
姉たちのように口先だけで「父上がすべて」と言えないコーデリア。彼女は言葉ではなく、行動が全てだと考えているのではないでしょうか。皮肉にも、姉たちの本性を知りつつ自分の信念を曲げられなかった彼女は追放され、言葉より重く愛していた父を苦境に立たせる事となってしまったのですが。
「目が見えた時には、つまずいた。
よくある例(ためし)ではないか。
物があれば、心は驕る。」
(『リア王』より引用)
グロスターは両目をえぐられ、エドガーを信じなかったことを悔やみます。目が見えていたときにはエドマンドの謀略にかかり、見えてしかるべきものが見えていたかったと気づいたのです。
「これがどん底だなどと言えるあいだは、
まだ、本当のどん底に落ち切ってはいないのだ。」
(『リア王』より引用)
彼は最悪にまで落ちてしまえば、あとは上がるだけ、希望しかないと心を軽くしましたが、直後に両目を失った父と行き合います。己が最悪と思っていた現実より、さらに悪いことがあったと嘆くのです。
「そいじゃあ、まるで、ロバに荷物を背負わせとくのがかわいそうだからって、
自分がロバを背負って、泥道を歩くようなもんじゃねえかい。」
(『リア王』より引用)
全権を手放してしまって、リア自身に娘に対する強制力はもうないにも関わらず、今だに娘より優位にあると思っている彼に対して、「あべこべ」だと道化は説いているようです。譲位によって、荷物(リア)を引きずるのはロバ(娘たち)となってしまった事実を揶揄しているのでしょう。
「もっとも年老いた方こそ、もっとも強く苦しみを耐え抜かれた。
若いわれらに、これほどの苦しみにあいつつ、
これほどに永く生きることは、できまい。」
(『リア王』より引用)
もはや完全に狂気に囚われたリア王に、エドガーが呟いた台詞です。リアがどれほどの苦しみにあったかが伝わってきます。
本作の名言、いかがでしたでしょうか。気になる台詞が1つでも見つかったなら、きっとシェイクスピアを読む取っ掛かりとなってくれるでしょう。
物語の始め、なんとも無邪気にリア王は、姉娘たちの言葉を信じきっていました。
「かつて子が捧げ、父が受けたあらゆる愛、
いかなる言葉も力を失い、いかに語ろうとも語りつくせぬ深い愛、
そのすべてを越えて、私はお父様を敬い、お慕い申し上げておりす。」
(『リア王』より引用)
これは、ゴネリルの言葉です。
「どれほどに類まれな喜びも、
私にとっては敵にほかならぬということばかり。私の唯一無上の喜びは、
ただ、ひとえにお父様を愛することのほかにはございませぬゆえ。」
(『リア王』より引用)
これは、リーガンの言葉です。
父を至高と称え、父への愛は無上とのぼせたその口で、娘たちが悪辣冷淡に父への無情を語る時、リアはかつての口上は自分をだますためのものだったと思い知らされ、絶望します。そして、自身が「誰であったか」すら失いかけていき、彼は狂気の淵にさ迷い出るのでした。
しかし、彼は少なくとも娘がどのような人間なのかを知りました。まったく知らなかった娘たちの事を、ようやっと知ったのです。その代償が狂気というのは、なかなかに高い授業料だと言わざるを得ませんが。
- 著者
- シェイクスピア
- 出版日
- 2006-09-07
コーデリアは、グロスター伯を通じて父の苦境を知り、救出を決意。フランス軍を率いてブリテンの地に戻ってきます。しかし、手を組んだゴネリルとリーガンの前にフランス軍は敗れ、リアとコーデリアは捕虜としてとらえられてしまいました。
戦争捕虜とはいえ、前王リアと、フランス王妃コーデリアを無下に扱うつもりはないオルバニー公でしたが、エドマンドの命で、2人には暗殺の指示が出されてしまいます。
エドマンドが決闘によって敗れた後、自身の考えを周りに伝えるオルバニー公でしたが、時すでに遅く、コーデリアは息耐えてしまっていたのでした。そして、絶望したリア王は、ついに完全に狂ってしまうのです。
果たして彼の運命とは……。その徹底的な悲劇の結末は、ぜひご自身の目でお確かめください。
『リア王』の解説、いかがでしたでしょうか。皆様の興味を引く部分が、ほんの少しでもあれば幸いです。