『やまなし』は、宮沢賢治の童話の1つ。谷川の底に暮らす蟹の兄弟が見た水中の世界を、幻想的に描いた美しい作品です。活気に満ちながら、激しい生存競争も展開する5月の日中と、ひっそりと静かななかに、実りの豊かさも見える12月の月夜の2部で構成されています。全ての謎が解決されないまま終わるという、童話らしからぬ文学性にも関わらず教科書に採用されるなど、愛され続けている作品です。 今回はそんな本作の、3つの謎を解説。タイトルや、クラムボンについて解説していきます。ぜひご覧ください。
先ほど少し説明したように、本作は二部構成です。まずは、それぞれのあらすじを簡単にご紹介しましょう。
5月
蟹の兄弟が川底で話をしていると、上ではクラムボンが笑っていました。魚が通るとクラムボンは死んでしまいますが、魚が下流の方に行くとまた笑い始めます。魚は上流と下流を往復し、「悪いこと」をしていました。
そこへ突然「鉄砲玉のような青いもの」が飛び込んできて、一瞬の後には青いものも、魚も消えています。蟹の兄弟は恐怖に震えますが、兄弟の父親が、カワセミが魚を獲って食べたのだと教えるのです。やがて上流からは白い樺の花が流れてきて、水面を覆っていきました。
- 著者
- 宮沢 賢治
- 出版日
12月
すっかり成長した兄弟は、楽しそうに吐いた泡の大きさを比べ合っていました。そこへ突如、黒いものが飛び込んできます。 カワセミを思い出した兄弟は恐がりました。
しかし、父親がよく見てみると、それは「やまなし」でした。いい匂いをふりまくそれを、3匹は追い掛けます。
作者の宮沢賢治は、1896年、岩手県生まれ。現在では作家、詩人として有名ですが、生前はほとんど無名。死後に作品が広く知られ、国民的作家となりました。生前に出版されたものは、詩集『春と修羅』と、童話集『注文の多い料理店』だけです。原稿料で稼いだお金は、僅か5円だったといわれています。
子供の頃は鉱物採集や、昆虫の標本作り、星座などに熱中。理系の子供だったわけですが、盛岡高等農林学校在学中から、詩や散文の習作を始めます。
農林学校を卒業後は家業の古着屋を手伝っていましたが、これを嫌って家出をしたりしました。やがて、農学校の教師となります。妹のトシを溺愛しており、彼女が病死したときに、押し入れに頭を入れて号泣した話は有名です。
- 著者
- 宮澤 賢治
- 出版日
- 2013-05-27
そんな彼は30歳の時に教師を辞めて、農業の生活を始めます。「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)」として、農学校の卒業生や近在の農家を集めて、農業や肥料の講習、レコードコンサートや、音楽楽団の練習を始めるのです。
「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という農民芸術の主張をしており、農業の理想郷のようなものを目指していたようです。
農家のために肥料相談や稲作指導をおこない、後には安価な合成肥料の販売などに奔走していました。しかし、無理が祟ったのか病に倒れ、実家での療養生活に入ります。有名な『雨ニモマケズ』を書いたのが、この頃です。
そして完治することなく、その後、37歳という若さで亡くなってしまいました。
この言葉を聞いて、みなさんは何を連想するでしょうか。大体の人は、都道府県の山梨県でしょう。しかし、ここでいう「やまなし」は、それではありません。では一体、何を表しているのでしょうか。
本作での「やまなし」というのは、日本で栽培される梨の元になった、野生種です。原種ですから、実も小さく、果肉が薄く、あまり美味しくはありません。なぜ梨や、その他の果物にしなかったのでしょうか。
もしかしたら品種改良された、大きくて、味も洗練された栽培種よりも、素朴な野生種の方が好ましいという、作者独特の美意識や、自然観が反映されているのかもしれません。
単純に、山奥の話だという感じを出すためだったという可能性もありますが、あなたはどう思うでしょうか?
さて、この作品最大の謎が、この「クラムボン」の正体です。最初に言っておきたいことは、タイトルの意味と同じく、正解はない、ということ。しかもこちらは作者も意図して、何かわからないように描いています。
逆説的ですが「これが正解だ」と断言することは、間違いだということになるでしょう。それを知ったうえで、さまざまな解釈を楽しんでください。
作中に「クラムボン」を直接描写する文章はなく、ただ蟹の兄弟の会話に現われるだけです。それによれば「クラムボンはかぷかぷわらう」、そして「跳ねてわらう」のです。兄弟の一方が、なぜ笑ったのかと問うても、相手は「知らない」としか応えません。
やがて大事件が起こります。「クラムボンは死んだよ」という台詞。「クラムボン」が殺されてしまったのです。弟の蟹が、なぜ殺されたのかと問うても、兄はやはり「知らない」としか応えません。
やがて「クラムボン」は、また笑います。殺された「クラムボン」が生き返ったのか、別のものなのかはわかりません。
これが「クラムボン」について語られた全てです。そんな謎の多さゆえ、その正体に関する説は実にさまざまなものがあります。今回はそのなかから、いくつかご紹介。
その他にも、魚の行き来によって笑ったり、死んだりなどの変化を起こすことから泡説・光説、母親がまったく登場しないことから母蟹説、さらに作者・宮沢賢治の妹・トシ説など、実にさまざまな説が存在するのです。蟹の言語であるから不明とするもの、蟹の兄弟の造語だったとするものもあります。
きっとまだまだ、いろいろな解釈ができるはずです。本作を読むうえで、それを考えてみるのも楽しみの1つでしょう。
ちなみに、2018年現在の教科書では「作者が作った言葉。意味はよくわからない」とされています。
読者の心に残る印象としては、第1に「透明に揺らめく水中世界の幻想性」があるでしょう。
「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。」
(『やまなし』より引用)
という冒頭の1行からも、それが重要な主題の1つであることがうかがわれます。
第2には、水、泡、蟹、魚などの水中世界に突如侵入してくる、カワセミとやまなしが強い印象を残します。それぞれ何を象徴しているのでしょうか。
晩春の5月、陽に輝く水の中に鉄砲玉のように飛び込んでくる青いカワセミは、はっとするほど美しく、生命の盛んな季節の瑞々しい活動性を感じさせます。しかし魚を獲って食べてしまうことで、生物、食物連鎖の美しさと厳しさを同時に表わしているようにも感じれらます。
一方、初冬の12月、光もひんやりとした月夜にドブンと落ちてきたやまなしは、過ぎた秋の豊かさを表わすのでしょうか。よい匂いを振り撒いて水に浮き、やがて酒になるというのですから、自然の恵みの象徴に思われます。
そして、読者の心に残る3つ目は、クラムボンの謎です。こうして作品を見通すと、谷川の底という小さな世界の、全体像のようなものが見えてきます。水中世界の幻想性、5月の生命の盛んさと残酷さ、12月の冷え冷えとした静けさと自然の恵み、そのなかに異物のように入り込んだクラムボンの謎。
こんな小さな世界にも、美しさと、多様さと、神秘があります。そういった自然の美しさや残酷な現実、また謎が多いところを、賢治は伝えたかったのではないでしょうか。農業に携わり、自然を愛した彼らしい物語といえるでしょう。
- 著者
- 宮沢 賢治
- 出版日
水に浮いて流れるやまなしを、親子は追いかけていきました。父親は、木に引っ掛かり止まったそれを見て、もう少し待てば美味しいお酒ができると喜びます。
「待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈んで来る、
それからひとりでにおいしいお酒ができるから、
さあ、もう帰って寝よう、おいで」
(『やまなし』より引用)
さて、美味しいお酒はできたのでしょうか。
このあとの結末に続く言葉も、情景が想像できる、静かで美しいものです。生物として、ただそこに存在することに美しさが宿っているのだと感じられる最後です。