とても優しく、美しく、切ない想いに、思わず涙してしまう名作小説。記憶を維持できない病を持つ博士と、家政婦と、彼女の子供を中心にしたこの物語は、決して明るい内容ではありません。それなのに、暗さを感じさせない、前向きで暖かな印象の残る作品となっています。 この記事で、ベストセラーで映画化もされた本作の秘密をひも解いていきましょう。ぜひご覧ください。
今ではメジャーな存在となった、本屋大賞。2004年におこなわれた第1回の受賞作が、本作です。その内容は共感を呼び、たちまちベストセラーに。映画化もされ、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を2度受賞している名優であり、ミュージシャンでもある寺尾聡による博士役が話題を呼びました。
まずは、そんな本作のあらすじを見ていきましょう。
- 著者
- 小川 洋子
- 出版日
- 2005-11-26
「私」が家政婦として派遣された家には、博士が1人暮らし。彼は交通事故で脳を損傷し、記憶が80分しか持たないのでした。そんな彼は、数字にしか興味がありません。いつも着ている背広には、「忘れてはいけないこと」が記してあるメモ用紙が、いたるところに貼り付けられています。
そのメモの新しい1枚になった「新しい家政婦さん」である私は、はじめは戸惑いながらも、クセはあるけれど素直な博士の性格と、彼の話す数字の世界にしだいに親しみを覚えはじめるのです。
ある時、私に子供がいることを知った博士に「子供を1人で、家に待たせておいてはいけない。すぐに呼んできなさい」と促され、10歳の息子も一緒に連れてくることになりました。
博士がつけた彼の名前は、「ルート」。彼は博士に宿題を見てもらったり、博士の話に興味を持ったりして、2人はしだいに友達になっていくのです。しかもお互い、プロ野球の阪神タイガースファンであるという共通点があったことを知って、ますます盛り上がります。
しかし、博士の知っているタイガースと、ルートの知っているタイガースはまったく時代の違うもの。それでも博士を喜ばせたい私とルートは、彼を家から連れ出して野球を見にいこうと誘ったりするのでした。
そんな楽しく、平和な毎日に、唐突に終わりがやってきます。この生活にピリオドを打つことを宣告したのは、博士の義姉。家政婦の仕事の依頼者で、離れに住む未亡人です。謎の多い彼女は、いったい何者なのでしょうか。
博士との交流を諦めざるを得なかった私ですが、ルートの思い切った行動によって、事態は変化を遂げてゆくのです……。
語り手である私の目線で進む本作は、読んでいるこちらも、登場人物たちとまったく同じように博士と接することができる作品です。博士が話す数字の魅力や、数学の面白さを、私と同じように体感することで、ちんぷんかんぷんだったその数字の羅列が、謎めいた、美しいものに見えてくるはず。
まだ見たことのない美しさを、それを知る感動を、登場人物の視点を通して感じることができるでしょう。
本作の魅力の1つは、その個性的な登場人物たちの描き方だといえます。ほとんどの場面が博士の家の中で展開され、登場人物がきわめて少ないのが特徴。そんな本作の、主な登場人達たちを見ていきましょう。
博士
80分しか記憶が維持できない、記憶障害を持つ男性。ひたすら数字を愛する変人でもあります。しかし子供にはとても優しく、ルートのことを大変可愛がります。
私
家政婦として博士の家で働くことになった、物語の語り手。女手一つで10歳の息子を育てている、頑張り屋のシングルマザーです。はじめは戸惑いばかりの博士との接触ですが、彼の性格と数学の面白さに触れ、しだいに交流を深めていきます。
ルート
家政婦である私の息子。「ルート」というのは、博士につけられたニックネームです。素直でかしこく、博士に対して、大人よりしっかりと向き合って接していきます。彼の存在が、この物語の軸になっていくほどの重要人物。
未亡人
離れに住む、博士の兄の妻。家政婦を頼んだ依頼者です。母屋との行き来を禁止するなど、博士とあまり接しようとしないにも関わらず、語り手である私たちを見張っている節があったりする謎多き人物。
1962年、岡山県生まれの作家。1991年に、妊娠した姉に対する悪意を描いた問題作『妊娠カレンダー』で芥川賞を受賞。作家として第一線で活動する傍ら、2007年からは芥川賞の選考委員も務めています。
そんな彼女の書く作品は、どれも静かで美しいイメージといわれます。しかし、ほとんどの作品が『博士の愛した数式』のように、ほのぼのと温かい雰囲気を持っているわけではありません。むしろ、重く冷たい雰囲気を漂わせているものの方が多いと感じるでしょう。
ですので、本作は彼女の作品の中では、異色と見られています。
- 著者
- 小川 洋子
- 出版日
この物語の中心となっているものは、数式、そして阪神タイガースです。小川洋子は、幼い頃に医学書を読んでいた影響からか、化学のことをわかりやすく話してくれる本も出版しています。そして、熱烈な阪神タイガースファンなのです。
この物語は、彼女が好きなもの、美しさを見いだせるものを中心に書かれています。それによって、彼女ならではの視点や思いが集結し、自然と明るさや優しさが、本作に表れたのではないでしょうか。
本作のなかでは、いろいろな数式や計算方法が出てきます。なかでも重要な意味を持つのが、「オイラーの等式」です。
これは、三角数に関した数式ですが、説明することは、やや困難です。ですが簡単に説明してみます。
まず、図形などに関する幾何学では「円周の長さ÷直径」を「円周率π」と定義します。おそらくこれは、学生時代に数学の勉強で学んだという方が多いのではないでしょうか。
次に方程式などに関する代数学は、「i×i=-1」となる数として「虚数単位i」というのが定義されています。
そして微分・積分などに関する解析学では、「ネイピア数e」というのが定義されているのです。
本来関係のない、この3つの式が「eiπ+1=0」という形で繋がったもの。これが「オイラーの等式」なのです……難解すぎて、正直よくわからないですね。しかし、博士はこれを愛してやまないのです。
彼が好きなものは、この「オイラーの等式」をはじめ、すべて数式に関係しています。どんな数字でも嫌がらず、自分の中にかくまってやる強い記号、という意味から名づけた「ルート」。完全数28の背番号を持つ、阪神タイガースの「江夏」。 1とその数字以外に約数がない「素数」の存在や、誰もその観念を持つことができなかった「0」の誕生……そういったものが挙げられます。
語り手の私のみならず、読者も読んでいるうちに、ひょっとして数字って本当に美しいのではないか……と知らず知らずに興味を持ち、その世界に引き込まれていってしまうかもしれません。
この物語のなかで謎となっているのが、未亡人の存在です。初めから彼女は淡々とした口調で、事務的に私に接しています。そのため、義理の弟である博士への感情をうかがい知ることはできません。むしろ、冷たいのではないかというふうにすら感じてしまいます。
しかし、私とルート親子と、博士の距離が近づいてくるに連れて、今まで傍観していたかのように見えた彼女が、にわかにその存在を主張し始めるのです。
博士を外出させたことが気に入らなかった彼女は、私にいきなり解雇を申し渡します。博士と私たちは友達なのだという訴えにも「義弟に友達などいません」「お金ですか」と、金銭目的で近づいているという疑念まで投げかけてくる始末。
憎まれ役ともいえる彼女ですが、物語が進むに連れて、博士の人生に大きく関わっていた人物だということがわかってきます。どうやら2人は、恋愛関係にあったらしいのです。義理の関係とはいえ姉弟なので、禁断の愛といえます。
しかし、物語のなかでは、この2人の関係は一切明かされていません。あくまで、物語のなかで見えてくることからの考察となります。
読者は、私が見つけたモノや、彼女の言動から憶測していくしかないのです。真実は、ただ作者だけが知っているということになります。
本作のなかで、もっとも印象的な場面の1つが、ルートの誕生日を祝う場面です。
ケーキのろうそくが足りないことに気づき、ルートが買いに出ます。予想以上に遅くなっている彼の帰りが心配でたまらなくなった博士。私が様子を見に出かけます。やがてルートとともに帰宅すると、そこには打ちひしがれた博士の姿が……なんと、ケーキをひっくり返してしまったのでした。
ケーキを安全な場所に動かそうとした彼の優しさと、彼を傷つけまいとする私とルートの、思いやりの言動すべてが胸を刺す名場面です。そして、この誕生パーティーで、彼らは一生忘れらないこととなる思い出を作ることになります。
本作は物語自体は難しいものではないのですが、数学がたくさん出てくるので苦手意識がある方はツライと感じるかもしれません。
そんな方におすすめなのが、漫画版です。
- 著者
- くりた 陸
- 出版日
- 2006-02-03
この作品は、その数学の場面を漫画特有のコマ割りを利用して、とてもうまく表現しています。数学とストーリーとの間が絶妙なうえに、原作に忠実で読みやすいものとなっています。
原作の雰囲気が伝わる、優しい絵柄も魅力的。ぜひご一読ください。
思わず下線を引きたくなるような名言がいっぱいの本作。そのなかから、少しだけ抜粋してみましょう。
博士がルートに出した問題に、自分が夢中になってしまった私。
「この数式に隠された意味を知っているものは限られている。
その他大勢の人々は、意味の気配すら感じないで生涯を終える。
今、数式から遠く離れた場所にいたはずの一人の家政婦が、
運命の気まぐれにより、秘密の扉に手を触れようとしている」
(『博士の愛した数式』より引用)
博士と出会うことがなければ、決して触れることのなかった数字の魅力。そのワクワク感が伝わると同時に、博士と出会えたことの素晴らしさ、喜びも同時に感じられるような言葉です。
「実生活の役にたたないからこそ、数学の秩序は美しいのだ」
(『博士の愛した数式』より引用)
これは博士が数字について語った言葉です。無駄だからこそ美しいとは、どういう意味なのでしょうか。しかし、なんだか真理をついているような気がします。
「ちびた鉛筆でメモを書いて、身体に貼っている時の博士を見ると、
僕はいつも泣きたくなるんだ」
「どうして?」
「だって、淋しそうなんだもん」
(『博士の愛した数式』より引用)
私とルートの会話です。博士を普段からよく見ているルートだからこそ、気づけたのでしょう。自分の記憶が80分しか持たないという事実。やはり、それが目に見える形となって残っていくのは、淋しいのではないでしょうか。
- 著者
- 小川 洋子
- 出版日
- 2005-11-26
なんとか未亡人と和解することに成功し、私は再び博士の家で家政婦を務めることになりました。そしてパーティーの場面で山場を迎えた物語は、ラストへと向かうのです。
その後の私たちと博士がどうなったかは、具体的な場面として描かれておらず、私の報告のような形になっています。それが、彼らの流れていった時がどんなものであったかを物語っているのですが、目の前に鮮やかに浮かび上がるその様子が切なくて、優しくて、涙を誘います。
最後、成長したルートの姿には、ぜひ注目していただきたいです。
記憶が80分しか持たないという悲観せざるを得ない現実。しかし、そんななかでも、博士は幸せだったのではないでしょうか。また博士と出会えたことで、私やルートも、美しい数学と触れ合いながら、幸せな時を過ごしたに違いありません。
流れていく時間のなかで、博士と、彼が愛した数式だけは、時が流れずに美しいまま、いつまでもそこに存在し続けているのでした。
『博士の愛した数式』でほろりとこぼれる涙は、悲しいものではなく、切なさと優しさと、そして爽やかさからくるものなのかもしれません。この本を開くと、日常世界のなかにありながら、気づかない美しいものたちに触れることができます。そして、それは実はとても大切なものなのではないかと、日々の自分と、その周りを振り返ってみたくなる。そんな物語です。