しくじりを繰り返して江戸に居づらくなった弥次さんと喜多さん、逃げるように、というか逃げて、伊勢参りに出発します。軽薄で粗忽でお調子者の2人組、東海道を行く先々で、珍妙、滑稽な騒動を起こします。身勝手な小悪人なのになぜか憎めない彼らの珍道中を描いた、江戸時代の傑作コメディです。 ここでは、東海道の名所を紹介する旅のガイドブックとしても読まれ、当時のベストセラーになった本作を、徹底解説します!また、参考は「新編 日本古典文学全集」シリーズの『東海道中膝栗毛』です。
浮付いた性格で落ち着いた暮らしができない弥次さんと喜多さんは、住み慣れた江戸を離れて伊勢参りに出かけます。根が軽薄でお調子者の2人は、お互いにからかい合うばかりか、行く先々で出会う人にもちょっかいを出してふざけますから迷惑な話です。そういう愚行の果てに失敗をしてひどい目にあっては、下手くそな狂歌を読んでオチがつく、という構成の話が、宿場毎に繰り返されます。
江戸時代後期に書かれた、滑稽本と呼ばれる今でいう、喜劇やコメディの類の傑作です。土地毎のお国柄や名所、名産品などが丁寧に描かれているので、旅行案内としても重宝されたようです。出版されるや大人気となり、類似の本がたくさん作られるほどでした。
タイトルの「膝栗毛」の栗毛とは栗毛の馬のことです。自分の膝を馬の代わりに乗って行く、つまり徒歩旅行のことを洒落て「膝栗毛」といいました。
- 著者
- 十返舎 一九
- 出版日
古典喜劇の名作中の名作ですから、映画化作品も数多く「弥次喜多もの」という1つのジャンルを形成しているほどです。
また、HDカメラで撮影した歌舞伎の舞台公演を、スクリーンでのデジタル上映で楽しむという形式の「シネマ歌舞伎」の一環として、2016年に『東海道中膝栗毛〈やじきた〉』が公開されました。
弥次さんを市川染五郎(2018年現在・松本幸四郎)、喜多さんを市川猿之助という豪華キャストでした。江戸を逃げるように伊勢参りに旅立つという大筋は同じですが、途中でラスベガスに行ってしまうなど、思い切った奇想天外な脚色で人気を博し、翌年には続編『東海道中膝栗毛 歌舞伎座捕物帖』が公開されました。
十返舎一九は、1765(明和2)年、駿府(現在の静岡市葵区)生まれ。幼名は市九で、一九の名はここから取ったようです。江戸、大阪で武家に奉公しましたが、後に浪人して浄瑠璃作者となりました。30歳で江戸に戻り、黄表紙と呼ばれる絵本を描いて作家活動を始めます。一九は文章だけでなく絵も描いたので、版元には重宝されました。そのため、黄表紙以外にもさまざまな本を書き、自作以外の出版も手伝いました。
1802(享和2)年『東海道中膝栗毛』が大ヒットします。当時は、本の刷り部数に応じて報酬を支払う印税という制度がなく、作家の報酬は原稿料だけでした。そのため、滝沢馬琴などの人気作家ですら副業を持ち、大変に貧しい暮らしをしていたのですが、一九は作品執筆による収入だけで生活したと言われますから、人気のほどがわかります。
目の病気や中風を患い、晩年は貧しく暮らし、67歳で没しました。辞世の句は「此(この)世をば どりゃおいとまに せん香と ともについには 灰(はい)左様なら」という、「おいとまにせん(しよう)」と「線香」をかけ、線香の灰と「はいさようなら」をかけた、とぼけた句でした。
本作の名コンビ2人組をそれぞれご紹介しましょう。
さて旅の発端はというと、平穏な暮らしが退屈になった弥次さん、何の罪もない女房を策略を用いて追い出してしまったからひどい話です。罰が当たったのか、女房を騙すために雇った身重の女が死んでしまいます。
一方、喜多さんは、奉公先の店の主人が死にかかっていて、死んだらそこの主人に収まろうと算段しています。これもひどい話。これを見破られて店をクビになります。運の悪さを嘆く2人は、連れ立って厄払いの伊勢参りにと旅立ちます。
弥次さん喜多さんが旅をした東海道は、江戸時代の主要五街道の1つです。五街道は徳川家康が全国統治のために整備した道で、東海道は江戸日本橋から京都三条大橋までの約125里(500km)を結ぶ街道です。その間に53の宿場があり、これがいわゆる東海道53次。箱根と新居には関所が設けられていました。弥次さんと喜多さんは、日本橋から伊勢神宮までを15日で旅し、その後、京、大阪へと向かいます。
また、宮(現在の愛知県名古屋市熱田区付近)から桑名(現在の三重県桑名市)の間の7里(28km)ほどは東海道唯一の海上ルート。作品中では、客の持っていた蛇が船の上で逃げ出したり、弥次さんが筒の中にしたおしっこをこぼしたりして、大騒ぎになります。
この作品が大ヒットした理由として、戦のない江戸時代も後期になると、平和な世の中が定着してきたという時代背景が挙げられます。暮らしに余裕ができ、各地に作られた寺子屋などに比較的豊かな町人や農民の子供が通うようになり、識字率が上がりました。最初は、読み書きは仕事の質を向上させる目的だったのでしょう。しかし結果として娯楽としての読書が流行し、「黄表紙」「洒落本」という絵入りの娯楽読物が多く出版されました。
また、日本語の文字種類の多さがネックとなって、日本では活版印刷はなかなか普及しなかったこともヒットの理由に一役買っているでしょう。江戸時代の出版物は、ほとんどが版木を手彫りした木版印刷で作られました。技法としては原始的ですが、浮世絵を見ればわかる通り、非常に洗練された印刷技術があったのです。
さらなるヒットの理由としては、江戸時代に何度もあった伊勢参りの流行もありました。旅行案内としての需要もあったのです。作品最大の魅力は弥次さん喜多さんの滑稽な振舞いですが、各地の名所、名物なども詳しく描写されていて、旅のハンドブックとしてとても便利でした。
御当地グルメだけでも、府中の安倍川餅、丸子のとろろ汁、瀬戸のそめ飯、桑名の焼はまぐりなどが紹介されています。滑稽な娯楽読物としても面白く、案内書としても便利だったのから、お得に感じられたことでしょう。
この作品は、弥次喜多の生い立ちと出合いから、江戸に来てさらに旅立つまでを描いた「発端」という章から始まりますが、この発端は、実は旅を描いた部分が全部でき上がった後から付け加えたものです。もっと読みたいという読者へのサービスか、むやみに江戸っ子ぶっていた2人が実は地方出身者だったおかしさを描こうとしたのかも知れません。
弥次さんと喜多さんの出会いは駿府のことですが、喜多さんはまだ若い役者で鼻之助と名乗っていました。弥次さんは、大きな商家の息子で大金持ちだったのですが、この鼻之助に夢中になり、2人で贅の限りを尽くして遊びまくり、揚げ句の果てに莫大な借金をこしらえます。
そう、2人はホモセクシャルの関係だったのです。弥次さんはしかたなく、鼻之助を連れて江戸へ逃げて来ました。つまりは男同士の駆け落ちです。
それにしては、旅の間の2人のやり取りに色気がありません。もはや中年とはいえ、かつては恋人同士だったなどという雰囲気がまったく感じられません。2人は、女性に夜這いをかけるなど、旅の間にスケベな悪さをさんざんしますが(そしてことごとく失敗するのですが)、それもあんまりべとつかず、あっけらかんとしています。どうもセックスや恋愛に関する意識が、現代の私たちとは違うようです。
こういう現代との感覚の違いを知るのも古典を読む楽しみの1つでしょう。
ここではピックアップした各地のエピソード、彼らの旅の結末をご紹介しましょう。
この後2人は、念願の伊勢に参り、花の都京を見物し、天下の台所大阪で遊びます。帰りは木曽路経由で、草津の温泉に浸かり、善光寺、妙義山、榛名山に参詣し、無事に江戸へと帰国しました。そして旅は終了です。
どこに行っても悪ふざけと失敗を繰り返す2人。下ネタ満載で本当にくだらなく馬鹿馬鹿しく、肩の凝らない笑いに満ちています。笑いながら、当時の人々暮らしや旅の知識に触れられる良作ですので、ぜひ気楽に読んでみてはいかがでしょうか。