歌人・俵万智のベストセラー、『サラダ記念日』。歌集としては、異例の売り上げで、1987年の流行語大賞の新語部門も受賞。各地にさまざまな「○○記念日」ができたほどの衝撃作でした。 それまでの歌集の概念を変え、庶民が身近に詠むこともできる歌の世界を作り出した本作。この記事では、その魅力を探っていきましょう。
『サラダ記念日』は、1987年に発行された、俵万智のデビュー作。発行部数280万部の、大ベストセラーです。
当時、短歌といえば教科書に載っているもの、古臭く小難しいものという印象がほとんどでした。しかし、彼女が表現したのは、日常の光景。そのなかで起きるちょっとした出来事や心情を、口語体のわかりやすい言葉で表現したのです。さらに主に恋愛がテーマになっていることで、多くの女性の心を掴みました。
五、七、五、七、七のたった三十一音でさまざまな思いを表す短歌には、いくつかの表現技法があります。表題作の「サラダ記念日」のように、名詞で終わって余韻を残す効果の体言止めなど、その句にあった表現技法を駆使して詠むのが、一般的な短歌です。
しかし、文字数を合わせず、わざと外して効果を出す方法などもあり、そういった技法は本作にも使われています。
サラダ記念日
2016年07月06日
また、本作は海外まで広がり、英語、フランス語、中国語などに訳されて出版されています。短歌を訳すというのは非常に難しいですが、女性のちょっとした思いや心情は、万国共通に伝わるということでしょうか。
また、『サラダ記念日』は映像化もされていて、日曜東芝劇場で安田成美と船越栄一郎が主演でドラマ化されました。
さらになんと寅さんシリーズにまで影響をおよぼし、シリーズの40作目が『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』という題名になっています。マドンナ役の三田佳子が短歌に凝っているという設定になっていて、俵万智の歌が随所に使用されているという内容です。その人気のほどが伺えますね。
作者・俵万智は、歌人として名を馳せる以前は神奈川県立橋本高校で国語の教師をしていました。
万智ちゃんを 先生と呼ぶ子らがいて 神奈川県立橋本高校
(『サラダ記念日』より引用)
という歌もあります。
チョコレート革命
1997年05月01日
そんな彼女は恋愛をしている時の心情を歌に表すことが多いのですが、さらにある特徴があります。3作目の歌集『チョコレート革命』では、
男ではなくて 大人の返事する君に チョコレート革命起こす
(『チョコレート革命』より引用)
という歌があります。この『チョコレート革命』から感じ取れるように、不倫をうかがわせる内容の歌が多く収録されていることも特徴なのです。
その後、未婚のまま男の子を出産したことや、東日本大震災後、沖縄に移住したことなどでも話題となりました。
「この味がいいね」と 君が言ったから 七月六日はサラダ記念日
(『サラダ記念日』より引用)
こちらが表題作の「サラダ記念日」ですが、後に俵万智本人が裏話として明かしたところによると、この歌には2つの嘘があるということなのです。
1つ目は、いい味だといってくれた食べ物はサラダではなく、「カレー味のから揚げ」だったとか。
どうして変更したのかの理由として、それだとヘビーな感じになりすぎるので、いい味だと言ってくれるのが嬉しくなるさりげない食べ物、ということでサラダにしたそうなのです。
2つ目は、日付け。
サラダがおいしい爽やかな初夏と、7月という言葉の響きを選んで設定したとのこと。なぜ6日なのかというと、7月7日だと恋人の日(七夕)になってしまうので、何でもない日でありながら、ちょっと恋人を思わせる日として前日を選んだようなのです。
松尾芭蕉が詠んだ句で、
文月や六日も常の夜には似ず
(『奥の細道』より引用)
という句があるのですが、「7月6日も七夕の前日だと思うと、いつもの夜ではないような気がする」という意味で、まさにサラダ記念日を詠んだ状況と同じです。暦の上では何もない日だけれど、ちょっと特別。
そのことに気づいた丸谷才一(小説家、翻訳家など)がなかなかよろしいということを述べていたそうですが、俵万智本人はその句のことは知らなかったんだとか。
本作のベストセラーは、今では不思議に思える現象かもしれません。そこまですごいかな?という意見も無きにしも非ず。
なぜそんなにもヒットしたのか?そこにはさまざまな意見が出てくると思いますが、やはり短歌を身近なものにしたこと、そして「こんな風に自分の気持ちを普通に詠んでもいいんだ」ということが世間に認識されたことが大きいのではないでしょうか。
難しくて語訳がなければ意味がわからなかった、ややこしい短歌というイメージを、普通の女性が、普通の言葉で気持ちを表すことで覆したというところに、意味があったのだと考えられます。
また、短歌の本が売れているという事自体が話題になり、話題が話題を呼んだということも考えられます。「読みやすそうだし、ちょっと読んでみるかな」という人がたくさんいた結果、驚異の売り上げを叩き出したという側面もあるでしょう。
ただ、やはり何より、恋をする女性の気持ちを、あの短い言葉のなかに的確に表現したこと。そこに多くの女性が感動を覚え、共感し、支持したのではないでしょうか。
大御所作家によって、本作のパロディも出ました。
筒井康隆による「カラダ記念日」は、短編集『薬菜飯店』のなかの一篇です。 ヤクザの視点から書かれた物語で、『サラダ記念日』の短歌を大いにパロっています。
- 著者
- 筒井 康隆
- 出版日
「この刺青いいわ」と 女(スケ)が言ったから 7月6日はカラダ記念日
(『薬菜飯店』より引用)
を筆頭にして、こんな感じでパロディ短歌がいろいろと出てきます。『サラダ記念日』とは似ても似つかぬなかなかドギツイ内容の筒井ワールド。
なんと、小林薫主演で映画化もされています。
俵万智ですが、近年ではツイッターにあげられている、小学生の息子さんとのやりとりも話題です。
「先生ってさあ」と息子。
「よく、前を見なさい!って言うよね」。
まあ、あんたがよそ見ばっかりしてるからじゃない?
「でもさあ、オレにとっては、見ているほうが前なんだよね」
…ん?
(「@tawara_machi」より引用)
息子「オレが子どもだったころ…」と何かを言いかけて
「まあ、今でもじゅうぶん子どもなんだが…」と恥ずかしそうにフェイドアウト。
子どもだったころ、なんだったのかな?
(「@tawara_machi」より引用)
仲良しの女の子が転校することになった。
彼女は、ウチの息子だけは連れていきたいと言ったらしい。
「でも、オレは、オモチャじゃないから…」。
(「@tawara_machi」より引用)
絶妙な言葉の選び方と会話のセンスに、感心したり笑えたり。天才の子は天才ということでしょうか。将来有望な少年ですね。
心に響く歌は人それぞれですが、なかでも人気の高いものをご紹介します。
「寒いね」 と話しかければ 「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
(『サラダ記念日』より引用)
「寒いね」という何気ないやりとりと、それに対比する心の暖かさを歌っています。日常交わす言葉のなかで感じる、ささやかな幸せです。
「嫁さんになれよ」 だなんて カンチューハイ二本で言ってしまっていいの
(『サラダ記念日』より引用)
すごく大切な事と、お手軽な缶チューハイとの対比がおもしろい歌。酔っぱらった勢いだったのか、お酒の力を借りての勇気を出した発言だったのか、どんなふうにも考えられる彼氏の心情ですね。
自転車のカゴから わんとはみ出して なにか嬉しいセロリの葉っぱ
(『サラダ記念日』より引用)
何気ない日常の幸せ感が出ています。セロリというあたりが爽やかな感じです。白菜やほうれん草だとちょっと所帯じみてしまいそう。
『サラダ記念日』が出版されてヒットした当時は、口語すぎる短歌に賛否両論あったようです。言葉の美しさに重きをおけば、日常の言葉で歌う短歌は確かに綺麗ではないかもしれません。しかし読む人の心に響くということを考えれば、多くの人にとって身近であるということは、大きな功績となるのではないでしょうか。