時は中世、ペストが大流行していたイタリアのフィレンツェを逃れて、10人の男女が郊外の屋敷へ引きこもります。退屈しのぎに、1日に1人1話ずつ、何か面白い話をすることにしました。合計で1日に10話、10日間で100話の話が語られます。その内容は滑稽な喜劇を中心に、恋愛、冒険、悲劇と、実に多様。 過激な内容に、当時は風紀を乱すと批判されたこともある、革新的内容の本作を紹介します。
物語の舞台となっている1948年のヨーロッパでは、小説のなかだけでなく、現実にペストが大流行していました。特にフィレンツェでは、人口の3分の2が死亡したといわれる年でした。
このような時代背景をもとに、女性7人、男性3人の紳士淑女が、郊外の屋敷に避難したというところから始まる本作。1日に10話ずつ、10日かけて100の物語が語られます。タイトルの『デカメロン』とは、イタリア語で「10日物語」という意味です。
話をする人物は、みな上品な人柄で、暮らしぶりにも乱れたところはありません。しかし語られる内容はかなり過激。エロティックなもの、不謹慎なもの、残酷なものを含みます。死に満ちた陰鬱な現実に対する反動から、奔放な生命力に満ちた話をしているとも感じられる内容。登場人物たちは、庶民から貴族や王様、聖職者、異国のイスラム教徒とさまざまですが、みな活き活きとして、活力にあふれています。
- 著者
- ジョヴァンニ ボッカッチョ
- 出版日
- 2017-03-07
本作は、ダンテの『神曲』に対して『人曲』と呼ばれるほど、後の作品に与えた影響力の大きいイタリア文学の古典。14世紀にイギリスで書かれたチョーサーの『カンタベリー物語』は、偶然に同じ宿に泊まった人々が、それぞれ知っている話を順に語っていくという形式で書かれており、本作の影響を受けているといわれている作品です。
それほどの古典ですから、日本でもくり返し翻訳されており、岩波文庫、河出文庫、講談社、ノーベル書房などから発行されています。あまり古いものは、過激な表現をひかえていたりするので、できるだけ新しい訳、そして部分訳ではなく全訳をお薦めします。
河出文庫版の表紙は、ルネサンス期の画家ボッティチェルリが本作を題材にした絵画を使用。また、現代イギリス画家のジョン・ウィリアム・ウォーターハウスには、題名もその物ずばり『デカメロン』という作品があり、語り手たちが屋外で物語を語り合っている場面が描かれています。ここからも本作の影響力の大きさが感じられますね。
1971年には、イタリアのピエル・パオロ・パゾリーニの監督・脚本で映画化もされました。音楽はエンニオ・モリコーネ、キャストはフランコ・チッティ、ニネット・ダボリのほか、パゾリーニ自身が出演しています。
作者のジョヴァンニ・ボッカッチョは、1313年生まれ。フィレンツェ商人の父と、フランス人女性との間に生まれたとされています。ダンテ、ぺトラルカと並び、ルネサンス期を代表する文学者です。
父親が経営していた銀行で働きますが、仕事よりも文学に情熱を傾け、宮廷に出入りする機会も多く、そこにいた知識人や学者に古典文学を学んだのだそう。
年齢はダンテよりも50歳ほど下で、面識はありませんでしたが、熱烈なファン。それまで単に「戯曲」と呼ばれていた彼の作品に、「神聖なる」という言葉を付けて『神曲』という題名を定着させたのはボッカッチョでした。
- 著者
- ダンテ
- 出版日
- 2008-11-20
そんな彼は、『フィローコロ』『フィアンメッタ夫人の哀歌』など、次々と文学作品を発表します。しかし、そんななか1348年、ペストが猛威をふるい、父が亡くなります。その影響をうけ、それから2年かけて最高傑作『デカメロン』を書き上げたのです。
その後、『コルパッチョ』を書いてからは、学問的研究に打ち込むようになりました。そして1375年、62歳で没しています。彼の名前と『デカメロン』は、ルネサンス期の代表的文学の1つとして、世界史の教科書にも登場するほど。日本でも名前を聞いたことがある人は多いであろう、偉大な名作を書き上げた作家です。
この作品の背景になったペストは伝染病の1つ。感染すると皮膚が黒くなることから、黒死病とも呼ばれていました。元々はネズミの病気で、その血を吸ったノミから人間に感染するといわれています。現代では抗生物質などの治療法がありますが、中世には致死率の高い病気として恐れられました。体のだるさが数日続いた後、40度近い高熱が出るのが特徴です。
1348年のフィレンツェの様子については、『デカメロン』の「第一日まえがき」で詳細に述べられています。
一日に数千人もが発病しました。
誰も介抱してくれず、なんの助けもありません。
救いの道は閉ざされたも同然です。
みんな死にました。昼も夜もです。
通りで亡くなった人も相当おりました。
もちろん屋内で息絶えた人はもっと多かったのです。
腐敗した死体の悪臭でやっと死んだということが隣人にもわかりました。
いたるところこうした死人やああした死人で町中が満ちました。
(『デカメロン』より引用)
ちなみにこのような陰惨で気の滅入る描写は、前提を説明する「第一日まえがき」に集中していて、その後は面白く楽しい話が続くので、ご安心を。
エロ小説か否か。
よく問われるこの疑問に対して端的にいうと、答えはイエスです。
100話のうちの多くが、今の言葉でいえばエロティック・コメディですし、コメディ的でない話も、ほとんどにセックスの場面があります。それも明らかに、芸術的に性愛の問題を扱ったものではなく、非常に下世話な興味を刺激する種類のエロなのです。
日本でも、戦前までは何度訳されても発禁になっていましたが、発表当時のイタリアでも猛烈に批判されました。作品が完成する前からすでに部分的に発表されていたらしく、その時点で激しい批判があったのでしょう。作品の途中「第四日まえがき」で、著者の反論が挟まれています。
特に女性の方がエロティックなスキャンダルを好むという風潮があった当時、この作品の攻撃者たちは、本作を「女性に媚びている」と非難。それに対して著者は、「ご婦人方の気に入るよう心を込めてつとめました」とぬけぬけと言い放ったのです。
批判者たちの主張は、表向きでは「風紀を乱す」とか「不謹慎」といったもの。しかし、『デカメロン』は喜劇の常として、権力者、聖職者、お金持ちを諷刺し、からかう要素が強く、時には強い口調で批判しました。そのような潮流が好ましくない人々が、言い掛かりを付けた面もあると思われます。
そのエロティックな内容を、いくつかご紹介しましょう。
『デカメロン』の「第一日」はエロの要素が少ないのですが、「第二日第十話」となると、かなりあけすけな内容となっています。
「第二日第十話」
年老いた男が、若い妻をめとります。ある時、妻は海賊にさらわれてしまいました。男は妻を探し出し、海賊に返してくれるように頼みます。海賊は妻が望むなら許すと言いますが、妻は望みませんでした。彼女は海賊と思う存分、「楽しんで」いたようで……。
「第三日第一話」
ある男が、言葉が喋れないふりをして尼僧院の庭師になります。すると人にバレにくいからと、尼さんたちがみんな競って、彼と寝ようとして……。
「第九日第二話」
ある尼僧が男と寝ている現場を押さえようと、尼僧院長は急いで起きました。ところが、尼僧院長自身が男と寝ていたので、ある手違いがあり……。
風紀を乱すといわれても、仕方がないかもしれませんね……。
『デカメロン』は社会風刺的な側面があるとお伝えしましたが、そのなかでも有名なエピソードが「第一日第三話」。その内容は次のようなものです。イスラム教の君主・サラディンは、ユダヤの商人にこんな質問をします。「ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の法のなかで、どれが1番真実か」……むちゃぶりです。
どれと答えても、非難して財産を取り上げようというサラディンの魂胆でした。それに対して、ユダヤの商人は1つの物語を話します。
昔ある大金持ちの家に、代々家宝として受け継がれた指輪がありました。指輪の持ち主が家長となり、遺産を相続する決まりでした。
ある代になって、その家は3人の優れた息子を授かります。どの子に家を継がせるか決めかねた父親は、区別できないほどそっくりの指輪を2つ作り、それぞれの息子に1つずつ与えました。父の死後、彼らは3人とも自分が相続人だと主張し、その争いは今も続いています。
そして、ユダヤの商人はサラディンにいいます。3つの宗教を信じる者はみな、自分の方こそが真実だと信じております。しかし、それは指輪同様、いまだに解決されていないのです、と。
中世のイタリアはカトリック絶対主義でしたから、こんな相対主義のようなことをいうのは、冒涜といわれても仕方がありません。知識人のボッカッチョがその危険を知らないはずはありません。なんらかの罰を受けたり、密かに危害を加えられたりすることも、覚悟のうえのキリスト教批判だったのでしょう。
もっとも、こんな喩え話は大人しい方で、「第三日第七話」では、長く詳しい直接的な聖職者への批判が、延々と続きます。
しかし今どき、坊主などと称し、
世間からもそのように遇せられたいと思っている連中には、
法衣だけが僧侶というのが沢山いる
(『デカメロン』より引用)
このように、かなり手厳しい意見も。この後に長く続く非難と罵りは、明らかにバランスを欠いていて、著者がいかに腹に据えかね、怒り心頭に発しているかがうかがえます。
- 著者
- ジョヴァンニ ボッカッチョ
- 出版日
- 2017-05-08
最後を飾る「十日第十話」は、ものすごく献身的な女の話です。
サンルッツォ侯爵は結婚する気がなかったのですが、家臣たちが懇願するので、しかたなく百姓の娘・グリセルダをもらいます。一時は身分の低さから、あんな女を妻にするとは愚かな男だと噂されますが、優しくて賢いグリセルダは、たちまち人徳の侯爵夫人として賞讃されるようになります。
ところが、最初から好きで結婚したわけではない侯爵は、彼女をこれでもかといじめるのです。生まれた子供を取り上げて、よそに預け、彼女には殺したと思いこませた挙げ句、遂には下着1枚で追い出してしまいました。
それでも足らぬと思ったのか、よそに預けていた娘を屋敷に戻して、新たな妻と偽り、グリセルダには結婚式の支度をさせる始末。
しかし侯爵の意地悪の凄まじさとともに、文句1つ言わずにそれに耐えるグリセルダの献身も、常軌を逸したもので神話的象徴性を帯びてきます。さて、この後、2人はどうなるのでしょうか。
その結末はある意味ハッピーエンドですが、それまでの流れを考えると疑問に思う人も多いような内容です。しかし、そんな読者の気持ちをくみとるような皮肉がきいた最後の言葉にスッキリすること間違いなし。物語を軽快に〆る作者の力量にうならされることでしょう。
そんな本作に収められた100話は、ここまでにご紹介した以外にも実にバラエティに富んでいます。エロティック・コメディを中心に、恋があり冒険があり、純情があり、騙し合いがあります。登場人物も多彩です。
貧しい庶民、貴族、王様、商人、軍人、海賊、貞淑な人妻もいれば、奔放な貴婦人もいます。そして、みなが逞しく、活き活きと、それぞれの人生を生きるのです。ぜひ、その様子をご自身でご覧ください。