【連載】カッターでは腕を切ることができない

更新:2021.11.16

「メンブレ」という言葉が流行っている。「メンタルブレイク」つまり「精神が壊れる」。実際に日常で使うときは、もっと気軽な感じで口にすることが多いみたいだ。自分の人生を振り返ってみると、ああ、メンブレしていたなあと思うことが多々ある。そしてそんな状態の私を救ってくれたのは、いつだって本だった。

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10代の私は、容姿や頭の良し悪し、運動神経など、とにかく周りから評価をされるすべてのことに自信がなく、何をするにも不安だった。部活の友人たちは好きだけど、自分が1番へたくそなので、どこかで馬鹿にされてるのではないかと不安だった。勉強はなんとなくできたけど、もちろんクラスでトップなわけではない。

ある時、クラスで同じグループだった子たちから急に無視をされるようになった。毎年クラス替えがある学校だったので4月から仲良くなったばかりの子たちで、しかも女子校だったのでそんなことは日常茶飯事で、最初は「ふーん」と思っていたが、いくら考えても理由がわからなかった。

幸い仲良くしてくれる子が他にもいたので学校には通っていたが、気にしていないつもりでも、家に帰るとそのことばかりを考えた。

当時、ちょうど高校生のいじめをテーマにした漫画が流行っていて、主人公の女の子がリストカットをしているシーンを読んだ私は、妙に憧れの気持ちを抱いた。リストカットをすれば、主人公と同じ土俵に立てると思った。

そして、家にある一番丈夫そうなカッターを手にしたのだった。

 

 

20歳を超えた私の心も、常に不安に侵食されていた。今日も右手にカッターを持つ。

でも、私の左腕はとても綺麗だ。

多くの人は知らないだろうが、カッターでは腕を切ることができない。腕の内側にあてがって横に滑らせても、白いラインが薄く入るだけで、漫画のように血がポタポタとたれることはないのだ。

あの時見た主人公は、たいして指に力を入れていないように見えた。それでもその傷は深くえぐれていたし、下を向けた腕には指の先まで血が流れていた。

私が右手の力を強めると、うっすらと赤いものが滲むこともあるが、それだけ。妙にヒリヒリとして、ちょっと痒くもある。それ以上やる勇気はなかった。

リストカットもできないのか。
痛くもないのに泣いていた。

もしかしたら、家にあるカッターの切れ味が悪かっただけかもしれない。だけど私は、新しいカッターを買うことも、もっと深く切れるであろう剃刀を買うこともなかった。

20代後半になった私の左腕は、今も綺麗なままだ。一人暮らしを始めた家には、カッターを置いていない。

 

著者
絲山秋子
出版日
2005-02-25

 

リストカットに憧れた自分のことを、「病んでいる」と思ったことはない。それでも、あの時の私の精神はどこか壊れていたんだろうなあと思う。

絲山秋子の『逃亡くそたわけ』は、大学生になってから読んだ。

どうしようどうしよう夏が終わってしまう。二十一歳の夏は一度しか来ないのにどうしよう。この狂った頭の中には逆巻く濁流があって、いてもたってもいられないのだった。プリズンで夏を終わらせるのだけは嫌だった。

自殺未遂をして、福岡のプリズンこと精神病院に入れられた「あたし」が、同じく患者でおぼっちゃまの「なごやん」を誘って脱走、九州を縦断しながら逃走する話だ。

躁うつ病の「あたし」と、うつ病の「なごやん」。

「俺の薬見る?」
なごやんはクロゼットを開けて上の段から靴箱を取り出した。中身は全部薬だった。
(中略)
「レボトミンないと?」
「そんな薬聞いたこともない」
「ヒルナミンがあるやん、ヒルナミンとレボトミンは一緒の薬たい」
「ああ、それ眠剤の補助に使ってる」
「あとは何飲みようと?」
「ロヒプノール」
「ロヒはあたしも要るっちゃが。ようけあると?」
「一シート」

聞いたことのない薬の名前がたくさん出てくるが、私はふたりのことを遠い世界の人とは思わなかった。

薬を手にして、逃げるふたり。あやうい。逃げ切れるわけはない。常に「終わり」の予感を漂わせながら、逃亡劇は進んでいく。

夏の終わりが近づくとともに、デッドラインがちらちらと見え隠れする。それでも、時には罵りあいながら、ふたりは楽しそうだった。生き生きとしていた。逃げてもいいんだと思った。最終的には「くそたわけっ」と叫んで帰ることになるのだが。

耐えがたい何かが起きた時、私はずっと平気なフリをしていた気がする。その結果がリストカットなど、一瞬だけ不安を見ないでいられる行動に繋がっていった。

だけど、もっと大胆に、その「場所」から逃げていいんだと思った。「あたし」と「なごやん」は、実に福岡から鹿児島まで行ったのだ。

思えば私の読書も、逃避と抱き合わせだった気がする。小説を読んでいれば物語の世界に浸ることができるし、現実世界で直面していることから目を背けることができた。

この本を読むまでは、逃げることがいいことだとは思っていなかった。でも、ふたりに比べたらかわいいものだ。生きるために逃げていいのだ。同じような思いを抱えている人がいることを信じて、これからは、私が逃避に使った本を紹介していきたいと思います。

 

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