アメリカ文学を語る上で外せない名作『ライ麦畑でつかまえて』。村上春樹をはじめ、国内外の有名作家が大きく影響を受けていることでも知られています。作者・サリンジャーが生誕100年を迎えた2019年、彼の半生を描いた『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』がニコラス・ホルト主演で公開されました。「熱烈なファンが多い」ことでも知られるサリンジャー作品。それらの魅力と合わせて、公開映画のみどころをご紹介します。
サリンジャーといえば……といっても過言ではない代表作『ライ麦畑でつかまえて』。
映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』では、サリンジャーが小説を描き始めたころから、その筆を止め隠遁生活に入るまで、その作家人生が描かれています。
短編でデビューしたサリンジャーが、なぜ長編『ライ麦畑でつかまえて』を書くに至ったのか。映画では物語の構想を裏付ける彼の人間関係や、サリンジャーにとって「ホールデン」がどういう存在だったのかが描かれています。
ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)
1984年05月20日
まずは『ライ麦畑でつかまえて』のあらすじをおさらいしながら、映画とリンクしたシーンをご紹介します。
『ライ麦畑でつかまえて』は主人公でもあり、語り手でもあるホールデンが退学処分を受けたところから始まります。先生に会いに行って説教をされたり、寮に戻って友人の作文を手伝ったところ殴り合いになったりと、不愉快なことばかり。孤独でやりきれない気持ちになったホールデンは実家のあるニューヨークに向かうことを決め、夜中に寮を飛び出します。
ニューヨークについたホールデンは家には帰らず、ホテルをとってダンスをしに行ったり、ピアノの演奏を聞きに行ったりと気ままに過ごします。しかし、未成年ながらお酒を注文して身分証を見せるよう求められたり、タクシーの運転手に「公園の家鴨」の話をして「からかっているのか」と怒られたりと、出会う人たちとうまくコミュニケーションをとることができず、不満を溜め込んでいきます。
<映画では……>
サリンジャーが退学を繰り返していることがわかるシーンや、作家になるために行った大学で、のちの恩師となるウィット・バーネット教授に皮肉を言うシーンなどが出てきます。また、サリンジャー自身が酔っ払って「公園の家鴨」の話をする場面もあり、「作品を読んだ人ならわかる!」要素が多いのも見どころです。
ホールデンは戯曲などの知識があることから「頭のいい娘」と思っていたサリーにデートの約束をとりつけ、街をふらふらしていたところ、子どもがライ麦畑の民謡を歌っているのを耳にします。その後サリーと劇を見に行ったりスケートをしたあとで、一緒にどこか遠くに行こうと誘いますが「できっこない」と諭され、彼女を侮辱し怒らせてしまいます。
<映画では…>
サリンジャーが一目惚れした女優、ウーナ・オニールが登場。華やかでどこか気まぐれなウーナには、サリーと共通する部分が多く見られます。また、ホールデンが初めて登場し、『ライ麦畑でつかまえて』の元になったともいわれている短編『マディソン街のはずれの小さな反抗』に関するエピソードも。
雑誌掲載が決まったものの、サリンジャーが修正を突っぱねるシーンでは「男女が結ばれない結末」や「人には依存症でなくても酒におぼれたい時がある」といったセリフが……。リアリティのある物語を書くことにこだわった彼の姿が描かれます。
また、ライ麦畑の民謡「Comin' Thro' the Rye」のジャズアレンジもBGMとして使われています。
妹のフィービーに会いたくなり、こっそりと実家に戻るホールデン。「父に殺される」ことばかりを心配するフィービーですが、ホールデンに好きなものはないのかと問いかけます。ホールデンは「フィービーとおしゃべりしたりすることが好き」と答えるのですが、それは「もの」ではないと一蹴されます。そこで「ライ麦畑で子どもが崖から落ちないように捕まえる役目」になれたらいいと話し、家を出ます。
恩師に会いに行き、聾唖者として暮らすことを思いついたホールデンは、フィービーに手紙をことづけて遠くへ行こうとしますが、フィービーもまた家を出る支度をしており、一緒について行きたいと言います。なだめながら入った動物園で回転木馬に乗ったフィービーを見た時、幸福感を覚えたホールデンは家へと戻ったのでした。
<映画では……>
戦争の強いショックにより、物語が書けなくなってしまうサリンジャー。その葛藤を描くシーンに回転木馬が登場し、原作ファンにはたまらない演出となっています。またサリンジャーと家族の関係も描かれており、「お金にならないこと」にのめり込むサリンジャーに父が怒る場面も。
サリンジャーは91年の生涯に対して、出版された本の冊数が少ないことでも有名です。
サリンジャー自身が選んだ9編をまとめた『ナイン・ストーリーズ』は発行こそ『ライ麦畑でつかまえて』よりも後ですが、その短編自体はニューヨーカー誌に掲載されていたものでした。太平洋戦争時は、兵士として戦地に赴いたサリンジャーですが、その後神経衰弱と診断されるなど、精神的な苦痛に悩まされたといわれています。
日本では漫画『BANANA FISH』が有名ですが、そのタイトルの元となったのはこの短編集に収録されている「バナナフィッシュにうってつけの日」です。バナナフィッシュは「バナナ穴に入って、バナナを食い散らかして太る魚」として描かれますが、その童話的な世界観とは裏腹に、登場する青年は物語の最後に銃で自分のこめかみを打ち抜きます。
- 著者
- サリンジャー
- 出版日
- 1974-12-24
この青年については「自分の足を見られてる」といった強迫観念にかられていることからも、兵役による精神的な病から自殺したのではないかという考察が多くされてきました。
<映画では……>
兵役が終わり、小説が書けなくなったサリンジャーは、短編選集を出そうとアメリカに戻ってきます。しかし、実際には出版できず、失意の中で「生きているのが申し訳ないくらい」という気持ちに苛まれていることを明かします。東洋思想との出会いにより、再び筆をとるサリンジャーを描いたシーンでは
”シー・モア・グラス(もっと鏡見て)”
という「バナナフィッシュにうってつけの日」の一節も登場します。そのほかにも『フラニーとゾーイ』や『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモアー序章ー』などからの引用が多く出てきます。
細かく状況が描かれ、また主語で描かれる『ライ麦畑でつかまえて』に対して、短いからこそよりさまざまな解釈が広がるサリンジャーの短編。「まだライ麦しか読んでいない」という方はこの機会に読んでみても。
あなたは映画からいくつ見つけられるでしょうか?
作品も謎の多いサリンジャーですが、それ以上に謎が多いのが彼自身の生涯です。作家を早々に引退し、隠遁生活を送るなど、作品の知名度に反比例してメディアの前に姿を表すことが少なかったサリンジャー。その希少な情報を集めた本が『サリンジャー ――生涯91年の真実』です。
- 著者
- ケネス・スラウェンスキー
- 出版日
- 2013-08-01
「死後初めての伝記」と銘打って出されたものの、家族関係も含め秘密が多いため、断片的な事実を時代背景などと繋ぎ合わせながら書かれたものになりますが、そもそもわからないことが多いため、ファンの間では評価の高い書籍です。今回の映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』はこの本を元にしています。
伝記の読みどころでもある、サリンジャーが物語を書き始めるまでや、初めて雑誌に掲載されるまでの恩師とのやりとり、そして戦地におもむいてからまた作家として復活するも数作の出版後に隠遁生活に入るまでを、アンニュイさを醸し出したニコラス・ホルトが演じています。 「翻訳の違うもので読んでみる」「影響を受けている文学・漫画もチェックしてみる」など読み比べの楽しいサリンジャー作品。この機会に映画と作品の味わい比べも楽しんでみては。
サリンジャーとその周囲の人々がそれぞれ抱えていたコンプレックスなどファンならうなずける要素も多く含まれています。映画を見たあとはまた作品が読みたくなり、作品を読むと映画にでてくるサリンジャーのセリフを細かくチェックしたくなる、無限ループにはまってしまうこと間違いなしです。